【Book Review】記録魔・小川紳介の素顔――『幻の小川紳介ノート~1990年トリノ映画祭訪問記と最後の小川プロダクション』 text 中野理惠

 1990年、世界は広く、ヨーロッパは憧れの地だった。
 本書は、編者にして発行元である大阪の映画館シネ・ヌーヴォのオーナーである景山理さんが、30年前に小川監督から託された膨大な原稿をもとに編集した一冊であり、内容は、書名の通り1990年11月9日から17日の期間に開催された、イタリアの第八回トリノ映画祭での特集<1960年代の新しい日本映画>での自作上映のために、現地を訪問した小川監督自身による記録が中心である。監督以外の執筆者は、トリノに同行した映画評論家、山根貞男さんによるエッセイを始め、蓮實重彦さん、鈴木一誌さん、監督の連れ合いである白石洋子さんの喋り書き、上野昂志さん、監督の製作を支えたプロデューサーの伏屋博雄さん、神戸映画資料館館長の安井喜雄さん、山形国際ドキュメンタリー映画祭の元事務局長・矢野和之さんと、映画界の重鎮揃いだ。

 何よりも監督が実に詳細にわたり記録していることに驚いた。トリノの街のどの通りを誰と歩き何を見て、何をいくらで買ったか、何を誰と一緒に食べ、どれだけ支払ったか。まさに記録魔である。<タイの蒸しもの、トマトソース添え。きのこ(トリュフ)と年代ものパルメザンのサラダ。パンプキンとアーモンド入りのトルテッリ。スズキとエビのバターソース。ナシの砂糖煮・チョコレートケーキ・アンズのシャーベットの三点盛り合わせ。コーヒー。>等々、未知の料理名も出てくる。テーブルに供される度ごとに、目を皿のようにし、好奇心に満ちた眼差しで料理を見つめる監督の姿が目に浮かぶ。食事をしながらフォークを置き、通訳を介してメモを取っていたのだろうか。会期中に開催されたシンポジウムについても誰が何を語り、自分はどう思ったか、と実に細かい。就寝前にデスクに向かい、その日に撮影したフィルムの繋ぎを考えるように、朝からの一日を回想していたのだろう。記録映画作家の面目躍如としか言いようがない。見事である。

 本書で展開される監督の映画論中<映画への肉体化>が興味深い。新東京国際空港建設反対についての農民の闘いぶりを求めて入ったところ、その闘いが農と密着し、風土への深い理解により成り立っていると気づくが、それをフィルムに写し取っていないのではないか、との疑問から撮る側の感性に思いが至る。簡略して引用すると<農の基本は生き物を育てることであり、環境と条件に縛られながら、微妙に屹立し、和解し、農とはこの関係性を無視しては成立しない。この関係性から生まれる労働は、ある何かを生み出す創造の喜びを内包しているのだが、この「創造の喜び」がなかなか描けない>と理解し、<撮影する側が生き物の屹立や和解を知らなければならない>との結論に達し、自分たちで農作業をしようと、1974年、山形に向かう。その後、『ニッポン国 古屋敷村』や『1000年刻みの日時計 牧野村物語』などを完成させていく。いずれも傑作である。

 監督についてのプライベートな感想としては、<話し始めると止まらない人>である。何かの折に杉並の事務所で試写を見た後、監督が話し始めて、途中「ナカノクンもね」と突然こちらを向いて言われたことがあるのだが、何を指摘されたのかは覚えていない。ずっと監督がひとりで喋っていたのに、聴いているこちらが飽きなかったことだけは覚えている。

 当時の小川プロについては忘れようもない記憶が残っている。プロデューサーの伏屋さんが金策に走り回っていた姿である。本書中でご本人が述懐しているように、伏屋さんは製作資金集め担当として、文句も言わずに製作を下支えしていた。恐らく監督の製作姿勢への敬意があったのだろう。例えば私の場合、1980年代ごろに勤めていた会社で賞与が支給されると、どこからその情報を入手したのかを知らないのだが、「お金を貸して」の電話がかかる。当時、フィルムでドキュメンタリーを製作するのには、大変にお金がかかった。どう低く見積もっても現在の数十倍以上になるだろう。小川プロも華々しい作品の陰で、資金繰りに苦しんでいたのに違いない。一度など、当時暮らしていた都内のはずれにあったアパートまで「受け取りに行くよ」と言うではないか。実際に<借入証書>を携えて、気軽にやってきた。その証書をずっとオフィスの事務机の引き出しに保存しておいたのだが、「どうせ、戻らないのだから」と処分してしまったのが残念でならない。残してあったら本稿と共に掲載できたのに!最後に一言。貴重な記録を出版してくれた景山さんに感謝を伝えたい。

【書誌情報】

『幻の小川紳介ノート~1990年トリノ映画祭訪問記と最後の小川プロダクション』
小川紳介+小川洋子著 編集:景山理
発行:シネ・ヌーヴォ 発売:ブレーンセンター 2022年2月発行 2200円 A5並製 256p
ISBN 978-4-833906-21-0

【著者プロフィール】

中野理惠(なかの・りえ)
1950年静岡県出身。1987年に㈱パンドラを設立し、映画・映像の製作・配給、映画とジェンダー関連の出版を業務として現在に至る。近年の配給作に『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』(2017年 ロシア/カレン・シャフナザーロフ監督)『我が心の香港 映画監督アン・ホイ』(2020年 香港/マン・リムチュン監督)『夏時間』(2019年韓国/ユン・ダンビ監督)、最新作『メイド・イン・バングラデシュ』(2019年 バングラデシュ/ルバイヤット・ホセイン監督)は、4月16日から岩波ホールにて公開予定。共同製作・配給に『この星は、私の星じゃない』(2019年/吉峯美和監督/ハリウッド女性映画祭他正式出品)等。著書に『すきな映画を仕事にして』(2019年/現代書館発行)等。