【Review】天皇と棄民 『フタバから遠く離れて』 text 加瀬修一

「舩橋淳監督にインタビューしてみない?」、久しぶりにneoneo編集部の若木康輔さんから電話があった。「また~、なんかプロレス的に面白くしようとしてるでしょ?」と私は軽く応じた。と言うのも、以前「映画芸術DIARY」というサイトで、舩橋監督の前作『谷中暮色』をその年の年間ワースト10の1本に挙げたことがあったからだった。

詳しくはこちら→http://eigageijutsu.com/article/131154965.html をお読み頂けたら幸いだが、簡単にその理由を挙げると、ドキュメンタリーとして十分面白く成立する題材を、制作条件からかフィクションを無理に織り込んだように感じられたこと、その噛み合わなさを強引にスタイルでまとめたような違和感が強かったことを書かせて頂いた。語るべきものがあるからこそ苦言を呈した、その私の気持ちは当時も今も変わりはない。「いやいや、この映画はなにか一味違う気がするんだよ。もしインタビューをするなら、かつて同じ監督の映画をワーストに挙げたあなたがやったほうが、いい緊張感が出ると思うんだよね」と若木さんは続けた。私も面白そうだと思いつつ、安請け合いはできない。「企画としてはよくわかります。とにかく拝見しないと何とも言えないんで、観てから考えさせてもらっても構いませんか?」と伝えると、「もちろんいいよ、観てもらってから相談しましょう」ということになった。映画のタイトルは、『フタバから遠く離れて』。

©2012 Documentary Japan, Big River Films

『フタバから遠く離れて』は、福島第一原発の事故後、町全体が警戒区域となったため、1423人の住民が丸ごと埼玉県の廃校(旧騎西高校)に避難することになった福島県双葉町の人びとの生活を見つめ続けたドキュメンタリーである。映画の冒頭、テロップの一文に「現代のノアの箱舟」とあった。その後に続く美しい桜のカット。正直カッコ良過ぎないかと思った。さらに続く避難所の様子も既視感が強く、一瞬不安がよぎった。

しかし、ほどなく国旗ならぬ鯉のぼりがはためく中、天皇と皇后が避難所を訪問するシーンにそんな思いは払拭される。TVでよく見かける必要以上にかしこまったナレーションで「大変な思いを余儀なくされている人たちを看舞う天皇と皇后のお姿」という縦の関係性ではなく、「心配して訪ねてきたやさしいおじいちゃんとおばあちゃん」と避難所で生活をしている子どもたちとが横並びの関係として映っていた出色のシーンだった。一時帰宅した住民をとらえた映像に漂うただならぬ緊張感と変わり果てた故郷の姿には、「忘れられること」の恐怖が透けて見えた。

双葉町の井戸川町長は、カメラに向かって静かに語る。「世界各地にいっぱいいる自分の住むところを追われた民族。この方たちが、いまどういう思いをして片隅で生活しているかということが嫌というほどわかるようになった」と。この言葉にはたと気づかされる。この映画は昨今ジャンルとして括られるほど公開されている「震災映画」でも「原発映画」でもない。住む土地を奪われ、コミュニティを破壊された人々を描いた「難民映画」だ。日本はいま、自国に難民を抱えている。


©2012 Documentary Japan, Big River Films

小松左京の『日本沈没』は、高度成長が停滞期に入った1973年に刊行された大ベストセラーSF小説だが、発表当時に著者は以下のような発言を残している。「当初の構想では、日本民族の流亡記まで及ぶつもりが、すっかり前半で足をとられてしまったので、とりあえず沈没までを一区切りとする」。再読してみると、確かに当時最先端の科学データの説得力や日本が消えてなくなるといったスペクタクルな要素はもちろんなのだが、登場人物の心情や人間のもつ情感を描いている部分にこそ力が入っていて、生きてきた土地を失いこの地球上に散り散りになった時、日本という国、日本人という民族は生き残ることができるのか、ということが最大のテーマであることがわかる。また約40年前に出版されたこの小説は、日本が沈んでいくとはすなわち、民族の精神が少しずつ荒廃していくさまの暗喩に他ならないことを告げていたのだと思う。ではさらに40年経って、どこまで精神的に日本は沈んでしまったのか。

会議の席で「公務がある」と次々席を立ち、その場を去っていく大臣たち。この会議は重要な公務ではないのだろうか?デモで「住んでいた家に帰せ」「故郷を返せ」と声を上げる双葉町民。その後に「そんなこと、できっこねぇことはわがってんだ」とつぶやく町民のやり場のない思い。その叫びに言葉で答えようとしない国会議員たち。なんで拍手と握手なんだろう?その姿に怒りがわくと同時に、そんな議員を選出していることがやるせなくなる。

「原発の補助金が無ければ地域経済が成り立たない」という意見がある。だが本来、地域経済の振興と原発の建設は別に考えなければならないのではないだろうか。その土地にいまどんな産業があるのか、なにをすれば産業が成り立つのか、観光事業や国内外の企業誘致の模索も含め、経済の問題としてもっと可能性を探る必要があると思う。米軍基地にも通じる「依存」を生み出す政策こそを変えなければならない。「原発が無ければエネルギー供給が立ち行かなくなる」という意見もある。原発以外の方法は本当に無いのか、具体的にどれだけ不足するのか、それでどう生活に影響が出るのか、具体的なアイデアや施策、試算が何故出ないのか。もっと対話をして衆知を集めることができるはずだ。「円滑な電力供給ができなければ、経済が停滞する」という。もちろん生きるうえでお金は大事で重要なのは、毎日小銭を数えて生きているから十分わかっている。それでも、いのちより大事な経済ってなんだろう。

最後に井戸川町長は「原子力発電所は、功罪の罪の方がもの凄く大きいといまは考えている。誘致そのものは失敗だったと思います」と語った。この発言には大変な覚悟があったと推察される。井戸川町長とその言葉を引き出すまで真摯にコミュニケーションを取り続けた舩橋監督に心からの敬意を表したい。さらに続いた言葉「全く放射能にまみれてない東京の方たちが栄えたんですよね」が痛烈に突き刺さってくる。警戒区域に置き去りにされた(残さざるを得なかった)牛の屍骸が累々と横たわる牛舎の光景。それは未だに原発に依存し続ける私たちの未来を予見しているかのようだった。

いまこの国は、天皇から子どもまで原発政策の抱える問題の「当事者」である。だからこそ、ニッポンから遠く離れた視点でこの国の構造と民族を見つめ直し、考え直さなければならない、「何故それでいいのか」と。『フタバから遠く離れて』は、流浪の民となってしまった双葉町民の怒りと悲しみを静かに描きながら、深く力強く私たちにそのことを訴えている。

これ以上、棄民の歴史を更新してはならない。

さて、ここでいまこの原稿を書いているということは、私は監督にインタビューをしなかったということになる。腰が引けたんじゃないのか、と思われる方もいるかも知れない。ただ映画を観て、監督にお訊きしたいことが浮かばなかった。いや、正確には映画に監督の考えや想いがしっかりと描かれていて、インタビューが確認作業にしかならないと思った。そんな意見に「じゃあさっそくレビューに切り替えましょう!」と快く応じてくれた若木康輔さん、貴重な機会を下さったneoneo編集部にあらためて感謝したい。

技巧を駆使したことで題材の魅力から遠く離れてしまった前作から、対象に寄り添わず向き合い、見つめ続けることで、より監督の映像作家としての感覚が研ぎ澄まされて発揮された『フタバから遠く離れて』。こういう形で舩橋監督と再会できたことが嬉しい。

©2012 Documentary Japan, Big River Films

【作品情報】 

『フタバから遠く離れて』
2012年/日本/96分/HD/カラー
監督:舩橋淳 プロデューサー:橋本桂子 撮影:舩橋淳、山崎裕 音楽:鈴木治行
テーマ音楽:坂本龍一「for futaba」 出演:双葉町のみなさま、双葉郡のみなさま
製作・配給:ドキュメンタリージャパン、ビッグリバーフィルムズ
宣伝:bond production k.k 宣伝協力:playtime

10月13日(土)よりオーディトリウム渋谷ほか全国順次ロードショー
→当初26日までの2週間限定公開の予定でしたが、連日の好評につき、11月9日まで
続映決定。(11月3日・4日は休映)

公式サイト:http://nuclearnation.jp/jp
劇場HP:http://a-shibuya.jp/


【執筆者プロフィール】

加瀬修一 (かせ・しゅういち)

1973年生まれ。contrailの名義で、映画の上映企画・宣伝を主に行う。今後は、宣伝作品『とめ子の明日なき暴走』『愛のゆくえ(仮)』『あるいは佐々木ユキ』が公開を控えている。また初めてプロデューサーとして参加した作品『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』も12月にシアターイメージフォーラムにて公開される。