【Review】ドキュメンタリー版『天皇の世紀』 ドキュメンタリスト伊丹十三を再、もしくは新発見! text 皆川ちか

大佛次郎『天皇の世紀(1) 文春文庫


映画監督であり、俳優であり、父親は『無法松の一生』で知られる脚本家にして監督の伊丹万作であり……。伊丹十三について、ここまでは多くの方がご存じだろう。エッセイストであり、翻訳家であり、商業デザイナーであり、雑誌編集者であり……。ここまでご存じならば、映画人以外の伊丹伊十三についても、きっとお好きな方だろう。

では、この多才にして博識家かつ希代のディレッタント、伊丹十三がドキュメンタリー制作者でもあったことは、ご存じだろうか。よしんばご存じだとしても、残念ながら書籍や映画やドラマとちがい、ドキュメンタリー番組との出会いは一期一会。DVDどころか再放送の機会すら与えられないこの状況で、ドキュメンタリストとしての伊丹十三は、特に生前に触れることのできなかったファンにとっては幻のごとき存在だった。

それが今夏、日本映画専門チャンネルにて、彼がホスト兼レポーターをつとめ、演出にも加わったドキュメンタリー『天皇の世紀』(全26話)がドラマ版と併せて放送された。目出度いというほかない。取り急ぎ、大佛次郎による同名原作を読み、第5話目まで鑑賞してみた。

原作の「天皇の世紀」とは題名が示すとおり、天皇の世紀、すなわち明治時代がどのようにして誕生したのか。そして前時代はどのように終焉するに至ったのかを描いたドキュメンタリー文学だ。

ペリーによる黒船襲来から安政の大獄、攘夷運動、大政奉還、新政府樹立、そして戊辰戦争といった歴史的事件・出来事を縦軸に、幕府側や朝廷側、開国派・攘夷派・ノンポリ、さらにそんな日本を第三者の視点から観察する外国人といった多種多様な人間たちを横軸にして、壮大にして俯瞰的な幕末史が大佛次郎の筆によって編み上げられる。

幕末のにおいがまだ残る明治三十年に生まれた作者の視線はフラットで、特定の主人公というものは存在しない。従って、次世代の司馬遼太郎や池波正太郎による前時代へのヒロイズムをベースにした人物中心主義とも、庶民の立場に徹した藤沢周平とも、ビザール派・山田風太郎とも異なる硬質さ、言い換えるならリアリズムが作品全体に充ちている。

潤沢な予算をかけて製作されたドラマ版『天皇の世紀』は、その潤沢ぶりが仇となってか13話で終了するのを余儀なくされたが、それを引き継ぐかたちで企画されたのが、このドキュメンタリー版だ。案内役を務めるのは、ドラマ版では岩倉具視を演じた伊丹十三。これに先立つこと2年前の1971年よりドキュメンタリー番組『遠くへ行きたい』を制作し、そのときに組んだ演出・今野勉、撮影・佐藤利明らとともに本企画に参加。第23話「廃佛毀釈」は、自ら演出している。

放送開始の約半年前に亡くなった大佛次郎が、生前「伊丹くんにすべて任せるよ」と言うほど全幅の信頼を置き、また伊丹十三自身、撮影中は原作本を片時も手放さなかったという。あるときは大佛次郎の分身として、あるときは現代に現れた侍として、またあるときは資料や証拠を元に大胆な推理をめぐらす歴史探偵として、伊丹十三ナビによる本番組は毎回いろいろな趣向を凝らす。


記念すべき第1話は、原作者の、この肉声をもってはじまる。

「テレビの一番本質的な力はなまの真実を伝える事であります。それで多くのドラマの時代劇のように、観てしまってから、『ああ、ばかを見た』ということにならぬよう、私は『天皇の世紀』のテレビ映画をなるべくドキュメンタリーの方向に持っていっていただきたいとお願いしました」

いきなりの釘刺し。これは中途で終わってしまったドラマ版への皮肉か。「ああ、ばかを見た」とはいったいなんのことか。こうした謎を孕みつつ、第1話「福井の夜」は、坂本竜馬が福井藩の財政改革に取り組んでいた横井小楠と三岡八郎を訪ねるくだりをフィーチャーしている。原作でいうと第7巻「客の座」の章の、わずか十四行あまりの部分だが、原作者たっての願いで最初にこのエピソードを扱うことになったという。

勝海舟に弟子入りしてまだ九ヶ月あまりの竜馬が、海運塾の資金を借りに越前へ赴いて横井小楠と接触。竜馬は小楠から何を教わったのか。なぜこのエピソードを大佛次郎は最初に取り上げてほしかったのか。悩む伊丹の前に、地元福井の清水中学校校長・三上先生が現れ、小楠の唱えた重商主義を解説する。

師匠・勝海舟とも共通する、藩を越えて国単位での未来を考える小楠の政策プランに竜馬はいたく感動したのです……と三上先生から教わって、伊丹もまた感動する。小楠から重商主義を教わる竜馬と、三上先生から当時こうした柔軟な考え方を獲得することがいかに難しかったかを教わる伊丹。ここで“歴史”と“現在”が二重構成になり、竜馬を“歴史上の偉人”から、“知らないことを知る喜びを知る青年”へと、私たちとそう遠くない存在として捉えている。ここで再び大佛氏の肉声が福井の夕日に被さる。

「(竜馬は)ほんとうに日本の前途を見ていたと感じられる」

『天皇の世紀』では、いまや幕末史のヒーローと見なされている竜馬をことさら英雄視してはいない。けれど、優れた見識と観察力、なにより当時の社会にあって枠にとらわれない自由な考え方のできる稀有な人物だったことを強調するのは忘れない。それは逆にいえば、枠にこだわり、自由に考えることのできない、思考が硬直・停止している人びとが当時どれほど多く、むしろそれが普通であったことを物語る。そういう“普通の人びと”を、大佛氏(と伊丹十三)は比較的、冷淡に見つめている。

 

それが端的に現れているのが第2話「宵山の動乱」だ。この回では新撰組がブレイクした池田屋事件を扱っているが、序盤で伊丹は「まず申し上げておきたいのは、この事件は歴史的には格別たいした事件ではない」とバッサリ。路面電車に揺られながら当時の攘夷熱を解説する伊丹が窓の外をちらり見て、薩摩藩邸跡の同志社大学を示すと校門には「三里塚・開港絶対阻止・志願せよ」の貼り紙が。勝手知ったる今野勉による演出だ。

長州側の武器商人・古高俊太郎を拷問して、長州が御所に火を放ち天皇を誘拐する計画を立てていると知った新撰組は、長州浪士のたまり場である旅館、池田屋を襲撃。きっと現存されているだろうと踏んだ伊丹十三が池田屋跡を訪ねると、予想に反して一階はケンタッキーフライドチキンに。そして池田屋は四階でモダン焼き屋さんになっていた。

あたかも呆然としている態の伊丹の横を、新撰組隊士に扮した俳優達が走り抜け、“モダン焼 池田屋”を襲撃。烈しい斬り合いを展開するが「……というようなことを、大佛さんは一行も書いてはおられない」と伊丹は語り、あの有名な池田屋事件を坦々と記述した理由をこう推理する。

「幕府の秘密警察をつとめる新選組も、攘夷を唱える長州側も、次の日本をどうするかに対してなんら明確な見通しを持っていなかった。それがこの事件を派手な割合に、次元の低いものにしているのでしょう」

伊丹は自分の推理を裏づけすべく、朝日新聞「天皇の世紀」担当者に電話をして、大佛氏は代表作「鞍馬天狗」の頃から新撰組には非常に詳しく、にも拘わらず新撰組と池田屋事件をかくもあっさりと扱っている理由を問う。そして担当者との会話から、このようにまとめる。

「『天皇の世紀』とは、先の見通しをちゃんと持っていた人への讃歌のようなものであって、(大佛)先生のお気持ちとしては、維新の長州とか新撰組とか、いわば政治的な白痴の争いというものには、あまり大きな歴史的価値をおいてらっしゃらなかったと」

そしてこの回は、新撰組でも長州浪士でもなく、殺戮の場となった池田屋の主人、市井の人間である池田屋惣兵衛が縛せられ、甚だしい拷問により獄中死する、と綴った桂小五郎の手記で終わっている原作に倣い、その一節を朗読して幕を閉じる。

 

第3話「嵐の中の御所」では、京都御所のなかに初めてムービーが入ることを許可され、当時の天皇はじめ公家の生活を、衛生・食事・セックスといった実際的な観点から専門家に尋ねる。実際的観点であるがゆえに、当時の貴族階級がこんにちの私たちから見て、徹底して束縛された生を強いられていたことが浮かびあがってくる。

「実に無防備な建築。攻めようと思えばこれほど攻めやすい建物はない」と、感慨深げに感想を述べたすぐあと、伊丹は続ける。

「では、外からの力になにをもって対抗するかといえば、権威であり、身分であり、位。御所というのは、そこを訪れる人の身分の低さを、そして天皇の位の高さを嫌というほど思い知らせるように、建物自体ができている」

無防備だから攻めやすいのではなく、権威があるから防御する必要がない、と解釈する伊丹。この逆転の発想は、後に傾倒する岸田秀の精神分析理論とも相通じる。

 

蛤御門の変を扱う第4話、5話「禁門の事変」では、前半は長州藩がなぜ謀反としか言いようのない行動に走ったのかを検証し、後半では原作で信頼できる証言者として登場する一長州藩士が語る現場という形をとっている。周縁にいる人物の目をとおして私たちが現在“蛤御門の変”と呼ぶ武力衝突を見直し、捉えなおす。

印象的なのは、敗軍の将・真木和泉に対して、大佛も伊丹も驚くほど冷たい視線を投げかけていることだ。十六人の同志と共に天王山へ逃れ、もはやこれまでと全員割腹するのだが、軍議で突撃にためらう穏健派の若者たちを恫喝して自説をとおし、結果、死をもたらすことになったこの過激派の老人を、ほとんど老害と見ている。真木和泉の辞世の句「おほ山の峰の岩ほにうめにけり わが年月のやまとだましひ」を、大佛次郎は「死よりも強い自己執念のほかはなかったようである」と評し、伊丹は真木らの墓前に足を運ぶ。季節は夏。山中の墓碑を前に佇む男と、悲しげに啼く五月蝿いほどの蝉の声。

新撰組を“政治的な白痴”と評し、生涯で二度しか御所を離れなかったという孝明天皇(明治天皇の父)の攘夷論は「無知と恐怖心に基づいたものだった」と伊丹十三が語るように、原作に通底していた歴史(と歴史的人物たち)に対する批評精神は、ドキュメンタリー版にも漲っている。歴史作品が往々にして陥りがちな判官びいきと、それによる思考停止。大佛次郎の言う「ああ、ばかを見た」とは、これを指しているのではないだろうか。

判官びいきと思考停止に陥ることへの、敢然たる拒否。これはそのまま伊丹十三が生涯を賭して、自分自身を呈して、おそらく最後の最期まで譲らなかった矜持そのものでもある。彼は本番組のテーマをこう語っている。

「日本人がいかに歴史から学ばないか、に尽きるだろう」

伊丹十三が映画『お葬式』をつくるのは、この十年後のことだ。



 

【番組情報】

『天皇の世紀』(TVドキュメンタリー・全26話)
1973年10月7日(日)〜1974年3月31日(日)放送/22時台30分枠/全26話

制作:朝日放送・国際放映
放送:TBSテレビ系列

主演: 伊丹十三(レポーター) 高橋昌也(朗読)
構成:岩間芳樹 本田英郎 蔵原惟繕 大熊邦也 伊丹十三
演出:今野勉 大熊邦也 蔵原惟繕 黒木和雄 下村堯二 伊丹十三

第11回ギャラクシー賞、第14回放送作家協会賞 受賞

※2012年8月13日〜17日 日本映画専門チャンネルにて全26話を放送(初の再放送)

【執筆者プロフィール】

皆川ちか(みながわ・ちか) 
ライター。1977年新潟県出身、東京在住。『まいにちハングル講座』(NHK出版)でコラム「韓国映画にハマりませんか?」、隔月雑誌『韓流旋風』『韓流ラブストーリー完全ガイド』(コスミック出版)でコラム『韓国イゴチョゴ』を連載中。