いつもお題は特に与えられずに、思うままに書きなさい、と自由に書かせていただいている本欄だが、何が根本的な理由なのかは、自分自身でも不可解なのだが、まったく言葉を紡ぐことができないまま月日が経ってしまった。いつもどこかで書き上げなければ、という負い目も抱え込んでしまっていて、ますます袋小路に陥ってしまった今回の原稿への取り組みも12月から3月へと時が過ぎていた。というところから、ひとまずはじめてみるしかないのだと思い、現状を吐露している。
この立ち止まってしまったことの要因のひとつは、ドキュメンタリーや映画について、自分の関わりや関心がここ数ヶ月なのか、数年なのか、はたまた元からそうだったのか、散らばってこんがらがったまま、言葉や文章の中に呼び込めないという状況が続いているからだろうと思う。
それは自分自身がもつ、漫然と生きる、つまり漫然と作品を見るということへの不安、から生じているのかもしれない。コーナータイトルとしてあげられている、ドキュメンタリーや現地の上映情報などを発信する「列島通信」からも遠く離れているのかもしれないが、むしろ東京にいると、あまりにもたくさんの作品群の情報に囲まれて、なんだかそういった不安めいたものの振幅は尋常ではなく、時にどんどん増幅して抗いがたいくらい有象無象に迫ってくる不可解な感覚にさらされている、この身体に気づかされる。
同時にこの身体でもってみて、感受できるものを心の底から、求め、望み、生きている人たちが少なからずいるのだろう、ということを信じたいし、自分の芯のようなものと苛烈に共鳴してくれる作品と出会うことも信じ、過剰に望んでいる。が、それは、足を運ぶ、ことからしはじまらないのだろう。
そういった場は、現実と向かい合っている表現と出会い、そうして私自身が現実と向かい合っている時にしか、生じ得ない衝動の交差点なのかもしれない。
交差点を求めてうろうろしている中で、映画館ではなく美術館という空間で出会った作品について触れておく。
ひとつは、ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェスの『MU[無]─ペドロ コスタ&ルイ シャフェス』展(原美術館で3月10日まで開催)。本展は、強固な精度をもって作品を提示し、観るものが奇妙に落ち着いた気持ちで、作品と向かい合う時間を演出していた。静謐な思考の時間。
作家たちのステイトメントにあるように、かつて個人邸宅であった「住まいとしての記憶が存在する」美術館の中で、コスタによる映像の<動>とシャフェスによる彫刻の<静>が対峙しそれによって生成される緊張感に、鑑賞者である自分が影のように佇むことを反射的に意識しながらそこに立ち会うことになる。
ふたりの作品の対立はけっして相容れないものではなく、ふたりという関係性の上に置かれている。それは、ふたりが引用した老子の言葉で「家は窓や扉のある壁から成り立っているが、実のところ、その内にある空虚こそが家というものの本質である」と語られるように、両者の作品が原美術館のもつ「家」の記憶の中に、自らの作品が表出する「記憶」を持ち込み、鑑賞者を誘う「空虚」を演出しているともいえる。
コスタの作品は日本でもこれまで広く紹介されてきたが、シャフェスの作品をまとまって見られるのは初の機会となる。シャフェスは鉄を扱う彫刻作家で、今回展示されていた作品の多くが、鉄という重く堅いマテリアルを使いながらも、軽やかな丸みを帯びたフォルムをしているので、その弧を描くような造形は、しなやかなで延び延びとしている。宙に浮いているような「香り」「虚無より軽く」といった作品と、大きくとも抽象性高く緻密な「私が震えるのを見よ」「私は寒い」。同じ展示室内にコスタの映像作品が投影されていると、これらの関係性を部屋と部屋を移動しながら考えていくこととなる。
コスタは、『溶岩の家』『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』、そして制作中の新作から素材を使用した「アルト クテロ」を含め、美術館用に新たに作品を撮影するということは行っていない。しかし、声、咳、風、工事現場、等々、コスタの映画作品に欠かせない<音>の存在がこの美術館の中に確かに存在している。
そして、シャフェスの彫刻とコスタの音を含む映像の重層的な響きあいは時空を広げ、これらの作品が完成するまでの膨大な時間や記録も孕むような場——「無」とも「空虚」ともいえるような——に直面していることを観る者に感受させ、ほのかに光差す思考の道しるべを示されている気持ちになる。この謎めいた体験は鑑賞者自身が足を踏込まねば生じることのないその場限りの詩的なものだ。
そして、今年第5回を迎えた恵比寿映像祭での一プログラムとして開催されていた川口隆夫の『a perfect life — vol.6 沖縄から東京へ』を、現在映画製作準備を行っている沖縄で反芻する。自分について語る、をテーマにさまざまな土地で行ってきた「a perfect life」の第6弾で、2011年4月に沖縄で制作した前回の構成を下敷きに、それからの時間と、沖縄と東京という場所性もとりこみながら新たに構成されている。
作家自身の言葉で語られる自身のこと。今回は、死の匂いを予感させる不穏な気持ちと、病を能動的に生き、生を希求するという誰しも抱えうる矛盾した気持ちを、時間軸も自在に物語と映像、音楽とダンス、そして照明を交錯させ美しい舞台を作り上げた。2年前の沖縄公演は、東日本大震災と原発事故直後の未曾有の状況下、死を扱うことの躊躇や模索としてあらわれていたものが、いま東京へと辿り着き、新作へと収斂され、しかもその過程の中で、いまの沖縄で起こっていることへの目配りもされている。
ある混沌の中、息を吸うだけで必死だったものが、その混沌をも内包し自らの身体から新たな生を生み出そうとしてしまうほどに。もちろん、それは混沌を消化したとか克服したとかというようなことではなくて、より強固に作品化された、ということではなかったろうか。
新聞紙を切り裂くこと、車をもたない川口が沖縄を移動する手段として選択した自転車でのスタジオ通いや島内巡り、そして水、ベッド、リンゴやポップコーン……。いくつかの鍵となる小物たちは何の根拠もなくそこにあるのではなく、川口の生活に基づいて集められた記録のようなものでもあって、本パフォーマンスは、それらが川口の身体と共に毎回紡がれていく。映像祭会期中に9回のパフォーマンスを行っているが、それぞれが毎回ライブであるわけで、恵比寿映像祭が今回のテーマとして掲げている「ダイアリー」とも言い換えられる。
私自身について語ろうと思う
普段の生活 身近な出来事 家族や友人たち
私の生活の細部が世界の諸相を映し出す
そのために私はいったい何をどのように
話し始めればいいのだろうか
「a perfect life」の序文として、川口隆夫が投げかける言葉は、そのまま私たちに対して、私の、私たちの生活、社会との関わり合い方への謎掛けのようだ。
川口のセルフ・ドキュメンタリーともいえる「a perfect life」は、次はどこの土地で関係性を築き、作品に実を結ぶのか。
ここに紹介したコスタ&シャフェス、川口、まったく異なる作品を提示しているも、けっして一様ではない<その先>をも予感させてくれる。そういった作品たちとの出会いを歓ぶと同時に、特に2年前の川口隆夫の沖縄公演での出会いや共にあった時間へと思いを巡らし、時の流れを痛感しながらも、3月11日を目前にして、この日本で「変わってないこと」の重さを苦く噛み締める。
※ ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス『MU[無]─ペドロ コスタ&ルイ シャフェス』展
2012年12月7日~2013年3月10日 東京・原美術館にて開催
こちらの記事も参照
※川口隆夫『a perfect life — vol.6 沖縄から東京へ』
2013年2月8日〜24日 第5回恵比寿映像祭 (東京都写真美術館)にて開催 http://www.yebizo.com/#pg_ex17
【著者プロフィール】
濱 治佳(はま・はるか)
2000年より山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局/映画配給会社シネマトリックススタッフ。映画・人・場を草の根的につなぐ活動を東京/沖縄で展開中。現在、高嶺剛監督の新作『変魚路』を沖縄で製作中。まもなく撮影開始です。