【Review】 『3月11日のマーラー』 美談の圧に潰されないために text 皆川ちか


ドキュメンタリー、とりわけテレビ放送用のドキュメンタリーには、フィクションさながらの物語性がある。起承転結の起から結に向かって、膨大な映像、たくさんの言葉の中から、各展開にふさわしい部分を抜き取り、さらにナレーションで作り手の目指す方向へと観る側を誘導する。うつむいていたら、悲しい。目をつむっていたら、物思いにふけっている。ひょっとしたら被取材者は眉間にしわを寄せながら、深刻な考えごとをしているのではなく、深夜ドラマ『孤独のグルメ』の松重豊のように「今日は何を食べよう?」と熟考しているのかもしれない。しかしマンガやドラマなどのフィクションとちがい、ドキュメンタリー、とりわけテレビ放送用のドキュメンタリーでは、表情と内面はおしなべて一致する。人間は悲しいときに涙を流し、楽しいときに笑顔を浮かべる。そういう風に見なされて、そういう風にできている。
よしんば被取材者が、曖昧な表情を浮かべて物語化されることを拒んだとしても、ナレーションでいかようにも上書きは可能だ。極端な話、作り手がそこに怒りの感情を求めるなら、被取材者が穏やかに微笑んでいたとしても「込み上げてくる憤りを、微笑で覆い隠します」といったナレーションを入れることで、たちまち怒りはつくられる。そういう意味で、ドキュメンタリー作家・森達也がその著作で言いきっているように、〈ドキュメンタリーは嘘をつく〉。それに倣って言うならば、ドキュメンタリーは物語化される。作り手の、作為という名の演出によって、表情は感情となり、事実の欠片はつなぎ合わされて物語となる。









 
※すみだトリフォニーホール、写真は番組のものではありません(撮影=若木康輔)

“あの日”からちょうど一年後となる今年の3月11日前後は、テレビ東京を除く民放・公共放送で、数多くの震災特集が組まれた。NHK『3月11日のマーラー』もまた、その一本だ。明らかにただ事ではない地震が発生した“あの日”、東京墨田区のすみだトリフォニーホールで、新日本フィルハーモニー交響楽団が、刻一刻と状況が変化していく中で、それでも(だからこそ?)演奏会を決行した模様を綴ったものだ。イギリスからやってきたダニエル・ハーディングの指揮のもと、楽団員はマーラーの「交響曲第5番」を演奏する。1,800席のチケットは完売。しかし当日、会場にやってきた客は105人。
劇場スタッフによって撮影されていた当日の公演映像や、会場へ向かう途中で地震に遭ったハーディングへのインタビューを交えた再現映像、そして演奏会にやって来た観客たちの感想など、演奏する側と鑑賞する側、さらに劇場スタッフ側と、様ざまな視点から“あの日”が振り返られる。

演奏する側で軸となるのは、若きホルン奏者だ。新橋駅で電車が止まった彼は、徒歩で会場まで歩き抜く。彼の郷里は岩手県で、大槌町にある親戚の家が津波に巻き込まれたかもしれない。不安を抱えながらも、彼は壇上に立つ。
観客側で中心となるのは、会場の近くに住んでいる曽我さんだ。わが街のオーケストラとハーディングが組むという今回の公演を楽しみにしていたが、会場に着いたとき、客席にはまだ自分以外に誰も来ていない。いつもなら満員になっているはずの会場で、ただひとり。曽我さんは戸惑う。
インタビューのカメラを向けられて、団員も観客も、誰もが“あの日”、それでも演奏会を決行したことは得難い経験だったと思い返す。くだんのホルン奏者は最終楽章の冒頭、ホルン首席奏者が奏でる音に希望を託したと語る。もしもいい音が出たら、大切な人たちはきっと大丈夫と、祈りを込めて。実際、首席奏者は会心の音を出し、彼の親戚は無事であったことを番組のナレーターは語る。あたかも音楽の神様に、祈りが届いたかのように。
曽我さんは演奏会の終了後、“あの日”、心から音楽を楽しんだことに罪悪感を抱く。しかし後日、日本のファンに向けてハーディングから送られたメッセージに救われる。「音楽は、苦しみの大きさを理解するための助けになります」という言葉だ。









※すみだトリフォニーホール内(撮影=若木康輔)

この番組のテーマが音楽の力であることは明らかだ。奏者はもちろん観客も、劇場スタッフも、登場する人びとはみな音楽の力を信じている。だからこそ、終盤に登場するハーディングを囲む観客たちの記念写真に、画面に映っている限り1/4ほどの人びとの顔にモザイクがかかっていることに、「あれ?」と、何か言葉にしにくい、けれど確かな違和感を抱いた視聴者は、私以外にもいただろう。
ケーブル局でもネット番組でもない、公共の福祉のために放送されているNHKの、それも“あの日”に関するドキュメンタリー番組で使いたいからと頼まれて、それでも少なからずの観客が顔出しをNGする理由。はたしてそれは、プライバシーを守るためだけなのだろうか、と。ひょっとしてそれは、“あの日”、音楽を楽しみ、記念写真まで撮った自分への罪悪感。顔を出すことで被るかもしれないトラブルへの用心。そういう空気をかもし出している現在の“がんばれニッポン”というスローガンに象徴される空気への、自衛。「音楽の力」という物語の中に収まり切らない、収まり切れないリアルが、モザイク画像から不意に立ち昇ってきて、そこに私は反応した。“あの日”、すみだトリフォニーホールで演奏会が敢行されたのは、紛れもない勇気だと。しかし、それを美しい物語にするのは、正確に言うなら美しいのみの、音楽の力を信じるだけの物語にするのは、無理があると。同時に、モザイク処理された記念写真という、矛盾した素材を敢えて使用する作り手側の演出にも。ハーディングを中心に、笑顔で写真に写っている人びとの中にぽつぽつと混ざっている、ぼやかされた表情。それらからは、現在ますます氾濫している“あの日”関連のあらゆる物語への、ささやかな警鐘すら感じられる。

絆、つながり、復興・希望といった、前向きであることを前提とする物語の背後に押しやられた、リアルな表情。そういったものを見ず、もしくは分かったうえで目を逸らし、感動や美談を結にもってくるドキュメンタリーをこそ(もちろんフィクションも)、疑ってかかる必要がある。作り手の作為を、目指している物語を的確に、多少斜に構えてでも、読み取る。そうした感覚を覚えなければ、私たち視聴者はいずれ美談という名の圧に押し潰され、笑顔しか許されないかもしれない。

『3月11日のマーラー』 
NHKテレビ(単発) 2012年3月10日 23時00分~23時54分
演出:飯塚純子  語り:袴田吉彦


【執筆者プロフィール】皆川ちか(みながわ・ちか) ライター。1977年新潟県出身、東京在住。『まいにちハングル講座』(NHK出版)でコラム「韓国映画にハマりませんか?」、隔月雑誌『韓流旋風』『韓流ラブストーリー完全ガイド』(コスミック出版)でコラム『韓国イゴチョゴ』を連載中。