【Review】灰色の「日本」の裸像―映画『日本の悲劇』を観て text 中村剛彦

c132155585ae306ecacf0265a1b28427

愚問とも呼べる問いが頭のなかをぐるぐる巡っている。

果たして「日本」という国家は存在するのか。「日本人」は存在するのか。そして「日本人」である前に、一人の「人間」は存在するのか。

あたかも小学生が抱く質問に、私の頭の中の教師が慌てて黒板にこう書く。

回答1:明治23年、「大日本帝国憲法」が施行され、近代国家日本は帝国として誕生した。昭和20年敗戦。昭和22年「日本国憲法」施行、民主国家日本が誕生した。以降現在まで「日本」という国家(ネーション)は存在する。

回答2:「日本国憲法」第10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあるため、国籍法の要件を満たす日本国籍を持つ者が「日本国民」すなわち「日本人」である。

回答3:

最後の回答は書かれないまま教師は教室を去る。あとは宿題である。

問3.「日本人」である前に、一人の「人間」は存在するのか?

私は映画『日本の悲劇』が課したこの宿題に取り組もうと、書棚の奥から一冊の本を取り出して読んでみた。そこにはこのような詩が書かれている。

 いつからか幕があいて

 僕が生きはじめてゐた。

 僕の頭上には空があり

 青瓜よりも青かった。

 

 ここを日本だとしらぬ前から

 やぶれ障子が立ってゐて

 日本人の父と母とが

 しょんぼり畳に座ってゐた。

 

 茗荷の子や、蕗のたうがにほふ。

 匂ひはくまなくくぐり入り

 いちばん遠い、いちばん仄かな

 記憶を僕らにつれもどす。

 

 おもへば、生きつづけたものだ。

 もはやだいたいわかりきった。

 おなじやうな明日ばかりで

 大それた過ちも起りさうもない。

 

 いつのまにか、僕にも妻子がゐて

 友人、知人、若干にかこまれ

 どこの港をすぎたのかも

 気にとめぬうちに、月日がすぎた。

 

 そのうち、はこばれてきたところが

 こんな寂しい日本国だった。

 はりまぜの汚れ屏風に囲はれて

 僕は一人、焼跡で眼をさました。

 

金子光晴『人間の悲劇』(1952年)に収められている無題の詩である。私は愕然とした。一切のまやかしを許さなかった現代日本最大の詩人が刻んだ戦後の誕生したばかりの焼跡の日本と、映画『日本の悲劇』が描いてみせた崩壊へ到らんとする現代の日本とが、その「日本」の二字が持つ不確定性においてまるで一致しているからだ。

「ここを日本だとしらぬ前から/やぶれ障子が立ってゐて/日本人の父と母とが/しょんぼり畳に座って」いる風景、それは映画に出てくる瀕死の父親が、遺影に収まるその妻と対面しつづける姿そのままである。その瀕死の父親と二人で暮らす息子は、知らぬ間に「寂しい日本国」に「はこばれてきた」ように「同じやうな明日ばかり」を生きている。なぜこの詩人の言葉が、今も普遍性を持つのだろうか。

しかし、よく注意して読めば、決定的な違いがあることに気がつく。それは詩の最後、「僕は一人、眼をさました。」である。ここで「僕」は生きるという強い意志を含んでいる。目の前に広がる焼跡は決して絶望の風景ではない。むしろ、希望とも呼べる未来への風景である。そして何よりも「僕」は「一人」である。父も母も妻子もこの一行にはいない。

「僕は一人、眼をさました。」

戦前には「帝国」の支配によって多くの日本人が持つことを許されなかった「一人」という「個」の人間性を、詩人はここで回復させている。

bfbdf53d3349258222490a80508024e1

映画『日本の悲劇』は逆である。一切の未来が剥ぎ取られた灰色の世界である。わずかワンシーンの「過去」のみが色彩をもった幸福の象徴として差し込まれるだけである。そして何よりも「僕」は「一人」ではない。瀕死の父に縛られ、死んだ母と離婚した妻の幻影に縛られ、藻掻き苦しむだけの、夢も希望もない男である。なるほど双方のタイトル『人間の悲劇』と『日本の悲劇』の違いに、この希望と絶望の明暗の違いはよく現れている。「人間」=「個」、「日本」=「国家」の「悲劇」の違いである。この映画は「国家」を描いている。

とはいえ映画の物語それ自体は極めてシンプルな「人間」を描いた室内劇である。死を間近にした父親と、その父親の年金で生きる心を病んだ息子二人が狭い家のなかで引き起こす家族崩壊までの日常を描いたに過ぎない。それにも拘らず、この徹底した室内への凝視が、「国家の崩壊」をえぐり出すのは、家族が日本という「国家」の中枢細胞であることを監督が熟知しているからである。息子は死にゆく父親に叫ぶ。

 「おれを一人にしないでくれ!」

この映画の悲劇性は、この台詞に尽きている。もはや「一人」でありつづけられる詩人はどこにもいない。

b16504481cd8f00403697cfbfa9e1e43

私はここで映画の内容について詳細に語るつもりはない。この映画は、もはや曖昧な批評など受け付けない。すでに映画の内部に、徹底された批評性が組み込まれているからだ。いまここで書かねばならないことは、宿題となっている第3の問い、「『日本人』である前に、一人の『人間』は存在するのか?」への回答のみである。

その前に正直に話そう。私は主人公が、まさに私自身の精神を具現化した人物だと、眼を覆いたくなる思いでこの映画を見た。一度は立派な大人として生きようとしながらも、けっきょくはまともに社会に生きることができず、老いた親の臑を齧りながら生きざるを得ない中年男である。親もまたそのような息子を恥じながらも、息子がいなければ生きてゆけない。この病んだ日本の家族の共犯関係は、この国の至るところに根を張っている。つまり私は、この映画が示すように、「国家の悲劇」の病に冒されているのである。

ならば、私はそのような「悲劇」を甘んじて受け入れるのか。このまま病に冒されたまま死んでいくのか。果たして監督は観る者に何を伝えようとしているのか。この「悲劇」を拒絶し、何らかのアクションを起すべきなのか。詩人のように、「一人、眼をさま」すべきなのか。

39a000ab1ed474ee54d2ba7e6766cde4

今答えられることは、私はすべからく全てのこの「悲劇」を受け入れねばならぬ、ということだ。なぜならこの国の病は、ついにあの「3.11」によって覆い隠すことも逃れることもできなくなったことを、この映画は容赦なく突きつけるからである。真のリアリズムとは虚偽の希望を許さない。俗に言われることだが、映画はプロパガンダの性質を強く帯びた表現形式である。そのため制作者の思想伝達の道具に堕すことが多い。特に商業映画に至っては昨今その傾向が強いように思われる。しかし、過去の映画史を顧みれば、映画のプロパガンダ性を超えんと格闘した監督が少数だがいる。ロッセリーニ、ドライヤー、ベルイマン、溝口……。彼らはみな映画のプロパガンダ性を、「現実」それ自体の力でねじ伏せてきた。この映画はその系譜の尖端に位置するかのようにさえ思える。その演出は、僅か数カ所に置き放たれた定点カメラで撮影された室内劇である。役者が不在であってもカメラは回りつづける。ここで自ずと監督の眼は削ぎ落され、「現実」が最大限にスクリーンに浮かび上がる。

そう、確かに映画『日本の悲劇』は「劇」である。「劇」である以上それは「噓」であり「現実」ではないと言う者もいるだろう。しかし、私たちにとって「本当の現実」とは何か。よく考えれば、この世界はすべてが「虚」に満ちている。その「虚」の「現実」を暴くのが、「映画」である。であるからこそ、定点カメラがじっと捉えた、一見大げさとも呼べる二人の役者が絶叫しながら絶望の縁へ落ち、不気味な不協和音を発しながら消滅して行く影は、逆説的ではあるが、「日本」という「虚」の「国家」のなかで生きる「虚」の「日本人」である私たち自身の紛れもない「裸像」である。

ここまで書いて、第3の問いへの回答は得られたと言える。

回答3:私たちは一人の「人間」として存在し得ない「日本人」という消滅せる陽炎である。
267eda184a9fb935790ef307cb611f25
写真は全て© 2012 MONKEY TOWN PRODUCTIONS


【映画情報】
『日本の悲劇』
(2012年/日本/カラー・B&W/35㎜(DTS)/DCP(5.1ch)/101分)
出演者:仲代達矢 北村一輝 大森暁美 寺島しのぶ
脚本、監督:小林政広
配給:太秦 配給協力:一般社団法人コミュニティシネマセンター
※8月31日よりユーロスペース、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
【公式サイト】www.u-picc.com/nippon-no-higeki


★ 小林政広監督を迎えて立川シネマシティにて舞台挨拶決定!
【日時】9月14日(土)15:45の回上映後、18:20の回上映前
【登壇者】小林政広監督
【場所】立川シネマシティ 立川市曙町2ー8ー5/042-525-1251
http://cinemacity.co.jp/

★小林政広監督を迎えてティーチイン決定!
上映後、小林監督がお客様からの質問、感想に答えます。
ぜひご参加ください~。
【日時】9月15日(日)13:10の回上映後
【登壇者】小林政広監督
【場所】ユーロスペース 東京都渋谷区円山町1‐5 KINOHAUS 3F


【執筆者プロフィール】
中村剛彦 なかむら・たけひこ
詩人、横浜市在住。詩集に『壜の中の炎』(2003年)、『生の泉』(2010年、共にミッドナイトプレス刊)など。黄金町「シネマジャック&ベティ」1階ART LAB OVAの拠点・横浜パラダイス会館にて「詩人と映画とお茶会」月数回開催。詩の電子雑誌midnight press WEB執筆&編集担当。
サイト:http://www.midnightpress