【Review】『祭の馬』(松林要樹監督)クロスレビュー


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あす12/14から劇場公開される、松林要樹監督の最新作『祭の馬』。
この映画は、文字通り「ワケあって、おちんちんがハレちゃったある馬の数奇な運命」を辿る話なのだが、思えばかつて、これほどまでに「馬」をじっくりとみせてくれる映画は無かったかもしれない。馬の表情、とりわけ目をみていると、いろいろな想像が膨らんでくるものだ(もちろん、あの“おちんちん”も)。2011年3月11日以降、この2年のできごとが頭の片隅に浮かんでは消え、千年以上続く伝統行事「野馬追」の復活を見せられると、いつしか思考は人と馬との歴史にまで及んでくる。

福島を舞台をした奇妙な馬の物語は、いま韓国、アムステルダム、ドバイと世界中で人の頭を駆け巡っている。来年は午年。ぜひ皆さんも劇場で、馬をジっとながめながら、自由に思いを馳せていただきたい。
(neoneo編集室・佐藤寛朗)

※本編の結末に触れる記述があります。注意してお読み下さい。

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馬たちの嘶きを聞く                   岩崎孝正

『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』で、松林要樹監督は原発事故直後の、誰もが不安を隠せなかった時期に南相馬へ救援物資を運びにいった。監督は、相馬市内にある旧相馬女子高の避難所で生活しながら、南相馬市内の人々を中心に撮影し、原子力発電所の立地から開発にいたるまでの経過を、当事者たちの言葉で拾いあげていた。

だが今回、相馬看花の第二部にあたる『祭の馬』の主役は馬である。馬房につながれ、津波により傷ついた馬・ミラーズクエストが主人公なのだ。しかも、千年の歴史をほこる相馬野馬追に出場する馬である。なぜ、いま馬なのか。

監督はつぎのようにいう。「人間によって運命をコントロールされる馬の存在をメタファーに、日本という国の矛盾を映しだす」。(パンフレットより)。馬と人。古来より移動手段から農耕にまで使われた馬たちを主題とする意義は、たしかに大きい。

本作の魅力を増している、キャメラの美しいボケ味と色味、また音楽(「風かおる草原 中央アジア」、ウィグルの民族音楽の「山水」)に、まず私は驚いた。冒頭から数台のキャメラを使って、相馬野馬追を撮影する。スローモーションを使った高い技術に、ドキュメンタリーの力を感じた。相馬野馬追の演出が、ただごとではないのは確かだ。

相馬野馬追は、真夏の戦国絵巻と呼ばれている。相馬を代表する祭だ。私も、幼いころ祖父に手を引かれ、町中をねり歩く「お行列」を見にいった記憶がある。宵祭りのさいは、母方の実家で観光客へヤキトリを焼き、冷えたジュースやビールを売っていた。宵祭りの花火(火祭り)の美しさは、毎年、南相馬市小高区の恒例行事となっていた。

冒頭、祭を正面からとらえているが、松林監督は、あくまでも馬(ミラーズクエスト)から相馬野馬追を見ている。ミラーズクエストが相馬の町を闊歩する姿は、かろうじてかつての誇り高い、競走馬としての威厳を保っている。被災しても奇跡的に助かった馬だからこその姿であろう。

朽ちた馬房に二頭の痩せこけた馬がいる。馬は不思議そうな眼差しで監督のキャメラを見ている。ここは、『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』の舞台だった江井の「いととんぼ」近くの馬小屋である。はじめ警戒区域だった場に、キャメラがすんなりと入りこむことに、まず驚く。馬たちは、この馬房から馬事施設(馬の避難所)へと向かうのであった。

本作の大部分は、福島県南相馬市の馬事施設で撮影されている。空間線量が高いため、傷ついた馬たちは、外へ出ることが出来ず、閉じこめられている。馬事施設に暮らしている馬たちを見るのは忍びない。毛はかつての艶を失い、また痩せこけてあばら骨が浮き出ている。狭い馬房で、馬たちは撒かれている藁にころがり、またドラム缶へ与えられる餌を待ち、少しずつ食む。馬房から首だけ出す姿は、まるで自らがなぜここにいるのか、わからないような顔に私には見える。

シンメトリーの構図でとらえられた馬房に、首からエサを欲しがるように顔だけ出す馬たち。私にはそれが、故郷を失い、仮設住宅に暮らす人のように映った。『祭の馬』を観て私が思いだすのは、旧相馬女子高の避難所の、故郷を失った南相馬の人々の姿であり、隣どうし狭い空間に暮らす、仮設住宅へ避難した後の人々の姿だ。

もちろん、南相馬市の馬房と、仮設の住宅とはまったく別である。人を馬に見立てるのも、失礼な話しかもしれない。だが私には、原発事故とその対応に翻弄される馬と、南相馬の人々が重なって見える。馬をとらえながら想起させられるのは、実は、その背後にある町や村の人々だ。動植物、ひいては自然をあつかう人間そのものを、監督は眼差しているのではないだろうか。

監督は、2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』の上映の際、「南相馬では、人を撮影する壁にぶち当たった」と言っていた。今回、キャメラが主にとらえるのは「馬」である。しかし私が想起したのは、やはり「人」なのだ。監督は人に扱われながら、また人を乗せ、人を扱う馬たちを眼差している。

映画で、北海道日高市が一時受け入れの支援がなされると、馬たちはしだいにかつての毛並の輝きをとり戻す。雪原のなかで、馬たちは交流する。馬たちは、野馬追に出場できる日を待つのだ。野馬追いがはじまれば、馬たちは人を乗せて道を駈ける。その姿は、かつての競走馬とはまた別の勇壮さを見せる。私は、忍従の歴史をたどってきた相馬の歴史そのものを『祭の馬』にみる。

祭を終えた馬・ミラーズクエストは、いま江井の「いととんぼ」の近くの馬房に、ひっそりと暮らしている。祭りを終え、静かに暮らす馬たちが、今後どのような運命をたどるのか。馬たちは、食肉にもされずに暮らす。キャメラがクローズアップでとらえる大きな馬(ミラーズクエスト)の眼は、人と馬の切っても切れない関係性を示しているのかもしれない。松林監督のキャメラは、今後は何を眼差していくのか。期待したい。

岩崎孝正 いわさき・たかまさ
1985年福島県生まれ。フリーライター。現在、相馬市在住。「せんだいメディアテーク」の「わすれン!」に参加しています。


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相馬野馬追に生かされた馬               大下由美

自分は南相馬市の被災者の人から、相馬野馬追はいいからぜひ一度見てほしい、と言われたことがある。写真でしか知らなかった野馬追を映像で観られることが、自分にとって、『祭の馬』のいちばんの見どころであった。

ほら貝の音が響く中、陣羽織姿の武者を乗せ、立派な衣装を着けた馬たちが連なって道路を闊歩する光景は時代をトリップさせる。神旗争奪戦では草むらで多くの馬たちが入り乱れ、まるで大河ドラマの戦闘シーンでも観ているようだ。その野馬追に使われた馬が、今作の主役となる4歳馬・ミラーズクエストをはじめとした、南相馬市の特例で殺処分を免れた馬たち。馬たちの雄姿は、彼らがそういった境遇であることをすっかり忘れさせていた。

震災後、被災地の映像や写真で、主人が避難してしまったため飢えで畜舎の中で無残な死骸となった、牛などの家畜を良く目にした。今作も、原発事故による避難指示が出たため馬主はありったけの餌を残していったが、馬は二週間置き去りにされ一部は餓死した。次々と映し出される馬の死骸を見ても、自分は冷静だった。被災地では当然起こり得ることとして既にインプットされてしまっているようだ。

ガイガーカウンターの高い線量。「どんだけ内部被曝しているかだな」と馬主は笑いながら話す。よく現地に残っている人はこのように話すが、笑いごとではない。自身の健康を犠牲にしているのだ。国内の馬肉の生産量第2位が福島県で、競争馬として走れなくなった馬を飼育し、食用としていたということを初めて知る。汚染された馬を売ることもできず、かといって殺すこともできない。「生き物は殺せないもんね、どうしても。かわいそうでしょ、やっぱり」と、収入がない中飼育を続ける。「放射能さえなければ、こんなに苦労することはない」と嘆く馬主。ここまでは、他の被災地を描いた映画や映像でも観られるような光景であった。

しかし、ここから馬たちはとにかく「生きた」。福島県はすべての家畜を処分するよう要請したが、馬主は断った。南相馬市の特例で20キロ圏内の馬たちが馬事避難所へ移った。それは「伝統行事に使うため」という名目の避難。県の要請に従う馬主であったら、市の配慮がなかったら、餓死した馬たちと同じ結末。震災が起こらなくとも飼育された元競争馬はやがて屠畜される運命であったが、彼らは生き延びるのである。

そして、すっかり馬の映画となるのである。野馬追に参加するまでの過程が、丁寧に描かれている。自分はこれほどまでに、映画で馬を注視したことがないかもしれない。厩舎の中にこうやって馬たちはいて、こうやって餌を食べて、飼育員はこう馬と触れ合うのか、と発見する。放牧されてのびのびと走り回る様を観て、馬房に閉じ込められている時はさぞかし窮屈なのだろうなと思う。馬の息づかい、いななき、つぶらな瞳、たてがみ、動く耳…やはり動物は、人間以外の生き物として「命」を感じさせてくれる。親しみが湧いてきて、競馬場でも行って生の馬を見てみようか、という気にさえなる。殺すことができない馬主の心情がわかる気がした。

時折、これは被災した馬だという現実に呼び戻される。痩せてあばら骨が浮き出たままのからだ。作品の象徴であるミラーズクエストのばい菌によって腫れ上がった男性器。津波を経験した馬たちは、神経質になり気が立っていた。放牧された馬たちが嬉しそうに草を食むも、放射性物質が含まれているため放牧が中止になる。一時受け入れ先の北海道へ移送される際、到着時馬へ向けられるガイガーカウンター。そういった紆余曲折を経ての相馬野馬追なのだ。被災直後、馬小屋からカメラへ向かって「おまえら何しに来た」と言わんばかりに、空虚な目をしていた馬たち。放射能汚染があったから、命が継続され、晴れの舞台で立派に花を咲かせることができた。食肉用以下の価値となった馬が、相馬の馬として真っ当に生き抜いた姿であった。

付け加えておきたいのが、作品に使用されている中央アジアの音楽。弦楽器の音色が、馬のいる光景、特に伝統と文化を背負った野馬追によく合っている。日本とは異なる地方の音楽をうまく起用した松林監督のセンスが光る。

最後、馬たちは被災地の馬としての運命を辿ることになるが、悲壮感はない。ミラーズクエストの男性器は見慣れてしまい、神社の鈴と一緒にぶら下がっている紐(「鈴緒」というらしいが)みたいだな、とそれほど好奇にも思わなくなっていた。しかし福島第一原子力発電所と反転したミラーズクエストの男性器が映し出され、ハッとする。撮影し、また馬の飼育ボランティアとして関わってきた監督の、すべての想いが集約されているかのようだ。

反転させたということは、原発の水素爆発時上がった噴煙の形と結び付けたのだとわかる。馬の命をコントロールするのは人間であり、その人間は原子力に振り回される。原子力はコントロールできない。それをわかっていながら抜けられない人間や日本社会の愚かさ。腫れの原因が原発事故と関係があるかは断定できないが、ミラーズクエストの腫れを観るたびに、その愚かさを想起させ、問題提示のメタファーとして観客や社会に植え付けたい。そんな想いを読み取り、少なくとも自分にはしっかり根付いたのだ。

大下由美 おおした・ゆみ 
1976年、埼玉県生まれ。工学部建築学科卒業後、メーカー勤務の傍ら、映画に興味を持ち始める。映画美学校ドキュメンタリー・コースで映画制作を学び、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、映画批評ワークショップに参加。埼玉県在住。

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『祭の馬』の時間感覚              吉田未和

強い揺れのあとにやってきた激しい津波に馬たちの大きな体は飲み込まれた。相馬の馬房で飼われていた全頭が生き残ったのは稀有なことだったが、続いて起こった原発事故のために置き去りにされ、二週間後にはすっかり痩せ衰えて背中の骨が浮き出して見えるほどに痛々しい姿に成り変わっている。馬主の一人が語るように、いったん死の間際まで近づいてしまった馬たちは感情がひどく猛り立っており、耳をつんざくようなかん高い嘶きはまるで悲鳴にも聞こえる。

もともと馬に造詣が深くて馬をこよなく愛する人が、満を持して撮った映像というわけではない。むしろ監督みずからが述べるように「馬に対する絶対的な経験値がなかった」というところに意識的に自分の足場を置いて、はじめはやや遠巻きに、いかにも馴染みのない動物に接するといった感じでカメラを向ける。津波によって大きく崩れた馬房の薄暗がりの中から、馬たちが不安そうな眼つきでこちらを見ている。馬とカメラとの間に柵が渡されていて、互いの視線をしばしば遮ってさえいるのは、その場所からしか撮影ができなかったという以外にもしも理由があるとすれば、この構図が作り手と被写体との関係を必ずどこかで反映しているからに違いない。被災地という場所に対する心理的な遠さも、津波や原発事故という未曾有の災害に対して言葉や表現を探すことの困難も、この一見不器用に見えるカットにすべて表れているように思われる。

本作の全編に言えることだが、作り手はどんな場面でも対象についてあまり多くを語ろうとしない。たとえば馬はなぜ狭い馬小屋の中で寝返りを打つような動作をするのだろうか。干し草を体中にまとわせているのは気持ちがいいのだろうか。それとも怒りや不快の感情からなのだろうか。そういう一つ一つの事柄に解説を加えずに、ただ映し出されるものを黙々と記録する。あるいは、今何をしているのか、その行為にどういう意味があるのかを馬主に問いかけてみたとする。返ってくる答えはしばしば早口で捲し立てるような、訛の強い土地の言葉だったりする。聞きづらくてつい耳をそばだててみるのだが、同じ東北人でもよくわからないことも少なくない。しかしそんなシーンでもたいていの言葉が字幕も控えめに、語られるまま、聞こえるままに再現され、わたしたちはそのペースに否応なく従いながら、目の前で起きていることを了解しようとする。

だがこの曖昧な距離感は、避難所に移された馬たちが次第に生気を取り戻していく過程において、不思議な効果を発するように思われる。体全体が少しずつ肥えはじめ、動きも活発になり、毛並みは艶を増してくる。それにともなって表情もまた最初のこわばったものとは明らかに異なってくるのがわかる。カメラが馬たちに日一日と近づき寄り添うように、わたしたちも少しずつ理解と共感を深めていく。

放牧が開始され、秋晴れの空の下で自然を満喫したのも束の間、草が放射能に汚染されているとして再び暗い厩舎での生活を余儀なくされる。このあたりになると、わたしたちはすでに馬の気持ちをずいぶんと感じることができるようになっていて、注釈や予備知識がなくても、哀しんでいるのか、怒っているのか、または幸せなのかをほぼ的確に言い当てられるような気がする。北海道の日高町に一時受け入れが決まり、広々とした牧場に放たれた彼らが全身で喜びを表現するその姿は、多くの人にただ映像だけですべてを伝える開放感があるに違いない。

この映画はミラーズクエストの再生物語であると同時に、福島の伝統行事である相馬野馬追の復活をもう一つの背景にしている。実際の野馬追の様子と重ね合わせるように、野馬追図の絵巻物のカットが何度も挿入される。細かい筆致で描かれたその絵は、はるか昔からこの行事に興じていた人たちがたくさんいたことを示している。一説には平将門に始まるとも伝えられるこの神事は、もう何世紀も前から馬と人間が作り上げてきた営みだということになる。そこに現在を結びつけることで、長い時をかけて継承されてきた伝統は21世紀の天変地異にも屈しなかったのだ、という広大な歴史観を伝えているとひとまずは言うことができる。

だが、福島で起きた原発事故は、人間が馬とともに築いてきたこの堅固な時間感覚に、いとも簡単に揺さぶりをかけた。いったん大気中や土壌に放出された放射性物質がどのくらいの影響力を持つのか、ある一つの素粒子が人間に対していつまでその力を持ち続けるのか、わたしたちはそんなことを考えなくてはならなくなった。あるいは、仮に原子力発電所を止めるという行為の後に、その土地がただの更地になって人が住めるまでに本当はどのくらいの時間が必要なのか。それは今まで人々があまり考えてこなかったが、実は途方もない長さの先にある未来であるということを、少しずつ知るようになってきた。

野馬追の歴史が持つ意味合いもまた、当然のことながら変更を強いられる。一度でも祭りに使われた馬たちは、神の使いとしてそのまま命を終えることができたはずだった。もちろん、いずれ屠殺という運命が待っていることを考えれば、この神の意味は少しばかり複雑だ。それでも神聖性と屠殺とは微妙なバランスを保ちながらも共存が図られていたであろう。かつては神事に使われて奉納された馬には焼印が押されていたという。震災後はじめて迎える2012年の野馬追では、事故後20キロ圏内にいた証として焼印の伝統が新しい意味を帯びて復活した。相馬にいたという痕跡がある限り、彼らはもうどこにも行くことができない。穢れたものという負の烙印を押されたまま黙って死を待つだけであり、聖者として命を全うするというささやかな夢すら失われてしまった。もしも馬たちにとっての震災以前/以後という見方が成り立つとすれば、震災すなわち原発事故を経た現在とは、神になる可能性を完全に奪われたところにあるものだ。

ミラーズクエストの物語は、わたしたちに不安な問いを突きつける。馬と人間が作り上げてきた歴史と、現在を起点とする放射能の未来と、果たしてどちらが本当に生き延びることができるのか? 時代を超え、次の世代に引き渡されるのはどちらの歴史なのだろうか。永遠と信じていた野馬追の歴史は、塗り替えられてその後どうなっていくのだろう。いささか気が遠くなるような、新しく生まれた放射能(と)の歴史に意気消沈しながらも、次の一手については誰にもまだよくわかっていない。震災以後の日本の心理をたとえばそんなふうにも言えるのかもしれない。ミラーズクエストの奇蹟の再生譚は果たして人間のそれともなり得るのか、映画は多くの余韻を残してわたしたちの内部に刻まれる。

吉田未和 よしだ・みわ
1973年、山形県生まれ。お茶の水女子大学卒業、東京大学大学院修士課程修了(専門は日本近代文学)。現在、オンライン古書店「桜桃社」を運営。山形市在住。

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※写真は全て© 2013記録映画『祭の馬』製作委員会


【映画情報】

『祭の馬』
(2013年/日本/カラー/HD/73分)

監督・撮影・編集:松林要樹
プロデューサー:橋本佳子
撮影:松林要樹
撮影協力:加藤孝信 山内大堂
製作:3JoMa Film/ドキュメンタリージャパン/東風
配給:東風

12月14日より、シアター・イメージフォーラムにてロードショー、ほか全国順次公開

公式サイト:http://matsurinouma.com/