【Interview】ドキュメンタリーだから、届けたいーー第3回うらやすドキュメンタリー映画祭 中山和郎さん

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今日から3日間「第3回うらやすドキュメンタリー映画祭」が開催される。ディズニーランドのお膝元・千葉県浦安市で開催されるこの映画祭は、どちらかといえば「社会派」と目される、硬派な作品のセレクションが特徴でもある。
主催の中山和郎さんは、「浦安ドキュメンタリーオフィス」の代表。映画祭のほかに『南の島の大統領—沈みゆくモルディブ』(2011、監督:ジョン・シェンク)『飯舘村 放射能と帰村』(2013 監督:土井敏邦)そしてヒット中の『60万回のトライ』(2014 監督:パク・サユ、パク・トンサ)などの配給を手がけており、目下、ドキュメンタリーを「観せる人」の最前線を走っている。
「青べか物語」の漁師町、東京ディズニーランド、埋め立て地に立ち並ぶ高層マンション…浦安という個性の強い町でドキュメンタリー映画祭を開くことになった経緯、そして何より、ドキュメンタリーに特化して仕事を続けるこだわり…。聞いているうちに、私の背筋が伸びた。
(聞き手、構成・佐藤寛朗)

 

———まずこの映画祭には、「うらやす」と「ドキュメンタリー」、2つのキーワードがあると勝手に思ったのですが、中山さんがそれぞれと関わったきっかけを教えていただけますか?

中山 僕はもともと関西の出身で、大学で横浜に出てきて、就職してもしばらく横浜に住んでいました。その後、会社が千葉の海浜幕張に移転することになって市川市に移り、結婚を機に、相方が住んでいた浦安に引っ越しました。2005年のことです。だから浦安には、住みはじめてまだ10年経っていないんですよ。

もともと私は政府系の国際協力機関、今でいう独立行政法人で、事務方の仕事をしていました。例えばJICAのような、国際協力的な仕事がしたかった、ということで就職して。海外に行く機会もあるし、英語の仕事もあるしで、それはそれで面白かったんですけどね。

30歳を過ぎて、仕事と自分が思い描いていることのギャップが生じ、転職を考えて、仕事をしながら学校にいくなど、いろいろ模索をしていました。その時は、映画の仕事もぼんやりとしか考えていなかったし、ドキュメンタリーに特化もしていませんでした。映画に携わってみたいという思いで、勤務先のアフリカ研究者に紹介してもらった、故白石顕二さんが主宰していた2003年の「アフリカン ドキュメンタリー」にボランティアで参加したのが映画と関わる最初のきっかけです。アフリカでのHIV/エイズ問題を描いた100の映像を集めた画期的な映画祭だったんですが、自身にとってドキュメンタリー映画、映画祭に触れる貴重な機会となりました。同じ年には、相方の知り合いに紹介してもらったニューシネマワークショップの配給コースにも仕事しながら通い始めました。そこで会った仲間と、東京でドキュメンタリーの企画上映をやりはじめたのが面白くて、それは集客もできたんです。

———そういえば、故・佐藤真監督の『阿賀の記憶』(2005)の宣伝をされていましたよね。なぜ、ドキュメンタリーだったんですか?

中山 おっしゃる通り、2005年に佐藤真さんの作品の宣伝をボランティアでやらせていただきました。プロデューサーの矢田部吉彦さん(現・東京国際映画祭プログラムディレクター)からお願いされたのですが、ドキュメンタリーに関心はあったから、喜んで引き受けました。大したお手伝いは出来ませんでしたが。

もちろん映画は好きだし、学生時代からミニシアター系の作品も含め観ていましたけど、大阪出身の自分は、在日とか被差別部落の問題に対する教育が熱心な土地で育ったし、大学の卒業論文も「戦後補償とサンフランシスコ講和条約との関係」で、社会問題に対する関心が強かったんですね。映画も、自分の中に響くものは、そこに関係するものが多かったです。劇映画で言えば『遠い夜明け』(1987 監督:リチャード・アッテンボロー)とか『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989 監督:スパイク・リー)とか。ドキュメンタリーでは『ゆきゆきて、神軍』(1987 監督:原一男)とか。映画の仕事をやるといっても、キャリアもないしノウハウも知らない中で、自分の強みはなんだろう?と考えた時に、社会問題に関心のある自分にできることはドキュメンタリーだ、と思ったんですね。

もちろんドキュメンタリー映画にもいろいろありますが、自分のやりたいこととして、社会問題に関係するようなドキュメンタリーを一般の人に見せたい、という気持ちが一番強くありました。転職活動はしていたんですが結局引っかからなくて、それならば、自分が住んでいる町でできることをやろうと思って、2006年から浦安市で「浦安ドキュメンタリーオフィス」を立ち上げ、ドキュメンタリーの自主上映を始めたんです。

———その動きが、やがて2011年6月の、「第1回うらやすドキュメンタリー映画祭」の誕生につながるわけですね

中山 はい。その自主上映会は、最初はひとりで始めたんですけど、住み始めて間もないから、地域にネットワークが無くて、お客さんが全然こないんです(苦笑)。で、2回目にきた地元の方が、「これは見ていられない」というので手伝ってくれて、3回目から3人でやることになりました。それでもやっぱり固定客というか、お客さんが広がらない。もっと知名度を上げ、お客さんを呼ぶにはどうしたらいいかを考えたら、それは映画祭しかないと思ったんですね。構想としては、自主上映をはじめた時からあったんですが、ドキュメンタリーを観る敷居を低くするには、イベント的なものとして、やはり映画祭が必要かなと。それで、たまたま浦安市に市民活動に助成をする制度があるのを知って、応募をしたら企画が通ったんです。

———1回目は「持続可能な社会を浦安から考える」というテーマを掲げていました。

中山 震災後はそういったキーワードが共有されるようになったんですけど、自分の中では、重要なキーワードで、メディアにも訴えやすいかなと思ったりして。

———一方で中山さんは、映画祭とほぼ同じ時期にドキュメンタリー映画の配給・宣伝も始めて、映画祭も含め、ドキュメンタリーに特化した仕事をはじめられます。そこに踏み切ったきっかけはなんですか?

中山 ボランティアでやらせていただいた『阿賀の記憶』の宣伝のあと、録音を担当していた菊地信之さんから『チーズとうじ虫』(2005 監督:加藤治代)という作品の配給・劇場公開ができないかと声をかけて頂いたことが、きっかけのひとつですね。ただその時は結婚したばかりで、いろいろ相談したんですけど、相方は反対でした。自分は、これは仕事のチャンスになるかもしれないという思いはあったんだけど、その先どうなるかというところで、自分の中で、正直踏み切れないところもあって、その時は仕事しながらやろう、というところに踏みとどまりました。1回、そこはね。

その後、仕事で外国に行ったりする機会があって、進路という部分では棚上げになっていたんですが、帰国後もひとまずできるところまでやろうということで、ずっと自主上映の活動は続けていたんです。その流れで、四ノ宮浩監督から配給の仕事を手伝ってくれという話があって始めたり、あるいは別の作品から声がかかったりして、これは仕事を辞めて本格的にやるしかないかな、と考えて、その時はもう自分で判断して、相方にも渋々了承してもらいました。それが2010年です。映画祭も経験もなかったけど、浦安市から補助金をもらった以上、やらざるを得なくなって。

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第1回うらやすドキュメンタリー映画祭のチラシ

———地域との関わりが全くないところから始まったということで、映画祭にお客さんを呼ぶのは大変だったんじゃないですか?

中山 1回目は、千葉県庁に記者クラブがあるので、そこで記者会見をやりました。震災で延期になってしまったこともあって、話題にはなったんですけどね。しかし周知が、特に地元の浦安市内に対して行き届かなかったという反省は残りました。震災後のバタバタした時期でもあって、集客は厳しかったです。

———映画祭を実行するにあたって、いちばん苦労する部分はなんですか?

中山 端的にいうと人集めです。これまで関心のなかった人に来てもらうにはどうしたら良いか。そういうお客さんが呼べる仕掛けをどうすれば作れるか。映画祭でも、配給の仕事でも、そこは常に考えています。もちろん営業的には、関心のある人に働きかけて、その方たちにきていただく、というのも大事なのですが…。そこは僕もまだまだ勉強中、という意識が強いです。

上から目線で「観ろ」とか「考えろ」とかいうつもりは全くなくて、ふとしたきっかけで、「世の中ではこんな事がおこっているんだ」と観て考える、そんな機会を提供していきたいんです。「こういう問題なら、実は関心があった」という人たちがいるのに、その人たちに届かないのはもったいないじゃないですか。情報ならネットや本でも得られますけど、やっぱり映像の持つ力、というのは強いですしね。直接的だし、観て考えやすいし、社会の問題を伝えるツールとして、ドキュメンタリー映画の果たす役割は大きいと思います。

あとは、若い人に観てもらう、というのも課題ですね。今、映画祭事務局のメンバーは7人いるんですけれども、44歳の私が2番目に若いんです(笑)。40代が3人いて、あとは60代、80代。ドキュメンタリーや社会問題に関心のある人ばかりだから、ここにチラシが撒けるとか、そういう情報は集まって、有機的に動いてはいるんですけどね。やはり若い人たちに観てもらわないと、自分がやっている意義のところにつながっていかない部分があるので…

———実際には、どういうお客さんが来るんですか?

中山 やはり年配の方が多いです。関心があって時間のある人、というか。一般の映画公開と共通するところでもあり、そこはもっと掘り起こしをしたいですね。子供のいる親世代とか、学生を取り込みたいので、いろいろと考えてはいるんですけども、現状は半分以上が50、60代のお客さんです。チラシを見て、県外や都内から来てくれるお客さんもいるので、そういうお客さんにアピールするのも大事かなあと。

———お客さんを呼ぶ為の具体的な作戦というのはありますか?

中山 やっぱり手売りや口コミは大事なんで、一緒に手伝ってくれる人たちからさらに広げて、サポーター制度を作ったりして、前売り券を極力、売るようにはしています。

今年は市から補助金が出ませんので、規模は例年と同じでも赤字覚悟でやっているんですが、それもあって、浦安で経営している企業やお店から協賛金を募って、当日に1分から2分のプロモーションビデオを流したり、資料に広告を載せたり、ということを試みています。まめに営業ができれば良いのですが、配給・宣伝の仕事がどうしても優先されてしまうので、なかなか難しいですね。

浦安って、4分の1が地元では“元町”と呼ばれる旧市街で、残り4分の3が“中町”“新町”と呼ばれる埋め立て地なんですよ。映画祭を開催する新浦安というところは埋め立て地で、相互の交流はあまりありません。1回目からそうなんですけれども、浦安という街を知ってもらえるような上映を組んで交流の機会を持たせるなど、街の活性化みたいなことも、映画祭というイベントならでは、というところで試みています。

———地域の人のリアクションというか、手応えみたいなものは感じておられますか。

中山 前回も、全部見て下さった人がいて、「ハズレはなかった」って言ってくださったんですけど、足を運んで見にきてくださる方には、絶対に観て損しないような、観てよかったと思える作品を、特にドキュメンタリーをやるからこそ選んで見てもらおうと。そこは意識しています。
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