【Review】 〈グロテスク〉から遠く離れて――『アクト・オブ・キリング』 text 井上二郎

(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012

|初見と困惑

『殺人という行為』が2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で公開され、賛否両論を含めて、大きな反響をもたらしたことは記憶に新しい。本作はこの4月、『アクト・オブ・キリング』というタイトルで渋谷・イメージフォーラムで公開される。私についていえば、山形映画祭で鑑賞したときに、正直に言ってとても困惑した。一つには、非常に複雑に、そしておそらくは巧妙に作られたこの映画の構造に対して。もう一つには、この映画全体に通奏音のように広がっている居心地の悪さ、そして〈グロテスク〉ともいえる印象に対して。

けれども、neoneo編集部の依頼を受け、試写会(尺は159分から121分へと短くなっていた)で2度目の観賞をすると、本作を少しだけクリアに、ある種の距離をおいて捉えることができたように思う。そこで私の中に浮かび上がってきたのは、一見私たちの生活からはかけ離れているように見える事件を扱ったこの作品を、意外にも身近な問題として捉え返すことができるのではないか、という考えだった。

|背景

『アクト・オブ・キリング』はインドネシアで1965年10月1日に発生した政変――現在では「9.30事件」と呼ばれる――を扱っている。史実の詳細な解説は専門の方々に委ねたいが(これほど歴史について考えざるを得ない映画も少ない)、簡単に記しておく(以下、河部利夫『世界の歴史18 東南アジア』と、本作パンフレット記載の倉沢愛子氏の論考を参照した)。

1945年以降、オランダからの独立を果たしたインドネシアではスカルノ大統領の指導により民主化が推し進められる。スカルノ大統領の政策は現在では「指導される民主主義」と呼ばれ、協力なリーダーシップを発揮した。とりわけ優先したのは民族の団結であり、異なる党派や信念を束ねることで、独立国家として主権を高めていこうとする。党派の中でも軍部と共産党が強い影響力を持っていたが、しかし両陣営は互いに敬遠しあっていた。

その後1960年の西イリアン(当時のオランダ領)を巡るオランダとの闘争、1963年のマレーシアとの紛争を経る中で、軍部の力は後退し、共産党の勢力が拡大していく。共産党はスカルノ体制を民族民主革命政府として支持するとともに、大衆の間にも組織を浸透させていった。一方軍部の側ではスカルノと共産陣営双方に対して不満が募っていく。

こうした緊張関係の中で、1965年「9.30事件」が発生する。事件の発端はスカルノ政府の親衛隊隊長であったウントン(ウントゥン)中佐が9月30日に起こすクーデターである。ウントン率いる親衛隊は、「反スカルノ・クーデター」をおさえるためという名目で、陸軍の将軍らを誘拐殺害し、革命評議会を設立した。この謀反を鎮圧するのが陸軍内部で力を強めていたスハルトであった。スハルトは第二代大統領に就任したが、事件はこれで終わることはなかった。以後、スカルノ政権下で勢力が弱められていた軍部、イスラム教徒集団、そして大学生行動戦線(KAMI)、そして一般市民さえもが「反共・反華僑」のもと一致団結し、各地で共産党員の虐殺に繰り出すこととなる。

そして、おそらくその中にアンワル・コンゴもいた。

(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012

|記憶の再演

アンワル・コンゴはかつて劇場のダフ屋を経営するギャングの一員だった。9.30事件以後、各地で同様のことが起こったようだが、彼が率いるギャングの一団はそのまま「共産主義者狩り」のリーダーとして疑わしい者たちを拷問にかけ、殺害した。場合によっては集落ごと焼き払うことさえあった。オッペンハイマー監督の誘導によって、アンワルはその場面を演じなおすことになる。

アンワルは自分のしたことに誇りを持っているようだ。自分が行なった殺害は英雄的行為であり、自分たちこそがこの国を発展させてきたのだ、と信じて疑わない。まさにそのことがこの映画に彼らが喜んで出演している理由である。

「イギリスやアメリカで上映してくれよ」と撮影スタッフに楽しそうに声をかけるアンワルたちの胸中にあったのは、彼らのメンバーがダフ屋をやっていたという劇場でかかっていた映画たちだろうか。それらの映画に出演していた俳優たちに自分たちがなり代わろうとしているのだろうか。

しかし映画が進むに連れて、アンワルの胸中は揺れ始める。それはとりわけ、彼が監督によって編集された映像を見たときから始まる。犯罪心理学者の越智啓太氏は、この場面をこう分析している。

人間を虐殺者にするためのテクノロジーは殺される側の人間を徹底的に非人間化することで成り立っていた。ところが、被害者側の立場から同じ出来事を演じることによって、彼は、自分が虐殺したものたちが、異なったカテゴリーの異質な存在などではなく、自分と同じように人格を持った人間であることをリアルに感じ取っていく。(本作パンフレットより)

〈過去の再演〉という主題は、観客にとっての「フィクション/ドキュメンタリー」の境界を不安定なものにしていく。その一方でアンワルにとっては、映像が自分自身を不安定にしていくのだ。演技することと、その映像を見ること。その二つの行為によって、アンワルは自分の知らなかった自分を発見させられてしまうのである。

アンワルは自分自身の姿に、失望する。自分は自分が思っていたような人間ではなかったのだ、と気づく一方で、彼は初めて自分の行為について内省を迫られることになる。そして、これらすべての中心に映像があるということにも注目したい。アンワルが過去を再演することも、それを見返すことも、いずれもカメラという機械を通して行われているのだ。

|〈グロテスク〉から離れて

そこで、もう一つ考えてみたいのが、本作でのモンタージュの特異な用法だ。物語の後半、アンワルが心中で抱え始めた葛藤を表すかのように、映像の編集方法が次第に変わっていく印象を受けた。つまり、最終的にアンワルたちに見せることになる「完成版」としての安定感のある映像、それから演技をしていない時のアンワルらを追ったより動きのある映像、そして、本編には一見関係ないような映像(例えばアンワルがただ眠っているだけの映像、など)といった異なる種類の映像が、後半では特に混然と織り交ぜられ、より不安定な編集になっているように思えたのだ。

このような変調は私に、自分がしばしば無意識に、自分が映像を見る態度を使い分けていることに気づかせることとなった。とりわけ映画の場合、そのジャンル――おおざっぱに言えば、ドキュメンタリーらしい映像、フィクションらしい映像など――によって、自分の視座や態度を使い分けている。しかしそれは、いわば私は無意識に〈見やすい位置〉から映像を見ていたともいえるのではないだろうか。

本作の後半、特にアンワルが被害者の男性を演じる場面以降からの編集の心地悪さとでもいうようなものは、私の観客としての決まった立ち位置を不安定にし、特定の視座から映画を見させないような効果を持っているように感じたのだ。そして、そのことはアンワルが自らの姿に不安と葛藤を覚えることとパラレルに起こるのである。このとき、自身の映像に困惑するアンワルと、その映像を見る私のあいだには、ある奇妙な関係性が立ち上がっていた。私はとても奇妙なかたちで、アンワルに自らを重ねることとなった。さらに言えばこの体験は、歴史をどういう視座から見るか、という問題とも関連づけられていた気がしてならない。

オッペンハイマー監督は次のように述べている。

『アクト・オブ・キリング』の制作で用いた手法は、これらの疑問に答えるために発展させたものです。我々が見ているものの正体は何か、ということだけではなく、我々がそれをどのように見て、どのように想像を巡らせるか、を理解する手助となるために磨き上げられた調査テクニックだと思って頂ければ幸いです。(本作パンフレットより)

多くの鑑賞者にとって、アンワルの存在をはじめ、『アクト・オブ・キリング』が映している事柄は〈グロテスク〉に感じられるかもしれない。けれど当然それは、単に画面に映っている人物や出来事が、〈グロテスク〉であるからだけではない。もっと〈グロテスク〉な映像についてなら、私たちは既に多く知っているはずだ。『アクト・オブ・キリング』が〈グロテスク〉に感じられるのは、映っている人物の背後に、インドネシアで現実に起こった殺害の残虐さを常に意識しながら見ることが強いられているからである。それが私たちを不安にさせる。〈グロテスク〉や〈衝撃〉という言葉は、しばしばその背景にフィルターをかけてしまう。

まずそのことを意識するところから始めたい。その上で試されているのは、その〈グロテスク〉らしさから少しばかり距離を置き、その映像と、アンワルの身振りから何を受け取るのか、それをどう歴史と関連づけられているかについて、できる限り冷静に確かめていくことではないだろうか。そうして初めて私は、アンワルの行為/演技(アクト)を私の問題として捉えなおすことができるのではないだろうか。

映像を通じて自分自身に「見返され」たアンワルが、スクリーンを隔てて次に視線を向けるのは観客である私かもしれない。彼は観客の反応を待っている。私もある覚悟とともに彼を見返さなければならないだろう。

(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012

★関連記事 【Report 】行為と演技、虐殺の〈アクト〉をめぐって――世紀の問題作『アクト・オブ・キリング』 text 植山英美

|作品情報

『アクト・オブ・キリング』 
 The Act of Killing

製作総指揮:エロース・モリス『フォッグ・オブ・ウオー』/ヴェルナー・ヘルツォーク『フィツカラルド』/アンドレ・シンガー
製作・監督:ジョシュア・オッペンハイマー 共同監督:クリスティーヌ・シン/匿名希望
スペシャルサンクス:ドゥシャン・マカヴェイエフ
2012年/デンマーク・ノルウェー・イギリス合作/121分/ビスタ/カラー/DCP/5.1ch
配給:トランスフォーマー 宣伝協力:ムヴィオラ 
公式サイト:http://www.aok-movie.com/
★4月12日(土)よりシアターイメージフォーラムにて公開! 他全国順次

|プロフィール

井上二郎  Jiro Inoue
1990年生。映画雑誌「MIRAGE」編集。翻訳業。主に写真と映像を使って作品を制作。