【Report】行為と演技、虐殺の〈アクト〉をめぐって――世紀の問題作『アクト・オブ・キリング』 text 植山英美

(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012

(c) Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012

本年度米アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門ノミネート、ベルリン国際映画祭観客賞など、全世界60以上の映画賞を受賞したドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の上映、記者会見が、3月20日 都内・日本外国特派員協会で行われ、ジョシュア・オッペンハイマー監督が会見に出席した。 会場にはインドネシア、米国を含む各国約100人の記者や批評家が集まり、高い関心を示した。

1965年 インドネシアで勃発した、100万人規模の大虐殺が行われたとされる、いわゆる9月30日事件の実行犯に「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」と提案、虐殺の様子を演じてもらい、それを撮影するという衝撃的な内容。インタビューや資料で語られる一般的なドキュメンタリー手法を用いず、嬉々として当時の殺人の様子を語り演じる加害者を、冷めた視点で追い続けた。
ジョシュア・オッペンハイマー監督は、当初、被害者への取材を試みた。だが、当局から妨害を受け、苦肉の策として加害者へと取材対象を切り換えたという経緯があった。虐殺事件当時から政権を握っている現インドネシア政府からの圧力や危険を顧みず、8年間に渡り撮影を慣行。撮影時間は1200時間を越える。

映画スターのようにでカメラの前に立つ、1000人を虐殺した実行犯アンワル・コンゴ。彼を中心に、尋問や拷問、殺人の場面が再現される。凄惨な内容だが、再現シーンでは稚拙な技術の特殊メイク、貧相なセットに、少々肥満のヘルマン・コトがビーズのついた女性のドレスを着て、かつらをかぶり、化粧をほどこして、被害者を演じる。コメディタッチとも受け取れる内容だ。一方ベランダで針金を使って絞め殺す様子を詳細に語るアンワルの語りは背筋も凍る。加害者が自己の中で作り変えたであろうヒーローとしての過去を再現シーンとし、現実の過去は語りからあぶり出てくる。
「歴史は勝者が作るもの」と豪語する加害者。今なお英雄とされ、特権階級として力を振りかざす彼らが過去に対峙し、追体験することから生まれる変化を見事にあぶり出す監督の手腕は確かだ。賛否分かれる手法だが、9月30日事件を世界の目にさらした功績は大きい。

記者会見では、予定の時間を大幅に超過。45分に渡り各国の特派員記者が積極的に質疑を行った(質問者は複数)。

採録・構成・撮影=植山英美

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ジョシュア・オッペンハイマー監督

ジョシュア・オッペンハイマー監督

――撮影は小人数のスタッフで行ったのでしょうか?

ジョシュア・オッペンハイマー(以下JO)撮影時はなるべく5、6人という小人数で行うように心がけました。ローカルなスタッフに参加してほしいという思いがあって、パンチャシラ青年団のメンバーに助監督をお願いしたり、昼ドラの撮影隊にもスタッフに加わってもらいました。

――どういったモチベーションでこの映画を撮られたのでしょうか。

JO 初めは虐殺の生存者を取材していたのですが、生存者は軍から脅迫を受け、安全を保証できなくなったので、撮影をストップせざるを得なくなった。協力者から撮影を続けてほしい、加害者に取材をしてみてほしいと。恐い気持ち抱きつつも加害者にコンタクトを取ってみたら、彼らはとてもオープンに笑顔で当時の恐ろしい殺人の様子を語るんです。それはまるでホロコーストの40年後にドイツに行ったらまだナチがいた、といった感覚でした。

作品制作のモチベーションとなったのは、この事件について話す場を作りたいという思いに駆られたからです。恐怖を感じることなく話す場がなければ、公正も和解もありません。作品製作後、現インドネシア政府に変化が起こっているのを感じています。当事者やインドネシア政府にとっての過去と向き合う贖罪となったのではないでしょうか。

 ――スタッフのクレジットに匿名の方が多いのはどうしてですか?

JO 作品に関わったことが知れると危険が及びかねないからです。スタッフの中には、ジャーナリストや人権団体のメンバーや教職に就いている人達もいましたが、彼らは撮影の為に仕事を辞めて、8年間この作品に費やしてくれました。苦楽を共にした共同監督も匿名で、今日のような外国での上映やイベントに参加してもらえないのはさびしいです。

――この作品の撮影後、アンワル・コンゴにどのような変化があったのでしょうか。

JO アンワルには感情的変化がありました。ヘルマン・コトは撮影後(民兵組織の)パンチャシラ青年団を辞め、公式にこの映画の上映を行う勇気を持っている唯一の存在です。他の人々には変化が見られませんが、アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた後、初めて政府は「1965年の虐殺は間違いであった、実行犯を嫌悪する」と、公式に声明を出しました。実行犯の中には元副大統領ユスフ・カーラやパンチャシラ青年団のトップ、ヤプト・スルヨスマルノ、元北スマトラ州知事も含まれるわけで、それも含めて発言したのかどうかわかりません。

このような声明が発表されたことは、大きな変化として歓迎しています。映画に対する声明でないにせよ、政府の対応が180度変わったということですから。それまでは虐殺は祝福するべき過去、または全く口にしてはいけないことのどちらかだったのです。大きな一歩であると思いますが、ユスフ・カーラやヤプト・スルヨスマルノなどの政治家の多くは実行犯でありながら、未だに罪に問われることなく、地位を保ち続けています。

ジャーナリストの多くがこの問題に対してや、ギャングと政治家の癒着などを語れるようになったのですが、パンチャシラ青年団の名称は書かれませんし、ユスフ・カーラが映画に出ていることや、政治家や実行犯の個人名は出せません。SNSのみです。政治家に癒着しているチンピラを恐れてのことだと思います。

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