報道写真とは、戦場や災害被災地など、「現場」にいない人間にそこで起きていることを伝えるジャーナリズムの役割を一般に担う。その役割には、即興性が必要であり、いわゆるタイムリーな時期を過ぎると、ほとんどの報道写真は価値を失っていく。ジャーナリズムのひとつである報道写真は「イマ」という時代に大きな意味を持つものであり、それは本来的に作品として後世に残る事を主たる目的としているものではない。それが後世見られることがあるにせよ、それがいつ、どこで撮られた写真であるかが報道写真にとっては重要であり、時代の代価物としての役割こそが主たる存在意義となる。報道写真の第一の目的は、時代の爪痕をカタチとして残すことのあり、そこにこそ報道写真の希少性があるように思われる。しかし、キャパの生誕から101年を迎えた今日、東京都写真美術館にこれほどまでのロバート・キャパの写真が展示されるという事実は、キャパの写真が単なる時代の代価物として報道写真の領域に収まっていないことそのものを証明している。ではその魅力とはなんであるのか。
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|「ボブ」という男
『101年目のロバート・キャパ—誰もがボブに憧れた』展(以下『101年目のキャパ』展)の注目する点は、「ボブ」という名称を副題に取り入れていることである。これは、彼が仕事仲間であり恋人でもあったゲルダ・タローと出会い、本名のアンドレ・フリーマンからロバート・キャパに名乗りを変えてからの彼の愛称である。キャパの友人達は、親しみを込めて「ボブ」とキャパを呼んだ。キャパは人に愛され、それ以上に人を愛する人間であったと多くの友人による証言が残っている。『101年目のキャパ』展は、このキャパの人柄に焦点を当て、写真家ロバート・キャパの根幹にある「ボブ」を見つめた構成になっている。
では、キャパはどのような人であったのか。さらに、キャパという人間を深く知るために友人の証言を見てみよう。
女優のジュラルディン・フィッツジェランドは「人一倍人なつっこく、心の内から幸福にしてくる男だった。キャパと付き合っていると、誰もが自分とこの至福感を分かち合いたがっているんだという気持ちになる…。キャパはいつも楽し気だったので、そばにいる人は、その楽しさを一緒になって分かち合いたいと思うようになるのだ」(『ロバート・キャパ 時代の目撃者』、1997)と述べ、キャパのユーモア溢れる人柄に触れている。さらに、『夏服を着た女たち』で知られる劇作家・小説家のアーウィン・ショーも「どんなときでも愛想の良さを信条としているとしか思えない」と皮肉を込めて述べている。
キャパは、ギャンブルを好み、多くの美しい女性を愛した。キャパはハンセル・ミートが述べるように「人生なんて冗談さといいたげに振る舞いながら、同時に人生をとても真剣に受け止めていた」(本展図録より)人物だったのだろう。キャパは、戦後なかば冗談として「ロバート・キャパ 戦争写真家 失業中」という名刺を喜びながら刷ったという。このエピソードで、彼の人柄は容易に想像でき、彼が愛される人間であったことも納得せざる得ない。
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|キャパが撮る写真は「作品」か
人間味溢れるキャパは、人間が最も冷酷で欲深くなる戦場を仕事場とした。先ほども述べた通り、そこでの写真はジャーナリズムであり、キャパはそれを理解しているカメラマンだった。しかし、今日これほどまでにキャパの写真が世界中で見られるのはなぜだろうか。つまり、キャパの写真が一過性も持った「報道写真」に留まることなく、後世に残る「作品」としてあるのはなぜだろうか。
キャパに関する著作を邦訳した沢木耕太郎は、「3枚の写真」という解説で、キャパの写真が「歴史的存在」であり、「歴史的瞬間」であったことと、それ以外の写真でもキャパ自身が「歴史的存在」となったため作品となり得たと論じている。歴史的瞬間とは、キャパが撮影したスペイン戦争での『崩れ落ちる兵士』であり、第二次世界大戦における『ノルマンディー上陸作戦』の写真である。これらの写真は、20世紀の戦争を象徴する写真としてこれからも残り続けるであろうし、キャパはこれらの写真により自身の名を世界中に広め、自らも20世紀を代表する写真家としての地位を確立した。
しかし、ここにもうひとつの理由を付け加えるとするならば、「ボブ」として愛され、人を愛した男の視線が写真の中に落とし込まれていたからであると言える。
|キャパの写真は何を捉えるか
彼の一連の写真群を見て、まず思う事は被写体の表情の豊かさである。例えば、「シャルル・フランス」でのドイツ兵との赤ん坊を抱いた女を写した写真がある。この女は、罰として髪を剃らされ、見せしめとさせられる。アラン・レネの映画におけるワンシーンでこの場面は登場するが、このときの女性の痛々しさは、画面を通しても十分すぎるほどの強度を持って伝わってくる。しかし、その周りの人物はどうだろうか。彼女を見ている民衆はただ彼女を嘲笑しているだけではない。そこには、様々な感情の現われがあり、キャパの写真では複数ある表情から我々にその真意を伝えている。
1人赤ん坊を抱え、街を歩く女を取り囲む数えきれない程の民衆。横を歩く女が、嘲笑っていれば、少し前を歩く男は全くの無関心であり、少し後ろを歩く老婆は憐れみの表情を浮かべ、母に手を引かれる少年は、事態を把握したいという好奇心が見て取れる。我々は、この写真から伝え聞く物語以外に、その物語からこぼれ落ちる個人の物語を見て取ることができる。
|キャパが見せる「ポーズ」
キャパは、写真を撮る為の最低限必要な技術以外はほとんどの技術を身につけようとしなかったようで、さらに撮られた写真に対してもあまり興味を持たなかったようである(有名な話ではあるが、キャパが命がけで撮影した『ノルマンディー上陸作戦』の写真は本来106枚あったが暗室助手のミスによりほとんどのフィルムはダメになり8枚しか残らなかった。このどれほど怒り狂ってもおかしくない状況においてもキャパはそのことを許している)。
このことから、キャパは写真よりもそこにいる被写体を愛し、それを撮る行為を愛した写真家であったのだと思われる。それが、彼の写真の中には、表情や姿勢といったものに集約されているように感じる。
写真はそれが瞬間的であれ必ずそこに写る顔や姿勢から「ポーズ」が生まれる。そして、写真の場合には、そのポーズは隠喩的なもの、創作的なものではなく、まさにその様態で被写体がかつて存在していたことそのものを表す。写真家は、被写体を写真の中に「ポーズ」として停止させることにより、血肉をそなえた指向対象として存在させる。キャパの写真は、報道写真でありながらそこに生きていた人物を「ポーズ」として存在させている。それは、キャパの写真の「ポーズ」は客観的な視線を持って見られたものでなく、「ボブ」として人をこよなく愛していた「キャパ」が、愛情をもって人をみた目撃者だからこそ見えたものである。人生を冗談として捉え、同時に人生を真剣に受け止めていたキャパであるからこそ、ユーモアで洒落が聞いた写真とその中にある苦しみや憐れみを被写体の「ポーズ」を通して伝えることが可能であったのであろう。
キャパの写真には、そのときカメラを向けた人物への感情が入り込む、それは極めて人間的な豊かさを持って人を見つめていた視線そのものであろう。そして、それこそがキャパの写真の視線なのだ。彼の写真がこれほどまで世界中で見られ、愛されていることは、世界中の誰もがボブという人間に魅了され、彼に憧れているからかもしれない。
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|開催概要
「101 年目のロバート・キャパ — 誰もがボブに憧れた」展
Robert Capa, the 101st Year: They All Adored Bob
開催期間 2014 年 3 月 22 日(土)~5 月 11 日(日) 45 日間
開館時間 10:00~18:00(木曜・金曜は 20:00 まで。入館は閉館の 30 分前まで)
休 館 日 毎週月曜日(ただし 4 月 28 日と 5 月 5 日は開館)、5 月 7 日(水曜日)
開催会場 東京都写真美術館 地下1階展示室(東京・恵比寿)
〒153-0062 東京都目黒区三田 1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内
http://www.syabi.com/
料 金 一般 1100 円(880 円)/学生 900 円(720 円)/中高生・65 歳以上 700 円(560 円)
※( )内は 20 名以上の団体および東京都写真美術館友の会会員
※小学生以下及び障害者手帳をお持ちの方とその介護者は無料
※第 3 水曜日は 65 歳以上無料
お問い合わせ TEL03-3280-0099(東京都写真美術館)
公式サイト http://www.capa101.jp
巡 回 展 2014 年 8 月 2 日(土)~9 月 15 日(月祝)/九州芸文館(福岡県筑後市)
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|プロフィール
影山虎徹 Kotetsu Kageyama
1990年静岡県生まれ。愛知大学文学部人文社会学科西洋哲学専攻を経て、現在は立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻前期課程在籍。 ロラン・バルトのイメージ論を中心に、映像イメージについて研究している。