すでになく、いまだない場所――立場なき「郊外」とその風景の神話をときほぐす、来たるべき映像作家・佐々木友輔が思考=試行する「映画による場所論」/「場所による映画論」
「neoneo web」リニューアル記念企画第一弾として、映像作家・佐々木友輔さんによる動画+テクスト連載「Camera Eye-Myth / 郊外映画の風景論」を全10回(予定)にわたりお届けします。
これまで『夢ばかり、眠りはない』(2010年)、『土瀝青 asphalt』(2013年)などの作品で「郊外」と「風景」とを映画によって独自に思考してきた佐々木友輔さんが、ふたたび茨城を舞台に撮影を決行。これまで社会学者や映画作家らによって交わされてきた郊外論と風景論を、短編作品「Camera-EyeMyth」とテクスト「郊外映画の風景論」によって批評的に検討します。
「郊外」とは? 「風景」とは? そして「映画」とは? ……
初回となるきょうは、#01、#02をリリース。以降、毎月20日をめやすに掲載します。ご期待ください。
(萩野亮/neoneo編集室)
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Camera-Eye Myth : Episode.1 Authors / Memory
朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久
主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈
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郊外映画の風景論(1)
郊外という立場なき場所をめぐって
1. すでになく、いまだない場所
かつて、人びとが住まうべき新しい場所として見出されたユートピアとしての郊外は、その具現化によってどうしようもなく明らかになっていく理想と現実の齟齬を経て、次第に人心を狂わせる病理の場所、ディストピアとしてイメージされるようになった。そしていまやその段階も過ぎ去って、郊外という場所/言葉/問題系は様々な仕方で忘れ去られようとしている。曰く、郊外化は間違いだった、都市計画の失敗だった、流行に過ぎなかった、そもそも疑似問題に過ぎなかったのだ……と。
社会学者の若林幹夫は、『郊外の社会学——現代を生きる形』において、郊外が「都心や伝統的な地域社会、共同体などと対照され、それらにはあった歴史、文化、共同性が”無い”という否定性において記述」される「あるべきものがもはやない場所」として捉えられている一方で、「都市中心部では望めない緑や自然環境に満ち、新しい理想の居住空間が投影」される、「いまだない良きものが到来すべき場所」としても捉えられていると指摘する(p.66)。郊外とは、「すでにない」であれ「いまだない」であれ、常に欠如態として語られてしまう「立場なき場所」なのだ。
巷に溢れる郊外論を鵜呑みにして、そこには何もない、均質な風景だ、文化的に貧しい、人間の住む場所じゃない、ということが平然と言えてしまう人間が見逃しているのは、そこが現に多くの人びとが住まい暮らしている場所であるという事実である。そして、妻のヒステリー、夫の浮気、娘の援助交際、息子の少年犯罪、隣人の不気味な噂といった「郊外的」なる物語の紋切り型を踏襲する映画や写真、小説などの芸術表現もまた、そうした生きられている場所の豊かさを捨象し、無かったことにすることに加担してきた。
今はまだ、わたしたちは自分自身の経験や実感を拠り所として、ある言説や映画が切り捨てている場所のあり方や、見過ごしている場所のあり方に気づき、それを指摘することができる。しかし時が経ち、現在を知る者たちが死に絶えれば、未来の人びとにとっては「残されたもの」だけがその時代を想像する手がかりになる。語られなかったもの、残されなかったものは、はじめから無かったことにされてしまうだろう。
もちろん、社会状況を分析し、問いを立て、都市計画を作成し、行政を進めていくためには、大胆な抽象化や取捨選択を避けることはできない。また、紋切り型の郊外観や物語を単純な間違いや虚構として切り捨ててしまえば良いということでもない。そうした郊外の「神話」もまた、「人びとによって生きられる現実の一部」(前掲書、p.113)を為しているのだから。
しかしそれでも――郊外にまつわる神話の意味や意義を認めつつも――それとは別の場所のあり方を発見すること、後世に残していくことが、映画やドキュメンタリーに課せられた使命のひとつであるはずだ。
もちろんそれは、神話に現実を対置するということではない。映画作家の佐藤真が言うように、ドキュメンタリーもまたフィクションなのだから、実証的なデータに基づいた所謂「客観的」なドキュメンタリーであれ、私的な実感に基づいたプライベートフィルムであれ、現実そのものでは有り得ないだろう。映画作家ができること、そして行うべきことは、隠された正統な起源やただひとつの真実といったものを明らかにすることではなく(無論、そんなことは不可能だ)、ひとつの場所/言葉/問題系に対する多様な見方を提示することで——残されたものも残されなかったものも含めて——その場所の厚みを感じさせ、想像する余地を残すことではないだろうか。
わたしはそのような問題意識から、映画制作を通してわたしたちが生きる「郊外」と呼ばれる場所について考えること、すなわち「映画による場所論」を試みてきた。あまりにも素朴で、ありふれた、時代錯誤な態度表明だと笑われてしまうかもしれないが、こと郊外と呼ばれる場所に関しては、そのような努力がまだまだじゅうぶんに為されて来なかったように思うのだ。
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