【ゲスト連載】Camera-Eye Myth / 郊外映画の風景論 #01「Authors/Memory/郊外という立場なき場所をめぐって」 image/text 佐々木友輔


2. 映画の盲域を探ること

とは言え、それは決して簡単なことではない。言葉の上では「別の」「異なる」「多様な」などと安易に口にすることができても、映画制作の中で実際に「別の何か」を捉えることは、とてつもなく困難だと痛感している。闇雲にカメラを回しても、いつの間にか先入観や偏見に引き寄せられたり、周囲の空気に流されたりして、気がつけば結局、紋切り型をなぞっただけの映画ができあがってしまうのだ。

「映画による場所論」を実践するためには、「郊外映画の場所論」が不可欠である。それは、これまで映画と郊外が取り結んできた関係について知ることだ。すなわち、映画は郊外の何を描き、何を描いて来なかったのか。そしてその取捨選択はどのようにして行われたのか。制作者が意図したものなのか、無自覚なのか。あるいは制作者の意図よりも前に、映画が映画であるが故に切り捨ててしまっているものがあるのではないかと問うことである。

たとえばわたしたちがいまテレビなどを通じて見ることができる一般的なドキュメンタリー番組の形式は、どのような出来事や状況にでも対応し、それを正確に記録することができるような万能な形式ではないし、同様に、全国公開されている劇映画に多く見られるような形式もまた、どのような物語でも饒舌に語ることができる万能な形式では有り得ない。映画であれ写真であれ、その他の記録装置であれ、どのようなメディアも必ず、それに特有な偏向性を抱えており、常に何らかのかたちで見る対象を歪めてしまったり、見落としてしまったりするだろう。

そしてわたしは、既存の映画形式の中にこそ、郊外に関する紋切り型のイメージ形成に加担した「何か」があり、また、その形式に基づいた映画制作によっては見落としてしまうようなところ=盲域にこそ、郊外の別のあり方を発見する手がかりとなる「何か」が潜んでいるのではないかと考えている。この連載の目的は、その二つの「何か」に映像と言葉から迫ることである。

3. なぜ風景論か

郊外を舞台・主題とした映画やドラマを分析する試みは、「物語論」的な観点から行われることがほとんどである。けれどもわたしはここから「郊外映画の場所論」を展開するにあたって、物語と同じかそれ以上に、それぞれの映画に映し出された「風景」に注目することにしたい。

実写映画を分析の対象にすることのユニークな点は、基本的に、そこに具体的なロケ地の風景が記録されているということである。たとえば原作小説やプロット、脚本の段階では、ただ「郊外の均質な風景」や「何もない場所」とだけ記しておけば、そこから先は読み手が自らの想像力で補ってくれるだろう。しかしその言葉を映像作品として具現化するためには、必ずロケ撮影を行わなければならない(もしもすべてをセットやVFXでつくりあげるとしても、その場所に何が、どのような配置であるのかといったより具体的なイメージを考案し、かたちにしなければならない)。もちろん、現実には完全に「均質な風景」や「何もない場所」など存在し得ないわけだから、制作者はそこで、風景が均質であるとはどういうことか、そして、どのような根拠を以て「何もない場所」であると言えるのかを問われることになる。ロケ地を選ぶということは――たとえ制作者自身が無自覚であったとしても――この二つの問いに対する言い逃れのできない解答なのだ。

「郊外という場所にも、その場所に人が住むことを支え、そこでの住宅開発を意味づける「神話」としての理想や理念や社会像がある。また、そうした場所に対して人びとが心に抱き、それを通じて解釈する郊外のイメージがある。肯定的でも否定的でもありうるそうした郊外像は、郊外の「現実」を客観的に反映しているわけではないが、郊外に生きる人びとの思考と行動を意味づけ、方向づけ、その風景を産出する媒体となり、結果としてその神話を現実化したり、現実と神話の齟齬を社会的な問題として生み出したりもする。」(前掲書、p.114)

若林が記述する、このような神話と現実との複雑で繊細な関係性が表出している場として、映画の「風景」を捉えることができるのではないだろうか。すなわち、実写映画に記録された「風景」には、郊外という場所にまつわる物語(=神話)に相応しいと制作者によって判断されたイメージと、そのロケ地における現実の場所のあり方が二重写しになっている。その両者の関係性を読み解いていくことによって、わたしたちは、郊外が人びとにとって(そして映画にとって)どのような場所であるかについてのより深い理解を得ることができるだろう。

|参考文献/関連資料

若林幹夫 著『郊外の社会学——現代を生きる形』、ちくま新書、2007年
佐藤真 著『ドキュメンタリー映画の地平―世界を批判的に受けとめるために』、凱風社、2001年
樋口忠彦 著『郊外の風景——江戸から東京へ』、教育出版、2000年
国木田独歩 著『武蔵野』、新潮文庫、1949年
柄谷行人 著『定本 日本近代文学の起源』、岩波書店、2004年
ジョナス・メカス 著『森の中で』、書肆山田、1996年
ジョナス・メカス 監督『リトアニアへの旅の追憶』、1972年
クシシュトフ・キェシロフスキ 監督『アマチュア』、1979年

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|プロフィール

佐々木友輔 Yusuke Sasaki (制作・撮影・編集)
1985年神戸生まれの映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りはない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。
Blog http://qspds996.hatenablog.jp/

菊地裕貴 Yuki Kikuchi (テクスト朗読)
1989年生まれ、福島県郡山市出身。文字を声に、声を文字に、といった言葉による表現活動をおこなう。おもに朗読、ストーリーテリング中心のパフォーマンスを媒体とする。メッセージの読解に重きを置き、言葉を用いたアウトプットの繊細さを追究。故郷福島県の方言を取りあげた作品も多く発表。おもな作品に「うがい朗読」「福島さすけねProject」「あどけない話、たくさんの智恵子たちへ」がある。
HP http://www.yukikikuchi.com/

田中文久 Fumihisa Tanaka (主題歌・音楽)
作曲家・サウンドアーティスト。1986生まれ、長野県出身。音楽に関する様々な技術やテクノロジーを駆使し、楽曲制作だけでなく空間へのアプローチや研究用途等、音楽の新しい在り方を模索・提示するなどしている。主な作品に、『GYRE 3rd anniversary 』『スカイプラネタリウム ~一千光年の宇宙の旅~』『スカイプラネタリウムⅡ ~星に、願いを~』CDブック『みみなぞ』など。また、初期作品及び一部の短編を除くほぼ全ての佐々木友輔監督作品で音楽と主題歌の作曲を担当している。
HP http://www.fumihisatanaka.net/