現在、東京都立現代美術館(MOT)にて、「驚くべきリアル スペイン、ラテンアメリカの現代アート―MUSACコレクション―」が開催されている。同時に「MOTアニュアル2014フラグメント―未完のはじまり」が開催されており、これに常設展を加えると、とても濃厚で濃密な美術体験ができるだろう。
まず、「驚くべきリアル スペイン、ラテンアメリカの現代アート―MUSACコレクション―」(以下「驚くべきリアル」)では、その展示名の通りカスティーリャ・イ・レオン現代美術館;MUSACに所蔵されている作品を見ることができる。私たちがスペインに対して抱くイメージ ―例えば、闘牛やフラメンコのような― を反映するような作品もあるが、地域性が全面に押し出されているわけではない。それは、現代のアートシーンにおいて国際性というものが一つの潮流となっていることに由来するのかもしれない。
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|「赤」の誘惑――アルバラシン、マキ、マルティ
この展示を通して、一つのキーワードがあるとするならば、それは血を連想させるような「赤」だといえるだろう。もちろんそれは、スペインやラテンアメリカの典型的なイメージカラーかもしれないが、しかしながら、典型的、地域的、あるいは、伝統的なイメージを差し置いても今回の展示の各所に付いて回る色である。
一つに、スペインやラテンアメリカという土地の伝統・闘牛の赤やフラメンコの「赤」が登場する作品の存在があげられる。それは、ステレオタイプな赤色への抵抗である。
例えば、ピラール・アルバラシンの<ミュージカル・ダンシング・スパニッシュ・ドール>(2001)。伝統的なフラメンコの衣装・赤地に白の水玉模様のドレスを纏ったダンスをするおもちゃの人形にまぎれ、人形のように振る舞う作家自身が混じっている。見る者は一瞬困惑してしまうが、その光景がだんだんと滑稽に見えてくる。その滑稽に見える光景こそが、作家自身が見つめるスペインの姿なのだ。もともと、フラメンコはスペイン社会からの疎外の歴史を謳ったものである。しかしながら、ステレオタイプなイメージは、そのような疎外の歴史を無視している。固定観念を揺さぶり、それをどこか侮蔑し冷笑するようなアルバラシンの作品は、滑稽でありながらどこか薄気味悪い。
もう一つとして、日常の中で流れた「血の赤」を象徴的に扱った作品である。それは、実際に赤色としてあらわれるのではなく、赤色を連想させる作品である。
ホルヘ・マキの作品は、まさにその通りの作品である。<血の海(死)>(1999)は、ブエノスアイレスの事件と犯罪の専門誌に掲載された記事の中から、「血の海」という表現が含まれる行を切り取りつなぎ合わせ、細い線を中央で束ねた葉脈のような形を作り上げている。それは、「血の海」という表現とは裏腹に不穏さをそれほど感じさせない。それは、推理小説や漫画でたくさんの人が死んでしまっても悲しくはないように、どこか、フィクションのように感じられる。むしろ静けさを感じるその作品の前にたつとその作品のサイズと緻密さに圧倒される。
最後に、人の生死を思わせる血液の「赤」である。
エンリケ・マルティの<家族>(1999)の作品に使われる赤色は、とても効果的である。マルティの作品は、何気ない現実が不気味なものになる瞬間をユーモラスに描き出している。スナップショットを元に描いた約100枚の絵が壁一面に展示されている。それは、何気ない毎日のスナップショットであるが、よく見ると、悪戯書きのように角や部屋からのびる触手が描き込まれ、時に、血糊のようなべっとりとした赤色が塗付けられている。笑顔の青白い鼻血をたらした少女、シャツについた真っ赤な血。日常は、そんな僅かな描き込みによって、狂気を孕む。幸せそうな団らんのスナップであればあるほど、この血糊のようなべっとりとした赤色は、生の暗い部分をハッキリと浮き彫りにさせる。
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展覧会名に含まれる「驚くべきリアル」、この「リアル」をいかにして捉えるべきだろう。それは、例えば、ステレオタイプや固定観念を裏切る「リアル」なのではないか。この展示によって扱われる題材、それは、その地域に関する諸問題や社会的な問題など様々であるが、そのどれもが、目の前にある物事を単純に表現したものではない。現実は常に「嘘」と同居している。この展示の場合、「リアル」はアートという仕組み、それこそフィクションの中に存在している。作家たちが表現するリアルは、虚の中にあるからこそ、活き活きと、あるいは、不気味に際立って見えてくる。この展示において、アートは、ステレオタイプや固定観念を裏切る為に容易された周到な嘘に見える。そして、その周到な嘘によってこそ表現される「リアル」は、私たちを揺さぶるのである。
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