中野理恵さんの連載にあたって
伏屋博雄(neoneo編集室)
かねてから長年に亘って映画を支えてきた「裏方さん」の話を取り上げたいと思っていた。今回、その一人である「パンドラ」の中野理惠さんの登場が叶った。
中野さんは一貫して好きな映画の仕事に打ち込んできた。これまで配給した作品は100本を超え、映画・映像のプロデュースや映画宣伝をやり、社会教育用VTRの演出や製作をし、出版した本は40冊と、およそ手を染めなかった業務はないくらい多角的に活動されてきた人だ。
「儲けを考えなかったから、やってこられたのだと思う」とは中野さんの言だが、この厳しいご時世に27年間会社を切り盛りされてきたのは、並みの才覚ではない。
わたしが中野さんを知ったのは30年ほど前、当時彼女が勤めていた映画配給会社で挨拶を交わしたのがきっかけだ。その会社は、わたしがプロデュースした小川紳介の『ニッポン国 古屋敷村』をフランスに売り込もうとしてくれていたから、時折訪ねていたのだ。ほどなく中野さんは退社し、パンドラを立ち上げることになる。
いつも颯爽としている中野さんは。行動の人であり、才気煥発。話題の豊富さと人脈の広さに舌を巻く。なにより話が面白い。そんな中野さんだから、これから始まる半生の記は、映画を関わっている人にはもちろんのこと、そうでない人にも、身を乗り出す読み物になることと思う。連載は1日と15日に更新する予定である。ご期待ください。
すきな映画を仕事にして
中野理惠
<第1話 『ハーヴェイ・ミルクとの出会い』>
60歳、女性、離婚歴あり、子供二人に孫もいる。仕事も充実しているが何かが足りない。それはパートナーだ!私のことではない。もっか公開中のパンドラ配給『私の恋活ダイアリー』の主人公というか、ドキュメンタリーなのでメインキャラクターというのだろうか。ただのメインキャラクターではない。撮影対象は自分。ニリ・タル。職業は映画監督。『ウクライナの花嫁』(2001年)などの社会問題のテレビドキュメンタリーを数多く作ってきた。ニリ・タル監督自身が自分を撮ったのだ。
この映画はパンドラ108本目の配給作品である。この仕事を始めてから連日、お祭りのような大騒ぎで、仕事に追われる日々を過ごしているうちに、会社を始めて、27年間が過ぎ、配給を手掛けた映画は100本を超えてしまった。新卒で就職した大企業を1年11か月で退社した後、映画配給会社を経て、パンドラを始めた。結局、すきな映画を仕事に選んでいつの間にか40年間を数えたことになる。
『ハーヴェイ・ミルク』
パンドラ最初の配給作品は、1988年公開の『ハーヴェイ・ミルク』(※①)である。この映画には思い出が多い。
映画を公開したのは映画館ではなく、池袋西武百貨店の中にあったフリースペース<スタジオ200>(※②)だった。
映画配給の最も重要な仕事は公開劇場を決めることである。1988年当時、『東京裁判』(1983年/小林正樹監督)、『ゆきゆきて神軍』(1987年/原一男監督)、『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年/新藤兼人監督)などの一部の例外を除き、ドキュメンタリーを興行として上映する映画館はなかった。しかし、最初からスタジオ200を会場として考えたわけではなく、シネ・ヴィヴァン・六本木(※③)を第一候補として考えて、公開を依頼した。・・・というのは、シネ・ヴィヴァン・六本木は、日本では上映される機会の少ないヨーロッパの監督作品などを上映し、映画の新しい動きを作っていたからである。担当者Kさんに、すぐに見ていただけたのだが、「テレビ的だから」との理由で断られた。だが、彼女はそのまま、系列のスタジオ200に持ち込んでくれたのであった。おかげで、日本でも陽の目を見ることができたのである。
『ハーヴェイ・ミルク』との出会い
『ハーヴェイ・ミルク』は、1986年暮れから翌年にかけて、滞在したニューヨークで親しくなった翻訳家Uさんが、「よかった!」と語っていた映画である。当時、私は外国映画の配給会社に勤務する傍ら、ウーマンリブの活動に関わっていた。リブの活動の一環として、1981年から発行していた女性用の手帳発行のグループを解散し、別の女性用の手帳を企画していたところだった。その作成に役立つ資料を、ニューヨークに着いて真っ先に行った本屋で購入したところ、偶然、その資料の中に、“The Times of Harvey Milk”(『ハーヴェイ・ミルク』の原題)の写真があり、プロデューサーのリチャード・シュミーセンの連絡先が紹介されていた。住所はニューヨークのマンハッタン。私が滞在していたのもマンハッタン。すぐに電話をすると「見せるから来ないか」と言う。リチャード・シュミーセンの部屋は、こちらの端に立つと、一方の端に置いてある家具がかすむほど、だだっ広いワンルームだった。その片隅のソファに座り、見せてもらう。映画で話されている英語は半分どころか、ほとんど理解できなかったが、70年代のパワーと、ハーヴェイの人懐っこい表情、共に活動する人々の活き活きとした動きが伝わってくる。スイスにある海外セールスの連絡先を受け取ると、舞い上がるような気持ちになった。当時の交渉はfaxと電話であった。ニューヨークですぐに交渉したのか、帰国してからだったのかは覚えていないが、買い付けた後、字幕付けから宣伝、公開まで、難儀の連続だったことは覚えている。
カムアウト
難儀の第一は日本語字幕だった。ほとんど忘れてしまったが、二つの表現だけは今でもよく覚えている。supervisorとcome outの邦訳である。困っていたところ、二つ目に通った大学の恩師である高橋一修先生(英米法)が、映画を見て「素晴らしい。民主主義のお手本のような映画だ」と絶賛し、字幕を全編に渡り、つきっきりで、それこそ、superviseしてくださった。<市政執行委員>は、高橋先生の訳語である。come outにはもっと困った。字幕の文字数制限もあり、適切な訳語を思いつかない。結果として、<カムアウト>と、そのままをカタカナで字幕とした上で、(ゲイだと公言すること)と加えた。その後、<カムアウト>あるいは、<カミングアウト>は日常表現として、今や日本でも定着している。
2009年にこのドキュメンタリー映画に基づいて作られた『ミルク』(※④)が日本公開された際、紹介記事にはゲイや同性愛の文字が、何の抵抗もなく使われていた。だが、当時は全く異なっていた。言葉は歴史を背負っていると実感する。ゲイや同性愛が名実ともに表舞台を歩き始めている事の証だと思う。
日本語字幕が終わると次は宣伝だ。宣材作りでは、まず、『草取り草紙』の福田克彦さんと波多野ゆき枝さんが、映画に感動し、協力してくれたのは嬉しかった。ゆき枝さんがチラシの全体像を考え、彼女の知り合いのデザイナーがイラストとデザインを担ってくれた。キャッチコピーの<彼がこだわったのは たったひとつ Who am I ?>は、ウーマンリブを牽引した田中美津さんが、「いい映画ね」と言って、じっと考えてくれたものである。
<第2話につづく>
脚注
① 『ハーヴェイ・ミルク』原題“The Times of Harvey Milk” アメリカ映画
監督:ロバート・エプスタイン・リチャート・シュミーセン
ゲイであることを公言して、全米初の市政執行委員(日本にはないシステムで、行政側から政治を監視する人で公選により選ばれる)となったハーヴェイ・ミルクの活動と暗殺、その暗殺事件の裁判についてのドキュメンタリー。1984年アカデミー賞最優秀長編記録映画賞他受賞歴多数(1984年/87分)
② スタジオ200(スタジオニヒャク)
池袋西武百貨店内に設置されていて、大野一雄のコンテンポラリーダンスなどの公演にも使われていた多目的スペース。1991年に閉じた。
③ シネ・ヴィヴァン・六本木
1983年『パッション』(ジャン=リュック・ゴダール監督/フランス映画社配給)でオープンし、1999年『ヘンリー・フール』(ハル・ハートリー監督/ポニー・キャニオン配給)で閉館した六本木にあった映画館。
④ 『ミルク』原題Milk
監督:ガス・ヴァン・サント 主演:ショーン・ペン
2008年アカデミー最優秀主演男優賞賞受賞歴多数(2008年製作/128分)
【プロフィール】
中野理惠(なかの・りえ)
1950年静岡県出身。1987年に㈱パンドラを設立し、映画・映像の製作・配給、映画とジェンダー関連の出版を業務として現在に至る。早くから視覚障がい者が映画を見る機会をつくることに力を注ぎ、2002年には、日本初の商業劇場での副音声付上映を実現させた。最新プロデュース作品『アイ・コンタクト もう1つのなでしこジャパン ろう者女子サッカー』(10年/中村和彦監督/文部科学省特選)。訳書に『ディア・アメリカ-戦場からの手紙』『アダルト・チルドレンからの出発―アルコール依存症の家族と生きて』など。
㈱パンドラ公式サイト→http://www.pan-dora.co.jp