【新連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第2話 text 中野理惠

『ハーヴェイ・ミルク』公開の頃スタッフと 左からビッキーこと櫛引順子さん 柳川由加里さん 中野
(撮影者が不明なので、もし、ご覧になってご自分と思われたら編集部宛てにご連絡ください)

 すきな映画を仕事にして                  中野理惠

<第2話 「オカマのリョウキ殺人!?」〜『ハーヴェイ・ミルク』公開のころ> 

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「オカマのリョウキ殺人?」

これは、当時、ある大手出版社発行の週刊誌の編集者が、「映画を見て、ぜひ取り上げてください!」と伝えた時に、口にした言葉である。彼に限らず、マスコミの人たちに電話で『ハーヴェイ・ミルク』の内容を告げると、「同性愛?」とか「なにそれ?」といった反応が圧倒的で、まともに相手をしてもらえなかった。それにしても同性愛への偏見には驚いた。当時、このことに関しては、さまざまな場で書き、喋ったのだが、手許に僅かに残っていた記事で確認する以外は、記憶から詳細は欠落し、<偏見>という言葉を実感したことだけが強く残っている。

 

第二の難儀(もしくは ふたつ目の難儀)

つまり、宣伝のパブリシティが第二の難儀事項だったのである。ゲイへの抵抗や偏見が強かったからか、ドキュメンタリーだったためか、アカデミー賞を受賞していたのに、まず、試写を見てもらうまでが、たいへんだった。試写室を借りていてはお金がたまらない。一計を案じ、試写室だけではなく、当時、大の仲良しだった某映画監督から預かっていた16ミリの映写機で、木造の建物の二階にあった当時のパンドラの、畳に換算すれば10畳ほどの狭い事務所内でも試写をした。

スクリーンはポスターの裏を使った。と簡単に書くが、事務所のあった木造2階建ての建物は、ギシッ、ギシッと不安定で急な階段を昇らなければならない。建物そのものがあきらかに西側に傾いていたので、モノを机に置くと、コロコロと転がる。一階にあったお手洗いも壁にカビが浮き出た凄いものだった。地下鉄から地上に出ると徒歩1分くらいでわかりやすいのに、あまりに古くてみすぼらしいので、廃屋と間違え、通り過ぎてしまい、迷う人もひとりや二人ではなかった。

昼間に試写をする場合には、窓に黒い布や紙を貼って光を遮断しなければならない。当時、『東京タイムス』という新聞があり、その編集長だった中川六平さんがフリーライターになり、事務所の片隅に机を置いていた。部屋を真っ暗にするから、彼や、彼を訪ねてくる人は、事務所を出るか一緒に見るかの二者択一である。冒頭に触れた編集者Nさんもその一人だった。デビュー前の吉本ばななさんが、スタジオ200の紹介で、見に来てくれたこともあった。勿論、鑑賞後はいい文章を書いてくださった。

素直で率直な反応ばかりではない。今でも覚えているのは、「なぜ、ゲイなのかが描かれてない」と、障がい者の活動に関わっている男性に言われたことがある。「あなたはなぜ男性なのですか、と問われたらどう答えますか」と、すかさず相手に聞いた。

 

マスコミ試写37回 

土日に試写をしたこともあり、たった一人の為に映写機を回したことも一度や二度ではない。「日本経済新聞」文化部記者の石田修大さんには確か、一人で見ていただいたと思う。土日を含めて映写をしてくれたアシスタントの柳川由加里さんには、感謝の言葉もない。彼女か、ビッキーこと櫛引順子さんのどちらかが、多分、相手は中川六平さんだったと思うのだが、

「このところは、夜で仕事が終わらないと、朝早く来ているんですよ」

と、私の顔を見ながら話した時の、うんざりした表情を今でも思い出す。確かに、時によると朝は8時前から出社していた。恐らく、周囲は呆れていたのだろうが、全く気付かなかった。

「試写を見てほしい」と、しつこく売り込みの電話を掛ける私に、おそらく根負けしたのだろう、わざわざ新富町まで(当時は有楽町線の終点で、新富町まで来ると乗客はまばらだった)足を運んでくれた、多くのマスコミ関係者にも感謝している。見た後は帰らず、たいていの場合、そのまま感想を話し始めて、軽く一時間は事務所でそのままの状態で、時にはお酒を飲みながら、語り合った。この傾いた木造の事務所で合計37回試写をした。

いい作品は、いつかは人々に受け入れられる。『ハーヴェイ・ミルク』は、1988年9月30日から10月2日まで3日間で合計8回、スタジオ200で上映される予定が、10月4日と5日の17時と19時に追加上映があり、さらにユーロスペースでの同年の12月2日から翌年1月27日まで、連日21時からのアンコール上映、加えてスタジオ200での再映にまで広がっていった。そして、この25年の間に、数回ビデオ化されただけではなく、NHKで放送され、長く人々に記憶される映画となった。この配給で私はゲイのグループからbest people of the worldとして表彰され、トロフィーをいただき、新宿2丁目のゲイバーでお祝いもしていただいた。

ベスト・ピープル賞を手に当時のパンドラ事務所の前で

10年ぐらい後だったと思うのだが、友人たちとサンフランシスコを訪れ、通り名のCASTROの、赤字に白抜きの大きな看板が目に入った時、懐かしい思いが込み上げてきたのを覚えている。ちょうど“The Wonderful, Horrible life of Leni Riefenstahl”をかけている映画館があり、レニ・リーフェンシュタール(※①)の写真が目に飛び込んできた。3時間を越えているとわかったが、その場で友人を誘い見た。後に、パンドラで配給した『レニ』である。『レニ』もエピソードがいくつかあるので、後述したいと思う。

ところで、ウィキペディアで<1988年公開の映画>を検索すると、『ラスト・エンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ)『月を待って』(ジル・ゴッドミロー)、そして大好きなキューブリックの『フルメタル・ジャケット』、『八月の鯨』(リンゼイ・アンダーソン)などと並んで、『ハーヴェイ・ミルク』(9月の項)が掲載されている。へええ、と驚いてしまった。しかもリンクのないタイトルも多いのに、作品情報にリンクされている!配給はパンドラ・カンパニーとなっていた。当時はそう名告っていたと思いだした。

(つづく。次は2月15日に掲載します。)

※①レニ・リーフェンシュタール Leni Riefenstahl 1902年~2003年

  ドイツの映画監督/写真家。ナチ党大会のドキュメンタリー『意志の勝利』(1935年)、1936年のベルリン・オリンピックのドキュメンタリー『民族の祭典』で知られる。