【Review】無力さについて――坂口香津美監督『抱擁』 text 成宮秋仁

 

唐突に始まる映像。団地の小さな部屋の中で、布団の上で、うずくまり、ひたすら苦しみの声を上げる年老いた女性の様子を、たんたんとカメラは捉える。
カメラを撮る人物は、その女性の息子。坂口香津美監督である。カメラに記録される映像の一コマ一コマは、坂口監督が自ら凝視した一つの現実世界の有様だ。それをスクリーン越しに観ている私たちは、否応なしに、坂口監督の眼差しに宿される記憶に対峙する事になる。

それは苦痛を伴う映像体験だ。しかし同時に「その人に寄り添う」という事の意義の重さを、私たちは疑似体験する事になる。それに価値を見出せるかどうかは別にして、少なくとも、その冒頭の映像から、静かに、たんたんと伝わる圧迫感に、体が緊張し、身動きがとれなくなってしまうのは事実である。

一人の年老いた女性が、もがき苦しみ、助けを求めたり、薬を望んだり、ひたすら何かに操られたように混乱している様子の生々しい躍動感に、得体の知れない戦慄を覚える。その混乱の原因が分からない事に、私たちは不安を覚えるだろう。
しかし、それは坂口監督自身の不安であり、私たちは、映画が始まって数分と経過せずに、すでに坂口監督と同じ感覚を共有せざるを得ない。その映像の引力の強さに、まず圧倒される訳だ。

この映画を客観的な視点で鑑賞する事は、そもそも不可能なのだ。あくまで主観的な視点で「その人に寄り添う」という事。逃れられない苦痛を伴う体験が待つという一つの試練だ。知的好奇心だけで、それに対応する事は難しい。人に寄り添うという事は、その人の苦しみも味わう事になる。だから、何もかも受容できる「覚悟」が必要になってくる。相当な心構えがないと困難な事だ。そして、その試練の様子を描き抜いた坂口監督の意志の強さに賛辞を贈りたくなる。それほど、厳格なまでに、映像は現実を捉えている。

 

 

坂口監督のカメラが捉える一人の年老いた女性。名前は坂口すちえ。坂口監督の母親である。長女を病気で亡くし、夫も入院しており、精神安定剤を常用している。いや、むしろ精神安定剤に依存している。
団地の中の部屋の様子は、とても不安定だ。そこまで部屋が散らかっているようにも見えず、しかしそれほど生活感があるようにも見えない。部屋の中で印象に残るのは、すちえさんが一日の大半を過ごす布団だけだ。布団の上だけ、あるいは布団の周囲だけが、すちえさんの聖域であり、世界となっているようにも見える。それは何か、悲しいようにも感じられ、繊細なもののようにも感じられる。すちえさんは、その自身の世界の奥底で何かに怯え、苦しみ、悲鳴を上げている。声をかける息子の坂口監督にも、自分を傷つける敵対者のような発言をするなど、妄想も見られる。そして悲鳴を上げながら、薬を求め、あげく坂口監督に「私を撃ち殺していい」とまで告げる。何とも過激な苦痛の言語化が見られる。

ホームヘルパーと過ごしている時のすちえさんは、一転穏やかな人である。どちらが本当の彼女なのだろうか。そして彼女が、どうして苦しみ続けるのか、精神安定剤に依存し続けるのか、謎は深まるばかり。カメラはたんたんとすちえさんを、カメラの持ち主である坂口監督自身の母親を捉え続ける。その画面の端々で、霧の中の小雨のようにかすかに伝わる無力感がある。坂口監督の無力感だ。カメラは常に坂口監督の無力感を伴って、自身の母親の記録を続ける。その映像の感覚の不安定さは、坂口監督の心の有様である。それは、母親の苦しみの謎を追いかけるうちに深くなっていく。

すちえさんを追いかけ、あらゆる視点で、すちえさんを捉えるカメラ。頻繁に切り替わるカットは、どこか神経症のようなしつこさがある。そして、すちえさんが眠っている時は、じっと、すちえさんを見守るように捉えるカメラ。このカメラが捉える視線、即ち坂口監督の視線は、母親の苦しみと混乱に寄り添っているようにも見えるし、ストーカーのように執着しているようにも見える。その行動の有様は、カメラという物質が、坂口監督にとっての精神安定剤である事と解釈できる。これは何か危険な感覚が窺え、同時に坂口監督の言語化できない悲しみと、すちえさんの言語化できない悲しみに、ある種の繋がりが起きたように窺える。そんなアイロニーを坂口監督が望んだとは思えない訳だが。

坂口監督が、母親から引き出した言語は「孤独」と「寂寥感」、「虚無感」それはカメラを通して母親と向き合った坂口監督のひとまずの結果だ。そして、それ以上工夫のしようがない事を証明した。

 

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すちえさんの変化を促すきっかけとなったのは、夫の死である。

夫の死後、すちえさんはますます不安定な状態になり、妹のマリ子さんと再会する事になった。姉の状態を見て、一緒に暮らす事を決断したマリ子さんの顔は、不安を湛えながらも、どこか楽観的な印象だ。こうして、すちえさんは東京を離れ、郷里の鹿児島県種子島に帰った訳だ。ありふれたヒューマン・ドラマであれば、そこから家族や主人公の再生が描かれ、私たちもそこから生まれる希望にあふれた時間を、安堵しながら共有できる事だろう。しかし、カメラはやはり厳しい現実を捉えていた。

すちえさんと妹との再会は、まさに希望の瞬間であり、希望の出来事だった訳だ。しかしそれは坂口監督自身にとっての希望であり、私たちにとっての希望に他ならない。すちえさん自身にとっての希望は、この時点ではまだ生まれてはいない。そうした不安と共にカメラは、東京にある団地の小さな部屋の中の「布団の上」という一つの世界から離れ、鹿児島種子島の風景を捉える。団地から荷物やら家具やらが運ばれ、あるいは撤去されていく様子は、すちえさんの心のリセットというよりは、坂口監督の、その時点での母親との関わりにおいての一つの区切りであり、心のリセットに見えた。

すちえさんとマリ子さんの共同生活で紡がれるエピソードは、もちろん「夢物語」然とはしていない。平凡な、静かな現実の出来事がたんたんと続いていく。私たちは、それを直視する事になる。
東京の喧騒から離れ、種子島という田舎の自然が、すちえさんの故郷の風景が、すちえさんの家族が、すちえさんを迎え、そこにある木々や木々のざわめき、浜辺の砂、海の色、海の流れ、静かな波音、ゆっくりと移り変わる夕暮れ、穏やかな夜、自然の食べ物、新鮮な魚介類や、果物、明るい家族が、すちえさんを包みこむ。その一見、新しい生活に入っていく様子は、観ているこちら側にとっての癒しにはなる。しかし、すちえさんは、彼女自身にとって、懐かしいはずのそれらの風景に、どうにも上手く入りこめないでいるように見える。つまり、新しい混乱が起きている訳だ。その混乱に対して、すちえさんが求める希望は、マリ子さんの献身的な介護や故郷の匂いではなく、いつもつきあっていた精神安定剤だ。

これは当たり前の事であるが、現実世界において、希望となりえそうな「鍵」が正しく機能するとは限らない。そういう確かな厳しさがあるからこそ、そしてそういう瞬間を無視せず真摯に捉えているからこそ、そのどうにもならない現実感に、私たちは強い説得力を覚え、同時に打ちのめされる。

次第に、食べる意欲を失い、再び「布団の上」の世界に戻っていくすちえさん。老人ホームのデイサービスで知り合いもできたのに、自身の誕生日が祝われる席では、仮面をつけたような笑みを浮かべ、子どもたちの出し物の席では、そこにいず、一人離れたところで臥せっている様子が映される。そうしたどうにもならない実情に、マリ子さんも悲しみの顔を湛え始めた。

このやるせない現実感を、たんたんとカメラが捉えた事により、人を介護する事の困難さが切実に伝わってくる。「その人に寄り添う」という事は、結局のところ、その孤独や寂寥を味わう事でしかなく、その人を愛し心配する人たちや、故郷の匂いが、簡単にその人を癒す訳ではない事も、カメラは捉え抜いた。捉え抜いたからこそ、その後に起こった、すちえさんのかすかな変化の瞬間も捉える事ができた。

 

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何かが少しずつ変わっていくように、すちえさんは変化していった。それは苦しみではなく、また別の感覚である。希望なのかどうかは分からない。すちえさんがそれを言語化する事はない。次第に精神安定剤を絶つ事ができるようになったすちえさん。自分でシルバーカーを使い、歩く様子や、マリ子さんに髪を切ってもらう様子には、生き生きとした生命力を感じる。浜辺を姉妹が赴いた際に、カメラは浜辺を進む亀を捉えた。これは坂口監督が、母親をカメラで捉え続けていくうちに出した一つの結論なのかもしれない。

それはすちえさん自身が、変わっていくための時間が必要だった事だ。すちえさんにとって、新しい人生の始まりには、確かに家族や故郷が必要だった。しかし短期的には効果は出ない。ゆっくりとその人に合った変化するべき時間が併せて必要だった。いわばこれは血抜きの時間でもあった。
エンドロールにおいて、浜辺を歩く姉妹の様子には、新しく生きる事を選択したすちえさんの生命力と、それを見守るマリ子さんの抱擁力が、共有されているように見えた。それは、坂口監督がカメラを通して、母親にひたすら寄り添ってようやく辿りつき知った、その時点においての一つの結論だ。そしてそれは変化する結論でもある。現在も、これからも、すちえさんは生きていくからだ。

付け加えて、本作は心の病を抱えた人を介護する人たちに、一つの見解を明示したといえる。心の病は、いつ治るか分からない。しかし決して治らないとも限らない。確かに時間はかかるかもしれない。それでもその人に寄り添う事で、その人の回復を描いた本作の存在は、心の病を抱えた人を介護する全ての人たちに、気づきや希望を生みだすエネルギーとなりうるはずだ。

|公開情報

抱擁

監督・撮影・編集 坂口香津美
出演 坂口すちえ 宮園マリ子 坂口諭
プロデューサー・編集 落合篤子
音楽録音 一本嶋 諭 音響デザイン 山下博文
製作・配給 スーパーサウルス
2014 年/93 分/16:9/カラー/日本
http://www.houyomovie.com
★4/25[土]よりシアター・イメージフォーラムにて公開中![他全国順次]

|プロフィール

成宮秋仁 Akihito Narimiya

1989年、東京都出身。介護福祉士&心理カウンセラー。専門学校卒業後、介護士として都内の福祉施設に勤める。職場の同僚が心の病を患った事をきっかけに心理学に関心を持つ。心の病に対して実践的な効果が期待できるNLP(神経言語プログラミング)を勉強。その後、心理学やNLPをより実践的に学べる椎名ストレスケア研究所の門戸を叩く。その人が元気になる心理カウンセラーを目指し、勉学に励む毎日。映画は5歳の頃から観始め、10歳の頃から映画漬けの日々を送る。

これまでに観た映画の総本数は5000本以上。文筆活動にも関心があり、キネマ旬報「読者の映画評」に映画評が何度か掲載される。現在、映画から学び得た知識を心理カウンセリングに活かせないか試行錯誤中。将来の夢、映画監督になる。

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