【Review】伝説は、バードランドで創られる。~フィクションゆえに迫れた1人のジャズメンの本質~『ブルーに生まれついて』 text 藤澤貞彦

 「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」 ウエスト・コースト・ジャズのトランペッター、チェット・ベイカーの代表曲のひとつであり、彼の人生そのものが、タイトルとなったこの作品は、その中でも彼が一番苦しんだ時代、1966年の出来事に焦点が当てられている。すなわち暴漢に襲われ、トランペッターの命ともいえる顎が砕かれ前歯を失い、演奏が出来なくなってしまった彼が、第一線に復帰するまでを描いている。

冒頭、1954年バードランドでの初めての演奏は、実はチェット・ベイカー自身(イーサン・ホーク)が自らを演じる、伝記映画の撮影場面であることがすぐに知れる。確かに20代にしては老け過ぎている。その中で、チェット自身が楽屋に連れてきた女にヘロインを勧められ、躊躇する印象的なシーンがある。「あなたって真面目(スクエア)なのね」という台詞に刺激されて、初めて彼はヘロインの注射をするのだが、ここでのその言葉は、1960年代中頃に流行っていた、“ヒップ”と反対の意味をなす“スクエア”という意味で使われているようだ。“ヒップ”とは、反体制的で、何が起ころうとクールでいられること、それに対して“スクエア”は、保守的で、体制的、8時間働いて報酬を受け、社会に責任感を持っていることである。それ故に、反体制的であり、誰とも迎合する気などなく、クールな演奏を目指す彼にとって、“スクエア”という言葉はことさら屈辱的に響いたのだろう。実際、神経質ですぐに熱くなるという性質を持っていたチェットは「クールでいるには麻薬の力を借りずにはいられない」と、語っている。“ヒップ”でいるということは、まさに、死を身近に感じ、社会から離反することなのである。彼がヘロインを始めたきっかけは、これとは随分違っているのだが、このシーンはある意味、彼の薬物依存の原点を、地獄の始まりを端的に示していると言える。

そもそもチェット本人が自身を演じる伝記映画は、存在しない。ただ、イタリアの映画プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスが実際に企画し、実現しかけたことがある。出演料まで払われていたのだが、撮影に入る条件が、彼が麻薬から足を洗うことだったために、撮影に入ることさえなく終わってしまったのだ。本作のストーリーは、チェットの顎が砕かれ前歯を失い演奏が出来なくなってしまったこと以外は、ほとんどがフィクションと言っても過言ではない。実は、最も重要な相手役ジェーンは実在しない女性である。ここまでフィクションで塗り固められた伝記映画というのも珍しい。もっとも、彼自身、常に事実と違う自分自身の物語を作りだす性癖があったことを考えると、こうした本作のアプローチ自体が、チェットらしさを示しているとも言える。映画の中で語られる、彼がチャーリー・パーカーのオーディションを受け、直ちに出演が決まったという話自体が、本人の創作なのだから。

しかし、それでもこれは紛れもなくチェット・ベイカーを描いた作品なのである。本作は、一見するとトランペッターとして致命的な傷を負い、そこから復活するドラマという風にもとれるが、そのことよりむしろ、メタドンによる治療をつづけ、麻薬という鎧を身につけていなかったこの時期を物語として選ぶことによって、彼の素の部分に迫ろうとしたように思えるのだ。その後の彼が再び表舞台に立てた理由と、その後再び破滅へと進んでいく理由が、この時期だからこそ明確に表れてくるのである。

チェット・ベイカーが再起不能の怪我を負いながら、再び表舞台に立てた理由。それは音楽への執念である。文字どおり血の滲む思いをして、懸命にトランペットを吹こうとするその執念。場末のレストランの、素人のジャズ演奏に飛び入りしてまで、人前で演奏したいというその執着心である。それはどこからくるのか。父親に初めて買ってもらったトランペットのマウス・ピースを大切に取っている反面、ミュージシャンを目指し挫折した父親のようにはなりたくないという、父への複雑な思いが彼を舞台へと駆り立てるということもあるだろう。だがそれ以上に「女性の身体もトランペットを扱うようにして」という恋人の言葉のとおり、チェットは自分の楽器しか、演奏しか、愛せない人間だったのではなかったのか。大切な恋人に、マウス・ピースをプレゼントする行為も、自分の大切なものを授けるというよりは、それを彼女の首にネックレスのように掛けるという行為によって、むしろ彼女自身も、音楽に支配された自分の世界の1つになってほしいという、彼の勝手な願望が含まれているようにも感じられる。そう考えると、何よりトランペットへの愛が、チェットを再び舞台に立たせたと、思わざるを得ないのである。

では、仲間やチャーリー・パーカー等、チェットの周囲の人間たちが麻薬で破滅していく姿を間近で見ながら、なぜ彼は麻薬を止めらなかったのか。それは恐怖心である。舞台に立ち、大失敗を犯して恥をかく恐怖である。本作では、その根源がバードランドにあるとしている。チェットがバードランドで、憧れのマイルス・デイビスとダブル・ヘッダーで舞台に立ったことは、史実も映画のとおりである。マイルス・デイビスは、この時期、確かに彼を目の敵にしていた。実力もないのに、白人というだけで持ち上げられやがってと。実際、チェットの実力がマイルスには及ばないのは事実であり、それなのに人気投票では自分のほうが上であるということについて、彼は自覚していた。その結果、彼は委縮し怯えてしまい、演奏は惨憺たるものとなってしまったのである。それ以降彼は、ずっとこの失敗の傷を背負っていくことになるのだ。作品では、その時の様子を、楽屋でのマイルスとのやり取りという形に凝縮している。そういう意味でバードランドは、チェットの夢であるのと同時に、彼の拭い去れない悪夢を象徴しているのである。それ故に、作品では何度もこの場面が挿入され、クライマックスの舞台に、史実では彼が再び立つことがなかったバードランドが選ばれたのだ。

おそらく、ドキュメンタリーや、忠実な伝記の再現という形では、チェット・ベイカーのスキャンダラスで暗い面ばかりが目立ってしまったことだろう。本作は、それとは正反対のフィクションという形を取ったからこそ、逆に彼の本質に迫ることができたとも言える。バードランドに象徴される恐怖心を抱えながらも、破滅への道を辿っていることを自覚しながらも、彼が、演奏せずにはいられなかった理由が、ジェーンという架空の女性を登場させることによって、明らかになってくるからだ。他人を心から愛することができなかったこと、唯一心から愛せるものはトランペットだけだったこと、それが彼の悲劇なのである。バードランドの舞台に再び立ったチェットの姿、それはまるで、『赤い靴』で、バレエシューズを悪魔から与えられたのと引き換えに、死ぬまで踊り続けなければならなかった踊り子とよく似ている。チェット・ベイカーの人生とは、実際そういうものだったのだろう。しかしそこにこそ、彼のミュージシャンとしての本質が存在しているように思えるのである。彼もまた、バードランドが創りだした伝説の1人なのかもしれない。

【作品・上映情報】  

『ブルーに生まれついて』
(2015年  アメリカ/カナダ/イギリス)
脚本/監督/製作: ロバート・バドロー
出演:イーサン・ホーク、カルメン・イジョゴ、カラム・キース・レニー
サウンドトラック:ワーナーミュージック・ジャパン
協力:BLUE NOTE TOKYO
後援:カナダ大使館 配給:ポニーキャニオン
宣伝:ミラクルヴォイス

11月26日よりBunkamuraル・シネマ、角川シネマ新宿他で全国ロードショー
公式サイト→http://borntobeblue.jp/index.html

【執筆者プロフィール】
藤澤 貞彦(FUJISAWA SADAHIKO)
映画ライター/映画情報サイト「映画と。」ライター。東京国際映画祭第4回批評家プロジェクト佳作入賞。他、「トーキョーノーザンライツフェスティバル公式サイト」「ことばの映画館」「映画と私」「INTRO」などに参加。英国、北欧、フランス文化に憧れる一方、文楽や相撲など日本の伝統文化も好きで足繁く通っています。