【連載】ドキュメンタリストの眼⑮『kapiwとapappo アイヌの姉妹の物語』出演者インタビュー text 金子遊

         姉の絵美さん(左)と妹の富貴子さん(右)

本作は、北海道阿寒湖にあるアイヌコタンに生まれた姉妹が、伝統音楽を披露するユニットを組み、ライブを成功させるまでを追ったドキュメンタリー映画である。
姉の絵美は、故郷をはなれて、東京の高尾で夫や家族と暮らし、アイヌの伝統的な唱歌やダンスを披露する活動をしていた。ところが、2011年の福島原発事故をきっかけに放射能汚染を不安に思った絵美は、夏に子どもたちを連れて阿寒湖のコタンに里帰りする。そこでは、妹の富貴子がアイヌ料理店を営みながら、観光船でアイヌの歌を披露する静かな暮らしをしていた。再会を機に「Kapiw & Apappo」というユニットを姉妹で組み、ライブの企画が立ちあがるが、さまざまな困難がふたりを待ち受けていた……。
2016年9月に、ふたり揃ってライブ活動のために来京した、出演者の姉妹にインタビューした。
(構成・写真=金子遊)


——この映画がつくられるようになった、あるいは、おふたりが出演を決めたきっかけを教えて頂けないでしょうか。

絵美(姉) わたしの夫が彫金家で、中野の大久保通り沿いにショップを構えていたんです。そこへ佐藤隆之監督が訪ねてきたのがはじまりでした。そのあと、渋谷で開催された世界口琴大会に監督がわたしの演奏を見にきたんですね。

富貴子(妹) わたしは阿寒湖のコタンでアイヌ料理店を経営しているんですが、そこの常連さんで文利さんというアイヌのおじいちゃんがいて、彼と一緒に佐藤監督がよく訪ねてくるようになった。富田さんが網走へいったり、釧路へ買い物へいったりするときに、佐藤監督は甲斐甲斐しく運転手をつとめていて、一生懸命やっている人だなと思っていました。2011年の春先だったと思いますが、監督が姉妹のドキュメンタリー映画を撮りたいと言いだした。そのときは、まだユニットやライブの話はなかったんです。別にこちらは構わないけれど、わたしたちの何が映画の題材になるのか想像もつきませんでした。

絵美 その頃、アイヌ民族のドキュメンタリーを撮っている人が何人かいて、1本は『TOKYOアイヌ』という映画になりました。ミュージシャンのOKIさんを追いかけるという企画もあった。佐藤監督の映画もそのなかのひとつなんだという認識でした。その前に佐藤監督はアイヌ・レブルズというバンドを追いかけていたのを知っていました。ですが、彼らは解散してしまったんですね。そのあと、こちらにお鉢がまわってきた(笑)。アイヌの文化に興味がある人なんだなと思いました。

——2011年の東日本大震災と福島原発の事故は、音楽ユニットの結成の動機になっているのでしょうか。

絵美 わたしには3人の子どもがいるんですが、3番目の子どもは震災当時は幼稚園児でした。高尾という土地は子どもを育てる面でも良い環境だったんだけど、放射能汚染について夫とふたりで調べていくうちに、小さい子どもは東京にいない方がいいという結論になりました。最初に大阪へ逃げてから、いったん東京へもどって、2011年の8月からは車で阿寒湖の実家へ移動しました。夏休みを利用して子どもたちはコタンの近くにある学校に、ひとまず1ヵ月間体験的に編入させてもらいました。震災の直後に大阪へ避難したとき、北海道がお母さんが仕事で東京へ出てきたり、いろいろとパニック状態でした。2012年になってから本格的に家族で阿寒湖に引っ越すことに決めたのです。
『kapiwとapappo アイヌの姉妹の物語』より

——アイヌの伝統音楽がテーマになった映画だと思います。口琴のムックリや弦楽器のトンコリの演奏、それから独特の節回しでうたわれるウポポ(歌)や踊りが、とても魅力的ですね。そのような歌や楽器の演奏や舞踊を、どのように習得したのか教えてください。

富貴子
 映画でも昔の映像が流れますが、赤ちゃんや幼子の頃からアイヌコタンでは冬になると、そこで暮らす子どもたちが集まって、おばちゃんたちから踊りを教わっていました。ちょうど30年から40年くらい前の時代は、アイヌ文化保存会が地元にできて、ベビーブームということもあって、そのように伝承文化を習った子どもたちが多い時代だったんです。伝統的な踊りに関しては、物心つく前からおどっていたという感じです。

母は山へ遊びにいくのが好きで、山菜をとったり、子どもの頃からよく山へ連れていったもらいました。母は歌が好きで、山へ一緒にいく仲の良いおばちゃんで、映画にも登場する弟子シゲ子さんも歌が上手で、山でいつもうたっていました。わたしたちは花を集めたり、草をちぎったり、蔦でターザンごっこをしたり遊びながら、聴くともなくその歌を聴いていた。大人になってお酒が呑めるようになってからは、母と一緒に文化伝承者のおばちゃんの家に遊びにいって、その場で教えてもらいました。お酒を呑むと、いろいろな歌が浮かんできて「さあ、みんな、ここはこのような節で、はい!」みたいな感じで、自然と伝わっていくんですね。普段は他人に披露しないような歌もポッポッと出てくる。それは集会所に集まってみんなで練習するような形ではない、もっと深い部分での親密な歌を聴く機会があった。ですから、母の影響が大きいですね。浦河の母の実家へいけば、おばあちゃんがアイヌの歌や、なぜか日本の民謡の「貝殻節」を教えてくれました(笑)。

絵美 それから阿寒湖のコタンは観光地なので、子どもの頃からアイヌの歌や踊りを人前で披露する機会がふつうよりも多かったんじゃないかな。文化を伝承しようという気持ちがつよいので、他の土地へいって披露するということもよくありました。10歳になる前から化粧して衣裳を着て、舞台にあがって踊るという機会がたくさんあったんです。子どもも多いし、見栄えもいいし、ワーッとやってたんだろうな。本州だったら、その土地の盆踊りは地元の人なら誰でも踊れますよね。それと同じです。

富貴子 実家が料理店をやっていたんですが、子どもの頃からムックリを触っていて、鳴らせるようになるとうれしかった。店先でムックリを演奏していると「いやー、お嬢ちゃん、すごいね」と褒めてくれる大人もいました。それに加えて、やはり弟子シゲ子さんの影響が大きい。シゲ子さんは国際口琴大会へいって、ムックリを披露して、世界中のいろいろな人と交流してきました。シゲ子さんの家へいくと、木製や鉄製やさまざまな形をした世界中の口琴がおいてあります。外国からきた口琴演奏者にコタンで演奏してもらったり。シゲ子さんがムックリを演奏すると、ただビョーンと鳴らすだけでなく、そこから倍音のような聴いたことがないような凄い音がでてきます。この小さなムックリという楽器がこんなに奥深く、そして、これひとつが演奏できるだけで、世界中のさまざまな場所へいって、いろいろな人と交流できてすばらしい、ムックリ大好き!という感じになりました。具体的にはノルウェー、ハンガリー、スペインなどのヨーロッパや中央アジアなどに口琴がありますね。

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