ボルバキアとは、共生バクテリアの一種で、これに感染した昆虫類は、オスからメスへ、もしくはメスからオスへと性を転換されるか、それに類した性の変異を余儀なくされるというものである。生物学者セス・ボーデンスタインは、ボルバキアを「性の操り人形師」と呼び、その多様な性の創造性に驚きを示している。もしかしたら本当に、LGBTsをコントロールしているものとは、遺伝子的特性やホルモンバランスではなく、ボルバキアなのかもしれないのだ。
そのボルバキアをタイトルに用いたこの作品は、こうした主題を描こうとする場合に要件とされる社会的問題性との間にあえて距離を置き、監督自身言うところの「登場人物たち同士の関係性を通して物語を展開」しようとしたもので、当然そこには深刻なメッセージ性はない。社会における孤立や疎外感といったニュアンスは、明るく振る舞う登場人物達の背後に確かに揺曳するが、それらはたちまち、彼等の確固とした自己肯定と、それに裏打ちされた行動によって遠ざかり、そこにこのドキュメンタリーの個性がある。
登場人物の一人、みひろが、自分の性向を理解しているとは言えぬ父親の前で化粧し、美しい女性へと成り変わるシーンや、化粧男子井上魅夜が、保守的な世間の価値観に対して挑戦的な言葉を投げつける場面には、周囲の無理解に対する苛立ちはあっても、引け目や鬱屈といった消極的な人生観はまるで見られない。そこにあるのはむしろ、本来あるべき性を選び取った爽快さであり、充実感なのである。
この作品には、そうした性的マイノリティーの挿話が五つ語られている。それぞれのエピソードは、作中何度か挿入される静謐な打ち上げ花火のように、自らが選んだ性の切なさと、美しさと、はかなさを描いて、固有の輝きを放っている。
最初の挿話――ホルモンバランスの影響で、男性でありながら女性でもある王子とあゆは、女性としての装いの中で生きている。アイドルを目指すあゆは、新宿二丁目で知り合った王子に、初めて自分を理解してくれる相手を見つけ、友人とも恋人ともつかぬ不思議な空気感を共有している。だが二人がそれぞれの家庭環境に帰る時、そこには微妙な将来へのずれがある。あゆは、ありのままの自分を受け入れてくれる母を持ち、一方の王子は、画面にこそ出ないが、肉親との微妙な距離感を暗示する。
この作品のキャッチコピーである「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う」という、周囲の人々に対する否定的憶測が、王子の言葉の先には、そこはかとなく漂うのである。王子は、将来について、どうなるかわからないと答え、急に女性になるかもしれないと口にする。カメラはそんな王子の表情を映し続ける。見えるか見えないかわからないところで王子の瞳が濡れる。その表情に、性別においても、恋愛においても、オスでもなく、またメスでもないことへの悲しみと不安が宿る。王子の姿はまるで、その不安が織りなす美しさの形象のようだ。
一方、自分の性の方向性を自覚しながら、それを具体的な形に結実させずに生きる井上魅夜には、不安というよりもむしろ、現状に対する不満がいつもくすぶっている。義父に好かれたいという動機によって若衆となった魅夜は、トランスジェンダーを集めてバーを経営するが、いつも満たされぬ思いと、それでも自己に正直に生きようとする意識との葛藤の中にいる。魅夜の求める相手は、義父に代表される男性に違いなく、自らもまた装った女性としてではなく、男として愛されたいと心の底では願い続けているに相違ない。だから彼は、女装というよりもむしろ若衆の姿なのだ。ボルバキアは、性を転換させるだけではなく、性を留保しながら、それを別の性向へと作り直すことも出来るのだ。
それは、女装家一子の場合にも当てはまる。中年のタクシー運転手である一子は、女装癖を押し隠して、妻との生活を続け、子供達を進学させる。夫として、また父親としての義務の前では、自らの性的嗜好を封印するが、それでもボルバキアは彼の体内に宿り、その発露として、メスになる前の女装家へと彼を導く。その必然的行為の裡に、性とは何ものであるのかが明らかになる。それは偽ることの出来ぬ自己の存在証明であり、いかなる障害を受けようとも、生きている意味を実感するためには、明るみに出さねばならぬ装いなのだ。
社会の規範を共有する大勢の人々と、性的マイノリティーと呼ばれるこうした人々とを比較する時、少数者である彼等こそが実は、己れの価値観と自意識に忠実であり、たとえ性を介してであろうとも、在るとはどういうことなのか、生きるとはどういうことなのかを、真摯に問いかけている人々であることがわかるだろう。
その顕著な例が、『恋とボルバキア』の中心をなす二つの挿話である。
みひろは、男性として生き、離婚を経験し、今も会社勤めをしている。だが、常に満たされない思いを抱き、社会と共有することの出来ぬ価値観に悩んだ末に、女装という居場所を見つけるのだ。女性の装いをした時、それまで彼に対して見向きもしなかった人々が、突然その存在を認め、向こうから声をかけてくる。みひろは初めて満足感を覚え、もっと美しくもっと輝きたいと願う。女装を始めると同時に、彼の体内に共生したボルバキアは、自分にとって相応しい環境を考慮して、彼を彼女へと転換させてゆく。みひろは、女装した男ではなく、いつの間にか、男を愛する女となり、ある男性に恋をする。その相手を前にして、みひろは恋する女性がそうであるように、思いを打ち明けられぬことに悩み、相手の彼女に嫉妬し、それでも男のためにかいがいしく料理を作る。女性としてのそのいじらしい姿を目にする時、もしかしてボルバキアとは、当人にとって最も相応しい環境を用意するために動く生の内なる意志ではないのかと思える時がある。その証拠に、いったん転換した性は、新しい環境に適応すべく未来に向かって歩き始め、けっして古い環境に未練を残すことはないのだ。
みひろの恋する相手、女装雑誌の編集長井戸とみひろを比べる時、指向する性の対象の定まらぬ井戸のその女々しさ、その保守性、その淀み具合は、みひろの選び取った性の潔さを前にすると、ただうすっぺらな影としか見えない。だが、たとえそれが成就しない恋であろうとも、恋するという感情がみひろを真の女性にしたことに間違いはない。みひろは、女装をすることによって外見的女性となり、恋をすることによって内面的女性となったのだ。
この作品のタイトルが、性の転換現象を示すと同時に、恋する感情による心の転換現象を示す『恋とボルバキア』である理由がそこにはある。そうして、この二重の意味での転換現象の最も繊細な花が、じゅりあんとはずみの挿話なのである。
レズビアンとして生きるじゅりあんは、ひと目見た時から、はずみの上に理想の相手を見い出す。だが、はずみは、たとえ美しく装っていたとしても、戸籍上は男性であり、じゅりあんは他のレズビアンから「偽物レズビアン」と呼ばれ、心ない中傷を受ける。メスしか愛せないはずのメスが、ボルバキアによって、オスから転換したメスに恋をしたことによる性の不都合性がそこにはある。しかも、メスの装いをしたオスとのレズビアン関係を維持するために、じゅりあんは、メスから精神的オスへと再び心の転換現象を図るのだ。プロポーズを受けたい、子供を得たいという受け身の女性としての願望を抑え、彼女は、レズビアンの世界で言うところの男役(すなわち、オスの装いをしたメス)に自らを仕立てようと努力する。その複雑な性の移行を支えるものこそが、恋するという感情なのである。ボルバキアは、性を決定することが出来るが、恋はその性に生を与える感情を付与することが出来る。だが、それは同時に、性の転換者ゆえの、微妙な感情のズレをも生じさせてしまう。
妻子と別れ、女として生きることを選んだはずみは、恋の対象として男性への指向性を予感させる。そこには必ず、レズビアンであるじゅりあんとの、性の価値観の相違が生まれ、別れが待ち構えているに違いない。そうした不安を感じさせるように、夜の港で海を見つめる二人は、ざらついた粗い映像の中で、心の内に秘めた願望について言葉少なに語るだけなのである。だが、その恋がたとえ傷ましい終わり方をしようとも、じゅりあんもはずみも、自らが選び取った性の在り方と、その性に従った感情に身を任せたことに、いささかの後悔もないだろう。
スペインの社会学者オルテガは言う。「私は、私と私の環境である」と。その通り、ボルバキアは、自分にとって相応しい環境のために性を左右する。
だが、性を決定されたボルバキアン(筆者の造語)達は、オルテガの命題をさらに進め、自分達に相応しい環境作りを始めるのだ。彼等はきっとこう言うだろう。「私は、私にとってよき環境が、あるいは悪しき環境がどのようなものであるのかを、誰よりもよく知っている」と。
この、軽くて重い映画は、けっして性を描いているのではない。性を通して生を描いているのだ。自らの性に真剣に向き合い、恋に対して真剣に向き合った者だけが、本当の意味での生を知ることが出来ると、この作品は私達に教えている。
【映画情報】
『恋とボルバキア』
(2017年/日本/94分/HD/16:9/ドキュメンタリー)
監督・撮影・編集:小野さやか
出 演:王子/あゆ/樹梨杏/蓮見はずみ/みひろ/井上魅夜/相沢一子/井戸隆明
プロデューサー:橋本佳子/熊田辰男/森山智亘
構 成:港 岳彦
撮 影:高畑洋平/髙澤俊太郎
写真は全て©2017「恋とボルバキア」製作委員会
公式サイト http://koi-wol.com
2017年12月9日(土)よりポレポレ東中野にてロードショー、ほか全国順次公開
【執筆者プロフィール】
大田裕康(おおた・ひろやす)