主よ、わたしは、どこからここに—————この死んでいる生と言うべきか、それとも生きている死と言うべきか—————来たかをしらない。
—聖アウグスティヌス『告白』—
人はふとした瞬間に不安を覚える。わたしたちの存在には今ここにいるという存在自体の根拠が実はなく、この世界では“かけがえのある”存在としてあり続けるしかない。それでも何とかして“特別”な存在になりたいわたしたちは必死になる。それがオブセッションとなって知らず知らず精神を蝕んでいく。そうしてどこからともなく不安が湧出する。その不安はついに解消されることがない。ローマ時代の教父がデカルトよりはかる前にそれを簡潔な言葉で言い当てているのだ。では、今の時代に生きるわたしたちはいかにして生きるべきなのだろう。
ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、人間である条件として世界に対する関心と配慮をあげている。それをうまく換言してみると“愛”という一語が浮上する。誰かを愛し、誰かの愛を感じてこそ人は生の実感を得ることができるのであり、誰かと関係することによってのみ自分は自分として存在していられる。哲学的話題で始めながらここで告白させてもらうと、わたし自身このようなことを思考するようになったのはある映画での撮影があったからだ。この体験によってわたしは他者に関係づけられ、ハイデガーが言うところの人間である条件をどうにか満たすことが出来たのだと言える。日本大学芸術学部映画学科の卒業制作として撮られたその作品の規模は小さく、それは苦難と試行錯誤の連続であった。しかし作品が志向する世界には現実を鋭く照射する力強さが確かにあった。わたしたちが今ここにいるという現実と、キャメラのレンズ越しのリアルをフィルム上に定着させるという希有な試み。それを大胆にも実現した監督の映画に対する本気の姿勢に興奮し、現場では感動を覚えずにはいられなかったことも付け加えて告白しておきたい。
坂田貴大監督『クマ・エロヒーム』は“愛の不在”についての映画である。この作品の撮影時、わたしも日芸の仲間として出演協力した。いざキャメラの前に立たされると、演技がどうのこうのと言う以前にまず役者として演じるべきキャラクターについて色々と考える必要に迫られたのだが、撮影中はとにかく“愛”についての思考を深めるようにしていた。主人公であるアユム(古矢航之介)とエマ(村上由規乃)が暮らす惑星では「ヤヌーカの丘」という宗教法人が厳格な管理体制を敷いている。人々の間に愛の感情はすでになく、アユムとエマだけがかろうじて互いの感情を確かめ合おうとしている。わたしが演じたのはその「ヤヌーカの丘」の最高幹部という役だ。神と人間の間を司る立場でありながら、人々から愛を剥奪した張本人である。わたしなりにキャラクターを解釈していくうちに思ったのは、この役が現代に生きるわたしたち人間の精神がいかに疲弊しているかを計るバロメーターとして機能していることである。とは言え、坂田監督が管理(監視)社会に対して痛烈な批判意識をもってキャラクター造形したことは明らかだとしても、普段はあまりものを語らない彼の思考を推し量ることは難しい。だが坂田監督が自らの血を分けたキャラクターを実際に演じた身だからこそ語れることがあるかもしれない。何よりこの文章の目的は、『クマ・エロヒーム』の未知なる世界観を創造し、自在にコントロールする坂田監督の思考の軌跡を辿ることにある。その片鱗だけでも紐解くことが出来ればという思いで書いている次第だ。
ともかくイメージされたものは膨大である。今手元にある劇場用パンプレットを足がかりとして眺めてみると、坂田監督による創作ノートや画コンテがのっている。その筆致は正確そのもので、実際の映像と比べると未知の世界がこの段階からすでに具体的にイメージされていたことに驚く。巻頭には<坂田監督による作品メッセージ>という文章がある。少し引用すると、「自分の見ていない世界を見たい、自分以外の人々が見ていない世界を見せたいという欲求と願望が僕自身にはあるから」とあり、それが「映画で見せて行くということに拘る」理由だと言っている。さらに「自由すぎると『分からない』『伝わらない』と言われますが、人間の考える事がすぐ『分かってしまう』ほど単純には出来ていません。『伝えること』『伝わること』この2つは紙一重な気がします」という興味深い記述が続く。なるほど、確かに人間の思考は分かりにくいし、伝わりづらい。意思疎通は思う以上に容易ではないのだ。それなのに人は分かり合おうとばかりする。現代ではコミュ力の高い人間ばかり求められる。だがほんとうのコミュニケーションというのは、分かり合えないことのずっと先にあるのではないか。分かり合えないことから始めようとする坂田監督の姿勢は真摯で潔い。彼が志向する精神がほとんど貫徹されない今の社会への問題意識が作品作りの動機となるのだろう。そうした彼の情熱は大学1年次のシナリオゼミの時から変わらない。一見クールにみえても、いつも静かに憤っていたのを懐かしく思う。未知の世界を「見たい」「見せたい」という強い気持ちが脳内では目まぐるしい勢いでイメージされ、そこで生じたエネルギーが彼を常に映画へと駆り立てる。他のゼミ生や担当の講師からどんなに横槍を入れられても、自分の撮りたいものを撮りたいように撮る。信念を貫き通すのが彼のスタイルだ。だが本作の場合は卒業制作という側面があったため、大学側が規定している「卒業要件」を満たす必要があり、無頼派の坂田監督もさすがに苦戦していた。その時の心境がパンフレットの巻末に「坂田若気の至り反省文」という文章で綴られているので長くなるがこれも引用してみよう。
(大学側に)「納得させるために」映画を作るくらいなら死んだ方がマシだと僕は表現者として思います。3年実習の際も、シナリオ指導、審査の際に「分からない」という発言が多く出たこと、それを省みて卒制を作ったつもりも1ミリたりともありません。1〜2年生の段階で日本大学芸術学部映画学科が方針としている映画づくりと自分のしたい、するべきと考えている映画づくりでは真逆をいっていたので、そこに今更へこたれたり気にしたりする人間ではありません。意志自体はフラフラしたことが無いと自負しています。
これより先も学科の方針に対する疑問と反発が続き、現今の映画のあり方にも言及される。それにしてもこれだけ嘘偽りなく本音を洩らしてしまう坂田監督は正直者である。わたしが本稿を書く動機となったのも実はこの文章を読んだからだ。一貫した態度が映画だけでなく文章でも表現されていることに純粋に感動した。激しい興奮のうちに書かれ、抗議の態度がやや意固地になっているとは言え、読後にはなぜか安定した精神の静けさをも感じる。不思議な魅力に包まれた文章である。全文の締めくくりでは自分の態度を深く反省しながらも、読み手に向けて言葉にならない決意を表明している。それがわたしには“檄文”のように思えてならなかった。あまりにダイレクトに肉迫してくる文章であったからだ。
ここでもう一度話題を“愛”に戻すと、その読み手に訴えてくる感覚というのは、坂田監督の誰かを愛し、愛されたいという切実な願望の顕れではないだろうか。愛のない世界でオブセッションに苦しんでいたアユムとエマ同様に、監督自身も愛を確かめるためにこの映画の脚本を書き始めたはずである。嘘がつけない正直者であるが故に作品全体が告白体とならざるを得なかった。では坂田監督は、何を伝え、何が伝わると思ったのか。それを確かめていく作業もここまでくるとほとんど意味をなさなくなってくる。極言、それは実際に映画をみたら済むことだからだ。肝心なのは思考の過程を丁寧に追うことにある。坂田監督の頭の中では嫌と言うほど自問が繰り返されたはずだ。映画とは何か。芸術とは何か。そして人間とは何か。次々言葉を置き換えていくうちに再浮上するのが“愛”の一語だとするならば…。
愛の価値は自明である。価値あるものは追い求められ続ける。『クマ・エロヒーム』をみることも同様である。「伝えること」「伝わること」で言えば、この作品はおそらくあまり多くの観客には伝わらないと思う。しかしその多くの瞳には何かしらのものが焼き付けられるはずである。伝わらないということは、つまりこれから作品がもっている価値を見つけていくことが出来るという潜勢力を備えているということの裏返しだからだ。“分からない”がきっかけとなってこの映画とのコミュニケーションは始まると言える。今まで気がつかなかった価値を発見していく喜びを知るうちに、いよいよ神秘のヴェールを脱ぎ始めるのが“愛のカタチ”であることをわたしたちはスクリーン上に期待してよいだろう。そういう観客(他者)を坂田監督は待望し、信頼している。本稿がその“対話”の準備となれば幸いである。
【作品情報】
『クマ・エロヒーム』
(2018年/日本/76分/DCP/16:9/Super16mmFilm /カラー)
監督:坂田(旧金子)貴大
出演:古矢航之介 / 村上由規乃 / 高見綾 / 加賀谷健 / 渡部剛己
12月22日(土)より嘆きの1週間レイトショー 池袋シネマ・ロサにて!
【執筆者プロフィール】
加賀谷 健(かがや けん)
日本大学映画学科監督コース卒業。映画ライター。リアルサウンド映画部、FILMAGA、他メディアで“雑食性”を活かした記事を多数執筆。他にインタヴューなど。主にロマコメ・ラブコメ、フランス映画、イタリア映画、B級ホラー、西部劇、香港映画が守備範囲。尊敬する監督はルキーノ・ヴィスコンティ。最近では日本の若手俳優に注目した“イケメン論”を構想中。