【連載】「視線の病」としての認知症 第5回 「その人」に会いに行く text 川村雄次

ブリズベンの街

「視線の病」としての認知症
第5回 「その人」に会いに行く

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2003年2月22日、私はオーストラリアへと向かう飛行機の中にいた。夜9時半に真っ暗な関西空港を飛び立って、翌朝5時、ブリスベン空港に着陸する予定。目的は、「その人」に会うことだった。だが私は、心は松江に置き残していて、体だけが夜空を飛んでいるような、ふわふわした感じだった。全く見知らぬ一人の女性に会うために北半球から南半球に飛んでいくなんて、写真一枚を頼りに海を渡った戦争前後の花嫁のようだと考えたりもした。

エコノミークラスの座席で私は「その人」について考えようと、彼女の著書の日本語訳をプリントアウトした紙の束を広げた。「その本」が日本語に訳されたことこそが、私が飛行機に乗ることになったきっかけだった。

実を言えば、郵便ポストにカセットテープを投函してから1年3か月間、私は「その人」のことを忘れていた。だが、石橋さんは違った。石橋さんはテープと本を持って、小山のおうちの家族会をはじめあちこちで、色んな人たちに話をしてまわった。熱をこめて「その人」との出会いを語り、テープに録音された言葉を再生した。

ある時、それを聞いたひとりの女性が、「その本を貸してもらいたい」と申し出た。石橋さんは英語を読めない自分が持っているよりはと手渡した。数か月が経ち、女性は本1冊をすべて訳した原稿を持って小山のおうちに現れた。石橋さんは原稿を手にするなり、これを日本で出版したいと願い、当時広島大学にいた石倉康次さん(現立命館大学特別任用教授)に相談。石倉さんが京都の小さな出版社に話を持ちかけ、出版が決まった。そして、「その人」が認知症の本人であると分かったところで、オーストラリアの自宅に会いに行き、訪問記も日本語版独自の解説として収録することを計画した。

私にも石橋さんから一緒に行こうと声がかかった。だが私は、すぐに「行きましょう!」と答えることが出来なかった。第一の理由は、その時の私が認知症について何も知らなかったというだけでなく、世間一般で認知症が話題になることがまだまだまれで、関心の薄い時期だったからだ。私は、「認知症の人が語る」ということがどういう意味を持つのか、驚くべきことであるのかどうか、分からなかったし、外国に認知症で本を書く人がいたからといって、すぐに番組になるとは思っていなかった。まして、たった一人の言葉が、日本の状況に何かをもたらすとは想像もつかなかった。

たとえ私が石橋さんとオーストラリアに行き、素晴らしい出会いをしたところで、その後の仕事につながるかどうか全く分からなかったので、もし行くとしたら休みをとり、自費で行くしかないと考えた。ところがその時、当時の職場、NHK松江放送局は何年に一度という忙しい時期で、「休みをとって海外に行きたい」などとはとても言い出せない雰囲気だった。また、家には生後1歳3か月で乳離れしていない長男がいた。妻は、私の転勤について知人も親戚もいない土地に来て子育てをしており、彼女と長男を置いて海外旅行に出ること、その費用を家計から支出することについて、同意を得るのは困難に思え、出来たらそういう話をしたくなかった。

だが、石橋さんはそんな気弱な話で主張を曲げるような人ではなかった。この訪問がいかに重要であるか、あくまでも言い張った。
結局私は、22日土曜日の朝、松江を出発し、26日水曜の朝には出勤する、正味4日間のスケジュールでオーストラリアに行くことを決断。直属の上司に「皆さんに迷惑をかけません」という念書を提出した。休むのが月曜と火曜の2日だけだったから、止められることはなかった。

職場の同僚たちや妻子のいる、鉛色の雲に覆われ、びしょびしょ小雨の降る松江から脱け出すように飛行機に乗り込んだものの、私は無理矢理連行されたような心持ちだった。私自身の動機といえば、石橋さんという認知症ケアのパイオニアが非常に興奮して向かおうとしている現場に同行すれば、人生における勉強にはなるだろうというくらいのことだった。
離陸後、機内食が出され、片付けられると、私はようやく「その人」が一体何者なのかに考えが向き、「その本」を読み始めた。
「その人」は、46歳でアルツハイマー病(認知症の原因となる病気の一つ)と診断された。その時、オーストラリア連邦政府の官僚として20人以上の部下を持ち、毎年数億ドルを動かす要職にあり、3人の娘を育てるシングルマザーだった。

読むと、むくむくと疑問が湧いてきた。
まず、なぜ本を書くことが出来るのか、ということである。
当時も今も、一般向けに書かれた本には、だいたい認知症のもの忘れは普通のもの忘れと違って、経験したことの内容だけでなく経験したこと自体を忘れてしまうと書かれている。朝ご飯に何を食べたかを忘れるのが普通のもの忘れで、食べたこと自体を忘れるのが認知症だと。(不勉強な私でも、それくらいは読んでいた。)それなのに、どうして「忘れたこと」を書くことが出来るのか?
また、「その人」は、自動車のアクセルとブレーキの意味も分からなくなり、車を運転することが出来なくってしまったと書いていた。どうして出来ないことを書くことが出来るのだろう。誰かがかわりに書いているのではないか?
私の頭の中に、黒雲のような疑いが充満していった。

それでも読み進めるうちに、こんな一節に出会った。それはあたかも、黒雲から発して大地に突き刺さる稲妻のように閃光を放ち、脳裏に焼き付いた。

私は、やがて自分がどこにいるのか、娘たちが誰なのか、分からなくなり、友だちに挨拶することもできなくなる。そう想像すると、恐ろしくなる。

もしガンで死ぬのならば、私は、今の私のままだ。3人の娘の母、教会の家族の一員として死んでいける。もしアルツハイマー病で死ぬのならば、その時、私は誰になっているのだろうか?
 
「私は誰になっていくのか?」・・・私はこの問いにこめられた不安、恐怖の深さに打たれた。と同時に、それに彼女がどんな答えを出すのか、目が離せなくなった。
それは、私自身に対する問いでもあった。
たいていの人が恐ろしさのあまり否認したり逃げ出したりするこの問いに対して、彼女は真正面から立ち向かおうとしていることが感じられた。
その時はじめて、「その人」が顔と名前と生身の体を持った一人の女性、「クリスティーン」として浮かび上がってきた。私はいつしか、危機を次々に切り抜けていく冒険活劇のヒーローを見るように、彼女の探究に感情移入し始めた。

とはいえ、クリスティーンの悩み方、苦しみ方は、私の生まれ育った文化にはなじみのないものだった。
彼女が認知症と診断された時、仕事を失い、娘の顔すら分からなくなること以上に恐れたのは、キリスト教の信仰を持つ人間であるのに、神を認識することが出来なくなることだった。神の存在を感じることが出来ず、祈ることも出来なくなってしまったら、それでも私は私だろうか?考えれば考えるほど絶望の暗い淵に引きずりこまれる。そこから本当に抜け出すことが出来ないのか、全力で考え続ける。
私は信仰を持たない人間であるが、彼女の悩み苦しみを想像することは出来た。生きながらにして神を失うということは、植物が太陽を失うように、自分の生存や存在のすべてを失うことなのであろうと。

本の後半でクリスティーンは、キリスト教の信仰を通じて知り合った友人と対話を重ね、友人が口にした「スピリチュアリティーは最期まで残る」という言葉に希望をつなぎたいと思う。だが、それを確信することが出来ないことを正直に綴っている。
スピリチュアリティーという言葉にも私はなじみがなかったが、自分が自分であることの核になる部分であろうと想像した。死によって自分がなくなることも恐ろしいが、生きながらにして「自分が自分でなくなってしまう」ということは、さらに恐ろしいことだろう。 
その危機、その恐怖に直面した時、人が自分の持っている限りの力と方法で立ち向かおうとするのは当然であり、最高の医学や薬を求めるだろうし、それで足りなければ、宗教、神の力にすがることもあるだろうと思った。
私は、クリスティーンを、人生最大の危機に総力戦でのぞみ、人間の限界に挑戦しようとしている人として思い描き、この本を書いた後、その続きの人生をどのように生きているのか、何を考えたのか、知りたいと思うようになった。
 
紙の束から目をあげると、窓から見える雲が赤々と朝日に染まり始めていた。夜が明けようとしていた。

私はすっかりクリスティーンに会いにいく気持ちになっていたのだが、その時、旅立つ前に彼女から届いた情報が気になり始めた。彼女は出版後に再婚し、姓も本を書いた時のボーデンではなく、ブライデンに変わっているというのだ。本には、3人の娘たちの父親と離婚して間もなく認知症と診断されたことが記されているので、再婚は、診断後のことになる。
認知症と診断された後にその女性と結婚する人がいるだろうか?ひょっとしたら財産か何か他の目当てがあるのではないか?私たちは疑っていた。最近の暮らしについて私たちがした質問に、「夫とヨットに乗って楽しんでいる」と返事をくれても、素直に「よかったね」と思えなかった。学生時代にテレビで見たアラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』のような犯罪のにおいがする気がしていたのだ。
 
朝5時、飛行機は着陸。私は結局一睡もしないままオーストラリアの地面を踏んだ。2月のオーストラリアは真夏。あくまで青い空に真っ白な雲が浮かび、乾いた陽光が降り注いでいた。前日の朝、私が後にした松江と何もかもが正反対の別世界に来たようだった。
その日の午後、ひとあし先にオーストラリアに入っていた石橋さんたちと落ち合い、クリスティーンの家を訪ねることになっていた。

クリスティーンの自宅

(つづく。次は2019年1月25日に掲載する予定です。)


【筆者プロフィール】

川村雄次(かわむら・ゆうじ) 

NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。