棋士は先を読んで駒を指す。それこそ何十手先をも読む。
この物語は「読む先がない」状況に追い込まれた人々の群像劇である。
どん詰まり、一瞬先すら見えない彼らの行動は全く突発的である。彼らが何をしでかすかをただ見つめる、即ち共に彼らの行動を追体験するということとなる。
主な登場人物--少年、少女、青年、老人の関わりは、あらかじめ明示されずゆっくり丹念に解きほぐされてゆくため、一瞬も目を離すことができない。彼らの1日を描くこの映画は、4時間という長尺だが、それだけの時間を必要とする作品である。
常に薄暗がりにあるようなこの街では誰もが攻撃的で、人間関係は刺々しさに満ちている。
彼らの口癖は「自分のせいではない」それは実感としてその通りなのだろう。すべてを転嫁し攻撃しないと生き残れない。
狭い街中のみならず、家族というさらに極小の関係の中でも、容赦ない攻撃が繰り返される。蓄積した鬱屈に追い詰められていく4人を、我々はただ見つめる、寄り添うように、時に本人になり変わるように。
もうここに居場所はない。「ここではないどこか」へ。
しかし、逃走はあらゆる方法で妨げられる。無知につけ込まれた悪意や、乗り込むはずだった電車の運行中止により。またある者は、ここをあとにすることすら放棄し、呆然と立ち尽くす。
迷路のようである。進んでは壁に阻まれ、別の道を選ぼうにも壁に阻まれる。
それぞれの事情で「居た堪れなく」なった彼ら。打つ手はなく、自身どうしたいのかもわからない、という心情は、極端な背景のぼかしによって表現される。カメラは彼らの背後を取り、彼らが見ているであろう曖昧な視界を映しながら、延々とついていく、その「遮られた視界の閉塞感」に意識は没入する。カメラが回り込んで時折映し出される彼らの顔は、一様に無表情である。
少年は、ガキ大将に半殺しに遭いそうになっていた友人をかばって反撃したところ、打ち所悪く死なれてしまう。ガキ大将のヤクザな兄が追ってくることは間違いなく、かばったはずの友人にも騙されていたことを知る。遠く満州里にいるという「象」の噂に引き寄せられ、この街を出ようと試みる。想いを寄せる少女に「一緒に行かないか」と声をかけるが、少女には事情があった。
ガキ大将のヤクザな兄は、その日の朝、目の前で親友に投身自殺されていた。その理由も、彼が親友の妻を寝盗った、という痴話である。痴話はもつれる隙もなく、親友の投身によって終わり、彼が一瞬浮かべた諦念の表情はすぐ消える。
弟を殺された彼だが、犯人を探して仕返しする気になれない。舎弟に騙された少年が目の前に現れ、弟を殺した張本人だとわかっても、金を渡してそのまま逃がすのである。
少年の申し出を断った少女は、荒んだ母との生活の憂さを抱え、学校の教師と関係を持っていた。誰かが盗撮した動画が拡散され、ネット袋叩きに遭う。そして相手の教師の頼りなさに気づき絶望する。
老人は娘夫婦に邪魔者扱いされ、養老院に送り込まれそうである。少年に「一緒に行こう」と声をかけられるが、諦念から「どこでも同じだ」と彼を諭す(この老人だけが、「ここではないどこか」を知っている)。しかし結局は孫娘を連れて一行に加わる。遠からずこうなるであろう自らの未来はあまりに殺伐として、どうせ死んでも悔いなし、か。孫娘を連れて行くのは家族への反撃か。
彼らの「躊躇いのなさ」は常に死と隣り合わせである。人の命は等しく軽い。
アパートの窓から身を投げた者は、出口を見出したのかもしれない。どん詰まりから逃げおおせたことは、寿ぐべきことなのかもしれない。
しかしもう一箇所あらわれる「窓」のモチーフは少々異なる意味を持つ。容赦ない周囲の攻撃により居場所をなくした少女が、その暴力性を発揮する場面である。
行く手を阻む壁を破るのは、物理的に強力な物体である。少女は躊躇いなく金属バットで教師を殴り、窓から飛び降りる。肝が冷えた。冒頭の記憶が蘇る。彼女もまた死を選ぶのか、と思わせて、そこは建物の1階。まんまと彼女は「脱出」に成功するのである。
かように、絶望に至ることを保留する要素は残されている。しがらみを殴り倒すという怒りに満ちた生命力、そして「復讐を選ばなかった」者がこの地に留まるという、無気力と紙一重の優しさ。ベクトルは異なるが光はかすかに射しているのだ。
しかし我々が寄り添う4人はそれに気づいているだろうか?
彼らが目指す満州里。はるか遠く、ロシアとの国境。そこに行っても「先はない」のである。道行のような彼らの旅はどのように続くのか。「満州里にいるという、何事にも関心を示さず座っている象」それはつまり、「鎖で繋がれた象」「どうしたらいいのかなにひとつわからない彼ら」そのものであろう。
長編としてはこの作品ただ1本を遺し、フー・ボー監督は自裁を選んだ。
彼自身もこのような「居た堪れなさ」「躊躇いのなさ」の中にいたのかもしれない。
作品を巡る様々な痛ましい噂、そして監督不在の中どんどん盛り上がっていく賞賛。それらをほぼリアルタイムで知る我々は、未だ終わらぬ作品世界に巻き込まれているのだ。
映画というメディアはしばしば「体験するもの」となり得る。我々がこの映画を「体験」するとき、「作品を取り巻く物語」に巻き込まれることから逃れることができない。
それは不純なことなのだろうか?作品は作品として純粋に在るべきなのだろうか?
勿論そういった見方もあろう。しかし、『象は静かに座っている』について考える時、「映画にまつわる悲劇」に取り込まれざるを得ないことについても、肯定したいのだ。
【作品情報】
『象は静かに座っている』
An Elephant Sitting Still
(中国 /2018 / 234分 )
監督・脚本・編集:フー・ボー
撮影:ファン・チャオ
録音:バイ・ルイチョウ
音楽:ホァ・ルン
美術:シェ・リージャ
サウンドデザイン:ロウ・クン
出演:チャン・ユー
ボン・ユーチャン
ワン・ユーウェン
リー・ツォンシー
2018年・第19回東京フィルメックス、コンペティション部門で上映。
【執筆者プロフィール】
井河澤 智子
『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしていますね。
ごく個人的な話で恐縮ですが、『象は静かに座っている』について考えるとき、Queenのラストアルバム「イニュエンドゥ」が脳内に鳴り響いていました。
やせ衰えたフレディ・マーキュリーの絶唱、その後の死去というドラマ性。フレディの死因については死の直前まで明かされなかったらしいので、リリース時の評価についてはわかりませんが、今「イニュエンドゥ」を聴く時に、「これがフレディの白鳥の歌である」という思いから逃れることはできません。
この『象は静かに座っている』も、そんな作品なんだろうなぁ、と思います。