「あたりまえの外へ」。編者の松村圭一郎さんにサインをいただくと、その言葉が添えられていた。本の帯にも【文化人類学は「これまでのあたりまえ」の外へと出ていくための「思考のギア(装備)」だ】という若林恵さんの言葉もある。この本の紹介として、これ以上の言葉は見つからない。あらゆる制度にガンジガラメになり、窮屈な思いをしている人は多いと思う。この言葉に反応する人は、ただページをめくればよい。
とはいえ、それでは文章が終わってしまうので、この本で語られていることをドキュメンタリーと重ねて考えてみる。というのは、この本に書かれていることは、ドキュメンタリーの基本と言っても過言ではないからだ。わたしたちの生きている社会の「あたりまえ」を疑う。そのために、自分とは違う世界に住む「他者」に出会い、そこから見えてくるものを記録する。出演者を鏡として、自分と共通する何かを見出し、自分と異なるものをどう捉えるかという葛藤の中で、自分が囚われていたもの、自分の中にある偏見に気付いていく。そうして視野を拡げていく。その不断の繰り返しの中で作品ができる。
仰々しく書いたけれど、本来、これは文化人類学者やドキュメンタリ-作家だけが行っているものではない。誰もが、友人、知人、同僚など、あるいはもっと近くにいる家族や恋人との係わりの中で、日々、行っていることだ。多くの場合、そのことを強く意識することはないし、無意識のうちに異質なものを見ないようにしたり、場合によっては排除したりもしているだろう。差別のような強いものでなくても、自分と違う考え、そういう人を遠ざけてしまうなど。だから、文化人類学の思考法というのは、この世界を生きていくための思考法なのだ。ドキュメンタリーの思考法も同様に。
わたしは今までに、埼玉県川口市で2本、富士見市で2本、一般の生活者とワークショップ形式によって映画を作ってきた。参加者にカメラを通して住んでいる街と出会い直してもらった『隣ざかいの街‐川口と出逢う-』(2012)『街のフロッタージュ-ふじみのかたち-』(2016)、自分たちで脚本を書き役という他者を演じてもらった『うつろいの木』(2015)、演出家として街に生きる人と向き合ってもらった『食べること 生きること』(2017)。そんな試みを続けてきたのは、ドキュメンタリーの方法が、映画作家だけが特別にもつ能力ではなく、誰もが生きる上で必要となる力だという想いがあったからだ。結果としては、参加者にこちらの意図が伝わらないことも多く、できた作品は「いかに、あたりまえの外へ出ることが難しいのか」という逡巡そのものを作品化する場合が多かった。もし、もう一度、ワークショップによる映画づくりを行う機会があったら、この本を教科書として使おうと思っている。そうすれば、もう少し深い地点に至れるのではないかという期待がある。そう思えるほど、多くの人が理解しやすい工夫が随所になされ、生きる上での深い問題提起がなされている。
この本は、13人の筆者によって様々な角度から書かれているので、そのすべてをここで取り上げることはできない。そのため、特にドキュメンタリーにとって重要だと思う部分に焦点を当てて、部分的に紹介する。
まず、「序論」にある「距離」(「近さ」と「遠さ」)について。人は人と「近い」から関係を結ぶことができ、直接的にその人を感じることができる。だから、関係の近い友人や家族などの問題は我がこととしても考えられる。とはいえ、近すぎるが故に見えなくなるものも多い。パートナーからの気遣いなど。対して、「遠い」からこそ自分との違いに興味を持つということもある。アフリカの人の生活などは、自分たちの生活とは大きく違うため、強い興味を持つ。それに、距離があるために客観的に見て比較もできる。ただし、遠ければ遠いほど、他人事にしか思えないという問題もある。遠い外国の災害や戦争など、まったく自分とは無関係なものとして捉えてしまう。真に「見る」ためには、できるかぎり我がこととして、でも冷静に見つめられる距離を保たなければならない。これはまさにカメラ位置の問題そのものなのだ。
次に、山崎吾郎さんの文章【技術と環境 人はどうやって世界をつくり、みずからをつくりだすのか】にある「環世界」という考え方について見てみる。(この問題は他の章でも語られる。それぞれの論考は独立しつつ、相互に重なり合っている。この点もこの本の特筆すべきところ。)【環世界とは、個人の外部に想定される自然環境のことではなく、むしろ、生活環境というように、人が作り出した人工物を含む意味で用いられる術語である。それは、身体とは別に存在している世界のことではなく、身体の延長線上に、身体と互いにかかわりあって現れる世界を指す。】【環世界という概念によって明らかになるのは、誰も「自然そのもの」や「世界そのもの」を知覚してなどいないということである。人にとっての世界とは、人が知覚することができ、また人に作用することができる世界のことである。】どこかに「世界」「社会」というものがあり、それと別で「わたし」が存在しているのではなく、あらゆる関係の糸の中で、自分もその糸に繋がれながら、人は生きている。
ドキュメンタリーは関係性の表現だ。どれだけ撮影を重ねても「世界の真実」が見えるわけではなく、辿り着けるのは「わたしの真実」に過ぎない。その「わたしの真実」がどう世界や社会と関係を持っているか。それがドキュメンタリーの核となる。ただし、多くの商業ドキュメンタリーは、その核である関係性を切断し、表面にある「意味」を映画の「物語」あるいは「メッセージ」へと利用する。「世界の真実」を伝えるために。わたしはそういう作品をどうしてもドキュメンタリーだと思えない。脚本のあるフィクション、メッセージを伝えるためのプロパガンダだと思えてしまう。
関係性という点では、松村圭一郎さんの文章【贈り物と負債 経済・政治・宗教の交わるところ】にあるマルセル・モースの「贈与論」とも繋がる。「贈与交換」と「商品交換」との違いは、そこに「関係性」が反映されるかどうかだろう。撮影された映像から、そこにある「撮る人」と「出演者(撮られる人)」という関係性を切り離すのは、映像を商品に変えるということだ。あるいは訴えたいメッセージの道具に。
優れたドキュメンタリーには関係性が明確に写っている。小川紳介監督『1000年刻みの日時計 牧野村物語』には、小川プロダクションと牧野村との13年の関係が色濃く写っている。記念撮影のシーンなどには顕著に。時間の長さの問題ではない。佐藤真監督『阿賀に生きる』で、船大工の遠藤武さんが「佐藤さん、またいらっしゃい」と声をかけるシーンのカメラと出演者との結びつきを想うと、『1000年刻みの日時計』の13年と『阿賀に生きる』の3年を、その年月で単純に比較することはできないとも思う。
また、「私ドキュメンタリー」への批判として、「半径○○メートルの世界しか描いていなく、社会批評性がない」などと言われることがあるが、半径何メートルだろうと、そこに人や社会、世界との関係が写っていれば、それ自体が明確な社会性と言える。どんなに小さな人間関係の中にも社会は存在する。カメラを向ければそれは写る。絆、団結、媚び、忖度。あるいは、被災地を撮らなかったとしても、「3.11以後」の問題は被災地以外でも散見されるのであり、他の地域で「震災問題」を撮ることは充分に可能なのだ。対して、どんなに「社会的テーマ」を扱っていようが、そこに関係性が写っていなければ、それはただのメッセージ、プロパガンダでしかない。「弱者を救おう」というメッセージを発している作品の中に「弱者を映画のメッセージに利用しよう」という臭いを感じてしまう作品のいかに多いことか。
このように挑発的に書いてしまうのは、「社会派」という人とわたしの意識がとても近いからだろう。人は近いものにこそ、そこに違いを見出し、区別しようとする。それは心理学などで「近親憎悪」と説明されてきたが、文化人類学の視点からは、また別の意味が見出せるようだ。佐川徹さんの文章【戦争と平和 人はなぜ戦うのか】によると、【戦うことをとおして自他の境界をつくりだす】など、感情の対立ではなく、実益のために戦争が起こる場合があるという。わたしが「社会派」に対して挑発的なことを言ってしまうのも、そこにある違いを明確にするため。それはドキュメンタリー表現のために必要なことだと思っている。けっして、ケンカがしたいわけではなく。
最後に、この本の中で、もっとも刺激的でありながら、もっとも危うい、だからこそ可能性を感じる論考を紹介する。おそらく、もっともドキュメンタリーの本質に係わる問題。それは石井美保さんの【現実と異世界 「かもしれない」領域のフィールドワーク】という文章。石井さんは、「異文化」「他者」「理解」という言葉がもてはやされている状況に対して、それは【ある意味で想定の範囲内の「差異」や「他者性」だ】と指摘している。本当の「他者」はそんな容易に「理解」できるようなものではないと。例えば、「精霊」や「妖術」などを「非科学」と断じる(自分たち価値観に則して、わかったつもりになる)ことは本当の「理解」ではない。かといって、それらを本当の意味で「理解」することが可能だろうか。【妖術や精霊、呪術といった事柄について、人類学者が学術的に把握し、理論化できるのは、たとえばその社会的な意味や働きといったごく限られた側面にすぎない】。では、どうするか、【フィールドの人々と調査者がそれぞれに抱く、「そんなはずはない」「でも、そうかもしれない」というアンビヴァレントな二重性を描くこと】だという。信じながら疑い、疑いながら信じる。それをそのまま描くこと。ドキュメンタリーの基本もここにある。
ドキュメンタリーは他者にカメラを向け、そこで何かを「発見」することである。「ちょっとした違い」は発見しやすい。だが、本当に自分と異質なものは容易に受け入れられないものだ。見ないように遠ざけ、排除しようとしてしまうようなものにこそ、本当の「他者」が潜んでいる。例えば、弱者(マイノリティ)と呼ばれる人たちの集まる場に行ったら、そこに強烈な排他性があったり、その集団内に更なる排除があったり。あるいは、権力者を見つめたら、その人にはその人なりの誠実な信念を持っているなど。
「そんなはずはない」「でも、そうかもしれない」。「弱者に非があるはずはない」「でも、あるかもしれない」。「権力者に誠実な信念があるはずはない」「でも、あるかもしれない」。「自分の見方は正しい」「いや、正しくないかもしれない」。その不断の繰り返し。白か黒ではなく、グレー、マダラという場合もあるだろう。「そうである場合もあるかもしれない」「そうである人もいるかもしれない」「部分的にそうであるかもしれない」「そういう要素もあるかもしれない」など。
わたしが批判的に書いてきた「脚本ありき」「メッセージありき」の作品に対しても、今の社会の中で映画を作って生業にするには、効率や興行(集客)を考えると、「仕方がないのかもしれない」と思う自分もいる。「わかりやすくメッセージする方が、社会をよくするための効果があるかもしれない」と思う自分もいる。ただ、「でも、ドキュメンタリーはそんなもんじゃない」と思う自分もいる。そういう引き裂かれ方。
本当に自分の考えを一度ゼロにしてその世界に入り、その場に同化せずに距離をとりながら世界と対峙する。そこで「自分にとっての真実」をかたちにする。それがドキュメンタリーの思考法である。もちろん、「自分にとっての真実」がいかに危ういものか(独善的になりがちか)という自覚を持ちつづけながら。また、逃げとしての「両論併記」、迷いとしての「判断保留」が、別の暴力を生んでしまう可能性があるという点も留意しつつ。迷いつづけること、引き裂かれるつづけること。その上で「間違っているかもしれない答え」を出す。あるいは「答えは出さない」と決めること。
撮影現場で、編集作業で、自分の考えていたものがすべて崩壊するような例はいくらでもある。いや、それを求めてドキュメンタリーをやっていると言った方が正しい。自分自身の「あたりまえ」を壊す。そこにドキュメンタリーの快楽がある。
このように、文化人類学の思考法はドキュメンタリーの思考法と極めて近いものだと思う。大切なのは、「小さな違和感」から目を背けないこと。「わたし」と「世界」の間にあるズレ。「わたし(個)」と「社会(集団)」の間にあるズレ。「わたし」と「あなた」の間にあるズレ。「わたしの眼」と「カメラの眼」の間にあるズレ。そこにある違和感こそが「他者」であり、それを排除するのではなく、徹底して見つめることから「対話」が始まる。それは新たな自分を発見すること。新たな世界と出会うこと。
この本によって多くの人が「他者」を発見し、「自分」を発見し、そこから多くの「対話」が生まれていくことを祈って。
【書誌情報】
『文化人類学の思考法』
編集:松村圭一郎 中川理 石井美保
執筆:中空萌 山崎吾郎 久保明教 石井美保 渡辺文 松村圭一郎 深田淳太郎 中川理 佐川徹 高田明 髙橋絵里香 松嶋健 猪瀬浩平
定価:1800円+税
刊行:2019年4月30日
判型:四六
発行元:世界思想社
ISBN 9784790717331
【執筆者プロフィール】
岡本 和樹(おかもと・かずき)
1980年、埼玉生まれ。一般の生活者との共同制作、あがた森魚との月刊日記映画など、従来とは違う視点での映画創りをしている。現在、大鋸一正の小説「O介」の映画化(大鋸一正によるオリジナル脚本)を進めている(編集段階)。