【column】現代日本最高の詩人吉増剛造がNYへ 米国前衛映画界の父・詩人の故ジョナス・メカスを悼む 映画『眩暈(めまい) Vertigo』について text 井上春生

筆者と吉増剛造氏、ニューヨークで映画「眩暈 Vertigo」撮影時 2020年1月

2018年2月、ある仕事で訪れていたドイツから羽田に帰国し、そのまま成田に移動してニューヨークに向かった。詩人の吉増剛造さんを1年かけて撮った前作「幻を見るひと」がニューヨークシティインディペンデント国際映画祭に招待され、そしてジョナス・メカスに会うことにも目的があった。アポ取りをしてもメールの返信はなかったので、直接会いに行った。イーストサイドでジョナス・メカスの出版記念会が行われる情報を得て、そこの会場で待つことにした。実は事前に映画のブルーレイを送り感想を頂いていたが、更にお会いして話がしたかった。朗読を交え参加者の質問を受けているメカスを遠巻きに見て、サイン会の最語尾に並んだ。
「映画の感想をありがとうございます」
「剛造の映画か、見たよ、素晴らしい、詩人の映画としては珍しく成功している。美しい映画だ、詩のフォルムを映画がまとっている。いい仕事をしたね」
そう言って、メカスは打ち合わせがあるようでスタッフに促され去ろうとした。その背を追いかけ言葉をかけた。
「明日、お会いして話をできませんか」
「あぁ、分かった、電話をくれ」

2日間、電話しても留守電になっていて、お聞きしていたブルックリンの事務所に直接向かうことにした。その日は大ぶりの雨だった。ビルの入り口で部屋番号を押しても返事が無く、外で2時間ほど待った。厳しいかなと思ったときに廊下側の2階の窓がギーッと音を鳴らして開いた。振り返るとそこにメカスがいた。少し固い表情で上へ来いと手で合図し、奥に消えた。機嫌が悪そうでまずいなと思いつつ、ドアをノックした。「いつまでいるんだ?」「明日帰国します」と言うと、椅子を指さした。

ジョナス・メカス氏と愛猫 2018年2月

学生時代『リトアニアへの旅の追憶』(ジョナス・メカス作)を見て、そのスクリーンの映像がまだ目に焼き付いている前衛映画界の巨匠と二人きり、時間の感覚はなくなっていた。おそらく小一時間ほど話をしたのだろうか。100平米以上もある広い部屋を見渡した。冷蔵庫に日付と時間が書かれた予定表が貼ってあった。メカスは綿密に予定を立て毎日を過ごしているのだ。それを見ると〆切りに追われていた時間をどうやら私に割いてくれたらしい。その帰り際のこと。お湯を沸かしてマグカップにお茶を入れながら、私の目をじっと見て「君は次に何を撮るつもりか?」と聞いてきた。メカスはリトアニア難民だ。祖国がナチスに攻め込まれ、国土が戦火に包まれている頃、濃淡のある万年筆で書かれた詩のメモ帳が残っている。何頁にも渡り整然と並ぶ米粒大のリトアニア語の文字群を見ると、メカス自身を励まし、不屈の精神を形作っていったのが詩であったのだと分かる。皮表紙のボロボロになったその詩の手習い帳は今回の映画の撮影の時に発見され、はじめて世に公開される予定だ。

ところが、亡命後にメカスは「詩は母国語で書かれるべき」だと、詩から映画へ表現の転換をあっさりと行う。メカスは映画に詩を託したのだ。新天地に足を踏み入れてから1年半後の1950年5月1日、友人から220ドルを借金してボレックス製16ミリカメラを購入し、フィルムに日常を記録するようになる。その撮り方がかなり変わっている。カメラを脇の下に抱え、ファインダーを覗かないのだ。手持ちで激しくぶれている数々の日記映画は、映画監督ジム・ジャームッシュが「わたしたちの師匠(カンフーマスター)」とメカスを称えているように、アメリカ前衛芸術映画の金字塔になった。若い頃、逮捕される覚悟でドラッグクイーンやゲイカルチャーの映画を上映したりして、二度も警察の御用になっている。まさか、わたしはそんな前衛の巨人が世を去ってから、その人の映画を撮ることになるなど思ってもいなかった。どうやらメカスに背中を押されたようなのだ。「君は次に何を撮るつもりか?」この言葉がこの映画の発端になった。おそらく、メカスは話を聞き、答え、このようにして数多の芸術家や映画人を動かしてきたに違いない。

アイ・ミス・ユー、メカスがカメラに向けて語りかける。その相手は日本を代表する詩人の吉増剛造だ。独特の抑揚のある声で吉増はメカスさん!と返事する。そんな30年以上も前の映像書簡が残っている。2020年1月23日、メカスの一周忌に合わせ吉増と私はニューヨークに来ていた。映画ロケ地のひとつにわたしは、コニーアイランドを選んだ。マンハッタンから地下鉄に乗り、地上に出て一時間ほど経つと、そのニューヨークの避暑地の海岸の駅に着く。新天地に来たばかりのメカスの日記に描写されているこの海岸の様子は、Heが主語になり長文が書かれている。大観覧車、釣り竿、コカコーラの瓶、水着を着た太めの女、干からびた老人、ポーカー屋、女連れの兵隊、そうした異国の光景をまじまじと目にする彼。メカスは自分を客観視して大国への違和感を描き始める。その日の日記の最後の方、彼は海岸で女性がawake! awake!(目覚めよ!)と大声で説教している声に耳を澄まし、次にSIN SIN SIN!(罪、罪、罪!)という言葉に心打たれる。この目覚めと罪を、新天地に根を張るためにメカスは日記の中で彼に強いるのだ。詩人という名の亡命者はその原罪とも言える足枷に常に自覚的であり、悲鳴を上げずにじっと耐える。それは吉増剛造にも通底する感覚だ。ジョナス・メカスと吉増剛造、世界に二人とはいない存在を通して、詩人とはその免罪符を手にしたものに献上する称号であると知った。

わたしは帰国する前日、ホテルの一室で剛造さんに聞いた。
「なぜ詩のスタイルを壊してきたのですか?」
「だって、跡継ぎなんて作りたくないから」
目覚めと罪の亡命者になるための免罪符はそうそう容易に手にはできない。それを手中にしたふたりの亡命者の敬愛に満ちたラブストーリーをこの映画では描いていく。フィクションでもドキュメンタリーでもない新しい映画になるはずだ。

最後にメカスの言葉を−。

「自分の心臓がどう打つかなんてことは誰でも知っているとは限らないね・・・・わたしの心臓はどこかおかしいのかもしれない。これはワルツのリズムだな」(出典:「メカスの友人日記」木下哲夫訳・晶文社)。

“One doesn’t always know one’s heart. Maybe there is something wrong with my heart! It has a waltz rhythm.”(原文・木下哲夫氏提供)

いまから4年前、アメリカのロック音楽界の重鎮ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、世界を騒がせた。受賞理由に「偉大なアメリカの歌の伝統のもと、新しい詩の表現を創造した」とあるらしい。このメカスの“It has a waltz rhythm. ”という言葉を聞いたら、ボブ・ディランはなんと言うだろうか。この映画「眩暈 Vertigo」が完成すれば持っていき見て頂くつもりだ。アポなしで前衛の巨人に会えたように、この映画には何かが待ち受けているはず。ワルツのリズムで始まったのだから。(文章中、敬称略)

*現在制作中である本作は4月15日まで、クラウドファンディングでのプロジェクトを実施しております。下記サイトでは、制作状況の報告、予告編等を見ることができます。ぜひご覧いただければと思います。

https://motion-gallery.net/projects/gozomekas

ブルックリンにあったジョナス・メカス氏の事務所 2018年2月

【執筆者プロフィール】

井上 春生(いのうえ・はるお)
映画監督 、脚本家 、CM&TVプロデューサー&ディレクター、全国劇場公開映画14本
幻を見るひと(吉増剛造出演)監督 国際映画祭10冠
バードコール(鈴木えみ・田中圭主演)監督脚本
チェリーパイ(北川景子主演)監督脚本
音符と昆布(池脇千鶴・市川由衣主演)監督脚本
遠くの空(内山理名主演)監督脚本
案山子とラケット(平祐奈・大友花恋主演)監督 など