【文学と記録②】古井由吉と赤牛 text 中里勇太

 小説において、作者と近しい登場人物が記憶を語るとき、作者自身が辿ってきた道行きを背景にして読めば、語られた記憶は時代証言となる「記録」の側面をもついっぽうで、小説において語られる記憶には、作中人物の記憶ともうひとつ、記憶とはなにかを考察する場合がある。記憶とはなにかといえば、あまりにも漠としているが、作中人物個人の記憶を考察していくうちに、記憶というものの一端をつかむ作品がある。そのさい、作者の記憶を投影したと思われる作中人物の記憶は、時代証言にとどまらず、文学における「記録」の一端をも垣間見せてくれるのではないだろうか。たとえば、証言という個人の体験に基づいたものから、受け手に開かれた語りの「記録」として共有されるために。作家がある時期の記憶を基点に一〇年後、二〇年後、三〇年後と作品を書き継いでいくとき、その記憶はつねに立ち返る場所として、現在の作家自身と対峙する。それを読むことは、作中人物の記憶を通して過去を知るというよりも、そのつど書かれた現在をこそ知る行為になるのではないか。そこに思い至ったのは、二〇二〇年二月に惜しくも逝去された古井由吉の「子供の行方」(*1)と「赤牛」(*2)を立て続けに読んだときだった。

 「子供の行方」は、連作小説『蜩の声』(初出二〇一〇年五月〜一一年八月)の末尾を飾る作品であり、年譜によれば、古井由吉はそのひとつまえの作品「枯木の林」執筆中に東日本大震災に遭ったという。

 三月の冷えこみは末になってもいっこうに春らしい日和をみせず、四月のなかばを過ぎても寒さが切れない、と天候のようすが書き綴られていく「子供の行方」では、いまだ天候がさだまらない五月の冷えこみのさなか、久しぶりに陽を浴びた背中のぬくもりから記憶が想起されていく。

「家の焼跡にしゃがみこんで、灰と瓦礫の間を焦げた棒の先で掻きまわしている子供の痩せた背中を、ようやく晴れた初夏の陽が匂うように炙っている。満で数えて八歳にもならない。あの五月も冷えこんで、雨もよいの日が続き、いきなり雨の走ることもしばしばで、いつまでもぐずついていた」

 作中の語り手は八歳にも満たない子どものころ、五月二四日未明の山手大空襲に遭い、家を焼け出された。防空壕の底に長いことうずくまっているうちに青い閃光が射し、庭に出ると家が燃えていた。それから母と姉と三人で避難者の群れについて逃げ、夜が白み、赤い大きな太陽がのぼった、と当時の記憶を振り返り、その日の夜に防空壕のなかで見た夢を思い返す。

 「夢の中でも目の前から瓦礫の原がひろがって、大通りまで見通せた。その大通りを一頭の赤牛が駆けまわっている。実際に空襲の明け方、赤い日輪が灰色の宙に掛かる頃に、人もまばらになった大通りで目にした光景だった」

 牛は人に引かれて避難してきており、我慢がならずに綱を振りほどいて走りまわったのだというが、夢のなかで牛は「燃えるような赤い背」をしている。赤といえば、空襲の夜が明けてのぼった太陽は「冬の暮れ方のような赤い大きな太陽」だったとあり、その日の暮れには、「傾いた太陽がまた朝方と同じ真っ赤な、気味の悪いほど大きな球となり」、沈みかかるところを語り手は見ている。またそれまでにも自分の家が燃えているのや、周囲の家々が燃えさかるのを見て、そのなかを通りぬけてきたことも想像できる。ではその赤が夢のなかにも投影されて夢を覆っているのか、それとも牛が赤いのか、定かではないが、夢のなかで牛は「燃えるように赤い背」をくねらせて踊り、野太い声で唄っている。

 この「子供の行方」から三四年前に発表された、その名も「赤牛」(初出一九七七年)という短篇においては、作中の「私」が赤牛に遭遇した場面を次のように語っている。

 「いままでどこにつながれていたのか、一頭の赤牛がでかい図体を弾ませて走り出した。百姓風の男があたふたと後を追いかけた。皆、ようやく吃驚したような顔つきでしげしげと見ていた。くすんだような朝の光の中で、妙に赤っぽい牛だった」

 ここでも朝の太陽は「日没めいた赤味を帯びて」のぼっており、その夜「私」は赤牛の夢を見るのだが、夢のなかでは「赤牛が飛び回っていた」とあり、重い声で吠えながら図体をくねらせて踊り狂っていたとあるように、「子供の行方」においては「燃えるように赤い背」と強調される赤がいまだ抑制されており、むしろ赤牛が吠え踊るすがたが強調されている。

 短篇「赤牛」における「私」の記憶は、山手大空襲の夜にはじまり、それから八王子へ移り、岐阜県大垣市にある父親の実家へ疎開、そこでもまた空襲に遭い、郊外の知人の家へ避難するまでが描かれる。「子供の行方」の語り手の記憶も同様の道行きをたどるのだが、先述した場面のほかに赤牛が現れないのに対し、「赤牛」ではその後もいくどか赤牛についての言及がある。たとえば「爆弾だ焼夷弾だと競って叫んでいる父親たちの声が、なにか羽目をはずして燥いでいるように、赤牛の踊りのように感じられた」という場面があるように、作中で遭遇した赤牛は、その後「私」が見た夢を通して狂騒の仮象となり、「私」はたびたびそのすがたを思い返す。この狂騒と、相対する「静かさ」のあいだを行き来するなかで、そこにつきまとうものを考察していくという側面が、「赤牛」という作品にはあると仮定して考えていきたい。

 「先夜、私はその静かさを耳にした」と冒頭にあるとおり、四〇歳に近づいた「私」は騒音と騒音のあいだの「静かさ」、そしてざわめきが途絶えた一瞬が呼び起こす共振れから、空襲の夜の、爆音のなかの女たちの声を思い返す。いままで黙りこんでいた大勢が息をひそめて、ことさらに日常のことを話し出すのを聞き、「私」はそれを「大勢のいる静かさ」といい、「私ひとりの、怯えの静かさではなかった」と回想する。しかし後に空襲の夜の記憶を辿っていく際は、敵機が去り、避難者の群れのなかでしゃがみこんでいるときの「人の話し声の記憶がない」という。果たしてどちらがその夜の記憶なのか。あるいは、「大勢のいる静かさ」として構成された会話は、山手大空襲以前の夜の記憶から後年に想起された会話とも読めることから、広義の東京大空襲下における日常に潜む怯えを描き出しており、後者は極まった夜の記憶であろうか。後年になっても、「大勢が集まって黙りこんでいる静かさはおそろしい」と「私」が感知するのは、その「静かさ」をかたちづくる怯えが「私」の身体にいまだ残っているからであろう。

 子どものころの「私」もまた、東京で空襲を経験した人間として、その身体で疎開先の大垣の街の「静かさ」に空襲の予兆を感じとっている。それゆえに先述した「爆弾だ焼夷弾だ」と叫ぶ父親たちも、大垣は爆撃隊の途中経由地点にすぎず焼かれないという話も、その目には狂騒とうつる。その狂騒のうらにひそむものへ「私」が感じ入るのは、「静かさ」をかたちづくる怯えがうちにこもる次の場面である。疎開先の大垣の家で夜中、空襲警報が鳴っているにもかかわらず、祖母も母も姉もいっこうに起き出そうとせずにひとり息をひそめる「私」は、赤牛のすがたを思い浮かべる。

 「爆音はたしかに本格的な空襲の時のように差し迫ってはいない。しかしその下でただじっと横たわっているのが、肉親たちの眠りに縛られて身動きならないのが、恐ろしかった。怯えの中をやがて赤い牛が跳ね回り、気狂いじみた陽気さへ羽目をはずしていく」

 七歳の「私」の身体のなかでうごめく狂騒が赤牛のすがたで駆け回るここでは、怯えのただなかでじっと耐え抜く子どものぎりぎりの身体が表出されている。「私」の狂騒は、怯えの只中で現れる。その後、大垣が本格的な空襲に遭ったときにも、女たちに囲まれたなかでだれかが「直撃を受けたら、この子を中にして、もろともに死にましょう」と叫ぶ声の、「もろとも」という言葉に恐怖し、「輪から離れて逃げ出したい」という想念に「私」は駆られている。

 こうした怯えの只中で狂騒に駆り立てられる身体を無意識にも知覚してしまった子どもの目が、おとなたちの狂騒のうらに潜む怯えを見てとったとしても不思議ではない。うらを返せば、おとなたちの狂騒のうらに潜む怯えが、七歳の「私」のなかの赤牛をより狂騒へ駆り立てていったとはいえないだろうか。

 では「子供の行方」の赤牛はといえば、語り手が子どもの頃に防空壕のなかで見た夢の記憶を語るところで、「燃えるように赤い背」と「赤」が強調されていることはまえにも述べたが、つづいて「野太い声をしぼって、吠えるというよりは、唄っていた」とある。唐突ではあるが、このとき語り手の夢の記憶のなかで赤牛の野太い声は聞こえているのだろうか、という問いをたててみたくなる想いに駆られる。それは、「子供の行方」が記憶における声や音、あるいは聴覚の記憶をめぐる小説でもあると考えられるからだ。

 「子供の頃の、切迫した記憶は、それぞれの場面で、時間の長短がはっきりしない」

 切迫した記憶とは、たとえば山手大空襲下、防空壕にうずくまっていた記憶であり、「長いこと」と記されてあるのを後年に語り手が確認した空襲の記録と照らし合わせれば、爆音のなかを一時間あまりもうずくまっていたことになる。そのあいだ、空気を裂いて迫る敵弾の落下音は刻々と耳に刻まれ、落下音がそれたと息をつけば爆音があがり、それがいくども繰り返される。「頭上にたいして、耳ばかりになっていた」という途轍もない表現で描写された身体を、「聴覚ばかりになるということほどおそろしいこともない」と語り手は回想する。七〇を過ぎた語り手の記憶がどのようなものかを詳細に描写されることはないが、つぎのように振り返るとおり、以降の記憶からは音が失われていく。

 「切迫が感受の限界を超えかかる時、轟音の只中にあっても、あたりが静まる」

 それから「狂ったような閑静さ」が訪れる。一瞬の閑静さが訪れた後、「耳はむしろ冴える」というが、その後はざわめきやどよめきのほか無音の光景が子どもの目に映る。

 後年になってもくりかえし夢を見るなかで、頭上に満ちた爆音を聞くのではなく、見ていたようだと語り手は訝しがるが、音はいっさい立たない。加えて、街頭に出て、騒音の奥に爆音がよせてくるのを振り払ったときにも耳の奥に妙な静まりを知覚する。この静まりが、記憶が迫り上がるか否かの境目であれば、「閑静さ」が身体に残ったものとは考えられないだろうか。

 そして本作ではもうひとつの静まりが、語り手のこれまでの道行きを支えてきた静まりが語られているのではないか、と考える。冒頭付近において、「灰と瓦礫の間を焦げた棒の先で掻きまわしている子供の痩せた背中」と想起された子どもの顔は、後に、「端からは無心にも見えた」と表される。日常が断たれた焼跡のなかで、その日その時を暮らす、断たれた日常のあとにも日常がある。なぜこんなものがここにあるのかと手にとることから、無心でまたなにかを始める。そのように振り返る、というよりも語り手によってそう考察される子どものすがたは、終盤において次のように現れる。

「暮れなずむ道をたったひとり、リヤカーのうしろにのせられてひかれて行く子供の姿が見える」

 大垣が本格的な空襲に遭ったあと、家を閉めて郊外に逃げる際に子どもはひとり先に送り出される。リヤカーを引く見知らぬ男は物を言わず、子どもも物を言わない。「何処へ行くのか、知っていたのだろうか」と語り手は過去に向かって問いかける。作中では、生後半年の孫をあやしていたときに、いずれまたリヤカーに引かれていった子と出会うことになるだろうと振り返るようになった、と後述されているが、「子供の行方」において「子供」は記憶の外側に置かれているのではないだろうか。そうすることで、日常が断たれたあとにまた無心でなにかを始めた子どもの静まりが、語り手の道行きのいくどもの窮まりにおいて立ち返る足場として存在したことを語っているのではないだろうか。

 そのうえで正誤を知る由もないが、「子供の行方」の夢のなかの赤牛の唄は、語り手に聞こえていないと考える。日常を断ち切ったのが「赤」であれば、その後の日常も「赤」のなかにあり、そのあいだで「吠えるというよりは、唄っていた」と描写される牛を、語り手のの身体にいまだ残る「狂ったような閑静さ」の仮象とするのはあまりに恣意的かもしれないが、問いを立てたいじょうは仮説として提示してみたい。

 古井由吉は、「赤牛」の「私」において怯えの体験を経験へとおし拡げ、「子供の行方」の語り手に記憶をめぐるより広いひとびとに開かれた物語を語らせている。それを同一の記憶を起点とした物語というのは憚られるが、作家がそれぞれの時点である記憶と対峙した物語として、それぞれの作品を読むことは許されるのではないだろうか。

*1 古井由吉「子供の行方」(『蜩の声』、講談社文芸文庫、二〇一七)
*2 古井由吉「赤牛」(『セレクション戦争と文学7 戦時下の青春』、集英社文庫ヘリテージシリーズ、二〇二〇)

 

【書誌情報】

「子供の行方」(『蜩の声』所収)
講談社文芸文庫 2017 年5月発行 本体1,550円 A6判 288p 
ISBN 978-4-06-290348-6

「赤牛」(『セレクション戦争と文学7 戦時下の青春』所収)
講談社文芸集英社文庫ヘリテージシリーズ 2020年1月発行 本体1,700円 文庫判 696p 
ISBN 978-4-08-761053-6

【執筆者プロフィール】

中里 勇太(なかさと・ゆうた)
文芸評論、編著に『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(金子遊共編、響文社)。