【自作を語る】「つまらん映画」と言われたい/『あこがれの空の下 〜教科書のない小学校の一年〜』text 増田浩(本作共同監督)

 

3年⽣の国語「ちいちゃんのかげおくり」で、晴れた⽇に校庭で実際に「影送り」をやってみた時の⼀コマ。何度か挑戦して、「⾒えた!」と喜んでいる⼦どもたち。

「和光小学校って知ってる? 教科書がない学校なんだって」
「和光大学なら聞いたことあるけど、小学校? 知らないなぁ」

東京・世田谷にある、その学校を見つめた「あこがれの空の下 〜教科書のない小学校の一年〜」の製作は、そんな間の抜けた会話から始まった。2017年の秋。問うたのは、ともに監督を務めた、同僚の房満満。答えた私は、「自由学園」や各種フリースクール等は視界の隅にあったが、寡聞にして和光小学校は知らなかった。数日後、その学校の先生に校外で会う機会があり、この映画に至る歩みが始まった。

「教科書がない」(義務教育なので配布はするが、ほとんど使わない)という点もさることながら、私が引き付けられたのは、入学式の話だった。新入生の席は、体育館ステージの上に設けられた「ひな壇」。会場を見渡せる特等席で、在校生による歓迎の踊りや歌を観るという。来賓も先生たちも在校生も、みな下のフロア。考えてみれば、入学式の主賓はピカピカの一年生だ。この考えてみれば当然のことが、当たり前に毎年行われているという。この学校、何だかおもしろそうだ。

さっそく学校を訪ねて、授業を見せてもらった。確かに、教科書が机の上にない。代わりに、先生手作りのプリントが配られ、そこには教材のテキストや問題をはじめ、前回の授業で子どもたちが話したり紙に書いたりした疑問や意見も丁寧に採録されていて、子どもたちが先に進む手がかりになっている。そのせいか、子どもたちの発言も活発なようにも思える。授業中に遊んでいたり席を離れて歩いたりする子もいるが、先生は怒ったり叱ったりせず、子ども同士で、自然に注意し合うのにも驚いた。だが、それ以外は至って「ふつう」の学校に見えた。

3年⽣の国語「ちいちゃんのかげおくり」で、先⽣が読む物語に聴き⼊る⼦どもたち。いかに⼦どもたちの関⼼を持続させるか、先⽣たちも苦⼼しているが、教科書を使わない授業なので、⼯夫も⾃在。

この学校の特長って?……と先生たちに探りを入れても、あまり明確な答えが返ってこない。不親切という感じはしない。どうやら先生たち、目の前の子どものことに一生懸命で、学校を客観的に評価したり、ましてや外に向けて特長をPRしたりするなんて、そんなヒマ無い——ということかな……。「子どもたちが学校の主人公」という理念が昔からあるようだが、それが掲げられていたりもしない。理念やスローガンが派手に掲げられるほど、実態が逆——なのは、古今東西変わらないから、理念は空気のように学校を満たしているのかな……。好感を抱いたが、「和光小学校がどう優れているのか」という疑問にはどう答えるべきなのか、後々まで苛まれることになった。それはもう少し後で。

私も房も、ふだんはTVのドキュメンタリー番組を作っている。習い性という訳ではないが、当初、TV番組にならないか可能性を探った。結局うまく行かなかったが、企画を立てるリサーチの中で、和光小学校の意義が別の角度から浮かび上がった。いま日本の学校教育は、明治初期に学校教育が創設されて以来の、一大転換期にあるそうだ。「2020教育改革」と言われるもので、人工知能(AI)の発達など高度情報化と産業構造の激変に対応して、従来の「知識を詰め込む」教育ではなく、知識を活用できる「考える力をつける」教育へ……という内容だ。

ふと気づいてみると、その「新しい教育」の目指すものが、目の前に日々展開されているではないか。とうの昔から「自分で考えること」の実践を重ねてきているのが、和光小学校だった(しかも、その目指すところは、遙かに高く深い)。偶然の出会いの中に、見出された必然————。我々は、カメラを持って学校に通い、探って行くことにした。

周知のことではあるが、子どもの撮影は野生動物の撮影のようなもの(失礼)。インタビューでも予定調和でもなく、「一寸先」に煌めく光を収録しようと、ひたすら学校に通った。かと言って、本業もおろそかに出来ない。房も私も、それぞれ抱える番組製作の合間を縫って、通い詰めた。

運動会のリレーのひとこま。和光⼩の運動会は、⼦どもたちが種⽬の選定や応援⽅法など全てを決めて仕切るため、熱く盛り上がる。他の学校にありがちな「⾏進」や「来賓の挨拶」など、オトナの嗜好や都合、惰性によるものは⼀切ない。

気がついたのは、先生たちが「号令」をかけることはせず、子どもたちがその気になるまでじっと待つということだ。促すのは子ども同士。そのため、1年生のうちから、まず学校が楽しい場になるよう、また、真の自主性や主体性が育っていくよう、そして自分の考えを安心して言葉にできるクラスになるよう、細心の注意が払われる。そして、例えばクラス討論の段取りといった細かいことから、先生と子どもたちが対等に話し合い、より良い方法を探って行く姿勢が、日々当たり前のように満ちている。小学校の頃、「先生の意見に疑問を口にしたら怒られた」「制度や決め方について話し合いすら無かった」という話はよく聞くが、和光小学校の実践を目の当たりにすると、「なぜ、ほかの学校でも同じことが出来ないのだろう?」と、とても不思議に思う。もちろん、学校が私立とか公立とか、東京にあるとか地方にあるとかは、全く関係ない。

一方で、「学校をつまらなくするもの」が見当たらないことにも気づいた。運動会の「行進」や、各種行事の「来賓の祝辞」。授業開始終了時の「起立・礼」、そして式典の「厳粛さ」や、さまざまな形式・格式……それらは、なぜ必要なのか説明もないまま、恐らく多くの学校で毎年繰り返されている。撮影時に世に立ちこめていた、森友・加計学園問題の腐臭もあり、既存の「教育」についての疑問が湧き上がってきた。

————色々な「大人の都合」が巧妙に押しつけられていないか? たかだか百年前に創り出されたり起源も怪しかったりするような“伝統”や権威がまかり通っていないか? 制度をいじれば上手くいくような幻想を抱いていないか? 決められた通りにやればいいという「思考停止」が忍び寄っていないか? もちろん、最初から「子どもを型にはめる」考え方——それは「国際競争力」や「○○に資する人“材”育成」などの美名が謳われても実は同じだ——は思慮が浅すぎるし、金儲けや売名に教育を利用し喰い物にする「さもしい」企てなど言語道断だ。

撮影が進む中で、私が感じていた最大の問題は、別のところにあった——和光小の教育が優れていることを、どう表現すればいいのか? 私自身は、農村部の“普通”の小学校に行った。いい先生も、悪い先生もいた。和光小学校のさまざまな場面を観ていると、「これは、“普通”でもあるかな?」「これは珍しいかも」……の、揺れ動くグラデーションを感じ続ける。そもそも自分の“普通”って、どこまで一般化できるのか。それすら曖昧な中で、どう仕分けし、どう比較すればいいのか。和光小学校の素材だけで作る映画で、その比較は表現できないはずだが……と、課題として認識してはいたものの、巧い解決策は思いつかない。比較対象の学校をどう選び、撮影するのか? 撮れたとして、それを1つの映像作品の中で、どう比較するのか? 独り逡巡するうちに、あっと言う間に1年は過ぎていった。

和光⼩が⼒を⼊れる「総合学習」で、「沖縄」をテーマに1年間学ぶ6年⽣。その集⼤成となる「沖縄学習旅⾏」のひとこま。「平和の礎」を訪ねて説明を聞いた後、平和記念公園の⼀⾓で鎮魂のエイサーを捧げる⼦どもたち。

結局、この映画を観る人ひとりひとりが、自分が受けたり(家族や周囲の人が受けて)目の当たりにした教育を、自分なりの基準にしながら、判断して行ってもらうしかない……と覚悟を固めたのは、もう映画が完成に差しかかる頃だった。教育という、人間と社会の根本的な価値に関わる営みは、ある現場のリアリティを描くだけで1本の映画時間枠から容易にあふれ出るし、外側の社会の文脈までカメラを向けるのはとても無理だ(一方で、映画と、観る人たちの間に、そうした文脈は豊かに湧き出すだろう)。だから、そこまで考察し得ない浅薄な評論家には、「PR映画」とも言わせておけばいい(全く念のために付記しておくと、映画の企画立案から完成・公開に至るまで和光小学校としての要望も支援も無く、全く独立した製作である)。

この映画の実現には、クラウドファンディングに参加して下さった方々をはじめ、多くの皆さんの支援をいただいた。12月に東京で公開後、札幌・横浜・名古屋・京都・大阪・兵庫・大分での劇場公開が決まったほか、自主上映会を開きたいという有り難いお申し出も、次々といただいている。息長く、およそ「学校」のある土地すべてを網羅して、上映が続けられて行き、「教育への希望」を感じてもらうのが理想だ。
(お問い合わせは akogare@temjin.co.jp まで)

映画の作り手としては「感動した」「観て良かった」と言われると素朴に嬉しい。「教育とは何だろう? 誰のためのものだろう?」と、根底から考え・問い直す縁(よすが)となり、この社会の教育を少しでも良い方向に向けていく一助になれば、それに優る喜びはない。だが一方で、強く言いたいことがある。いつか、この映画のような教育が、日本のどこでも当たり前に普通になって、「この映画、どこがおもしろいの? 普通じゃん。つまらない」と言われる日が、早く来てほしい……と。

和光⼩学校の校舎。卒業⽣が懐かしく思い出す⼤きな銀杏の⽊がそびえる。

【映画情報】

『あこがれの空の下 ~教科書のない小学校の一年~』
(2020年/日本/ドキュメンタリー/DCP・Blu-ray/101分) 

監督:増田浩 房満満
撮影:岡本央
編集:森崎荘三
音響効果:鈴木利之
プロデューサー:矢島良彰

語り:高橋惠子 音楽:岩代太郎

制作協力:和光小学校 製作:テムジン 配給:パンドラ

公式サイト:http://xn--v8jxcq2f151q1vam0mt0xyuukq6d.jp/

画像はすべて©テムジン

【執筆者プロフィール】

増田 浩(ますだ ひろし)
埼玉県出身。報道畑を経て、TVドキュメンタリー番組の制作を続けている。主な作品に「言葉の世紀末」「シリーズ 流転 〜中央アジア朝鮮人の20世紀〜」「アメリカ 魂のふるさと」「生みの親を殺したのは育ての親だった 〜アルゼンチン・奪われた人生〜」「離郷、そして…… 〜中国・史上最大の移住政策〜」「真実への鉄拳 〜中国・伝統武術と闘う男〜」など。