【Review】ふたつのキン・ザ・ザーー『クー!キン・ザ・ザ』 text 井河澤智子

フォースと共にあらんことを。
長寿と繁栄を。(人差し指と中指、薬指と小指をくっつけ、中指と薬指と親指を開き、相手に手のひらを見せつつ)
そして
中腰ガニ股、頬をパンパンと叩き、両腕を下ぎみに開いて
「クー!」

筆者が勝手に選んだ3大宇宙共通語である。
どう考えても一番間抜けなのは「クー!」であろう。
例え初対面の相手がいきなり「クー」してきたら、「クー」を返せるだろうか。
やるのだろうが。惑星間友好のために。
しかしこちらから積極的に「クー」をする勇気はない。いざそんな羽目に陥らない限りは。

ソビエト連邦グルジア(現ジョージア)出身のゲオルギー・ダネリヤ監督がタチアナ・イリーナを共同監督に迎えて製作したアニメ映画『クー! キン・ザ・ザ』(2013)。かのソビエトS Fの金字塔『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986)は、同監督の手によるものである。多くのファンを持つこの作品を、現在の視点から再構築したのが、『クー! キン・ザ・ザ』である。
27年という時を隔てたこの2作。狙ったかのようなチープさユルさと、むくつけきおっさんたちが観るものに強力すぎるインパクトを与える1986年版実写版と、アニメならではのマスコット的キャラクターも登場する、浮遊感を持つ仕上がりの2013年版。見比べると面白いだろう。
内容そのものについてはそれほど大きな変更点はない。急に銀河の最果てにワープしてしまった地球人が、現地の住民たちに翻弄されながらもなんとか帰還の方法を探す、という基本的なプロットは同じである。大まかな筋も同じだ。
しかし、この2本の作品は、製作されたその時のそれぞれ異なる社会情勢を風刺して作られているのだという。四半世紀あまり、大きな変化を経験した彼の地だが、それぞれどのような状況だったのだろうか。

1986年版について。
映画の準備自体はおよそ80年代に入った頃からと推測すると、ブレジネフの長期政権による腐敗が蔓延り、特権階級が存分に恩恵を受けていた頃である。一方で経済成長は鈍化しており、市民の不満は高まっていたという。また検閲の問題もあり、国外に活動の場を求める映画監督も多かった。
その後アンドロポフ政権に移り、腐敗体制の一掃とともに反体制派への締め付けがより厳しくなる。これによって映画の製作に影響が出たかどうかは定かではないが、どちらにしても「風刺」は危険な行為であったことだろう。2年間のアンドロポフとその後1年のチェルネンコの時期を経て、ゴルバチョフ政権時、1986年に公開に至る。言うまでもなく、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)に尽力し、結果ソ連を終焉に導いた指導者である。
映画の製作が権力者の匙加減でどうにでもなるということを考えると、どうやってこのジェットコースターのような時代に、このような奇妙な作品を製作し公開することができたのだろう。変化のタイミングに合ったのだろうか。それとも「ソビエト社会の腐敗」への揶揄が、皮肉にも限りなく「拝金=資本主義」への批判にも見えてしまうからだろうか。

2013年版は、ざっくり言ってしまうと、ソ連解体後しばらくして2000年から今日までの長きにわたるプーチン政権の下で製作されている(途中で一度交代しているが、「大統領」ではなく「首相」として権力の中枢にあったことに違いはない)。民主主義にも馴染めず、国家主義・権威主義としてそれまでの体制がそれほど変わることなく続いている社会。貧富の差は広がり、かつての特権階級は「富裕層」にそのままスライドし、社会主義が表向き標榜していた「平等」が意味をなしていなかった頃と同じような状況である。ソ連の腐敗を風刺した『不思議惑星キン・ザ・ザ』と、現代のロシアを戯画化して製作されたアニメ作品『クー! キン・ザ・ザ』が、結果として「オリジナルとアニメ化」のような関係に見えてしまうということは、こう解釈できる。
しかし、おそらく筆者がさらっと調べたようなことは、とうに皆知っているようなことばかりで、お恥ずかしいかぎりである。

この『キン・ザ・ザ』2作のテーマは、「未知との遭遇」そして「階級制度」である。これより主に『クー! キン・ザ・ザ』に絞って進める。
寒い路上で裸足の変な男に下手な親切心を見せたばかりに、一瞬にして「クー」と「キュー」の惑星に放り出された哀れなロシア人、ウラジーミルとトリクの2人は、釣鐘型宇宙船「ぺぺラッツ」に乗った「チャトル人」ウエフと、その下僕「パッツ人」ビーに出会い、モスクワへの帰還を目指すわけだが、彼らは実に欲深く、彼らのコートやカバンの中身を奪い去った上に、ウラジーミルが持つ「カツェ」つまり「マッチ」を狙う。マッチの頭がこの世界では最高の価値があるものなのだ。ウラジーミルをだまくらかしそれを奪い取るためにあの手この手を試みる彼ら。ウラジーミルはその度あっさり騙され、一瞬にして砂に埋まったり置いてけぼりを食らったり。その度巧みに交渉し助けに来るのはトリクである。高名なチェリストである誇り高きウラジーミルも全くこの世界では役立たず。チェロで現地のパッツ人を魅了しようにも、彼の奏でる流麗な音楽は全く彼らのお気には召さず、トリクが見様見真似で弾く雑な音楽の方が気に入られるという気の毒さ。現地では身分の低いパッツ人と判別されたため、事あるごとにカゴに入れられ、四つ這いにされ、自分の大事なチェロで雑な音楽を弾かれるという、徹底した侮辱を受けることにもなる。これでは「チェロを弾いて旅費を稼ごう」という目論見の雲行きは怪しい。

まず、このロシア人2人が、そもそも「ハイカルチャー」と「大衆芸能」という、階級の違いの下にあることが示される。高尚な教養の象徴としての「世界的チェリスト」と、まだ何者でもない「D J志望の若者」。おそらくロシアの「富裕層」と「一般層」を表していると考えられる。しかし、この砂漠の星プリュクでは立場が逆転する。自らの芸術が通用せず、意気消沈するウラジーミル。地球では高い地位にあり、おそらく同じような高尚な人々に尊敬される彼だが、ここではただの「カツェを持つパッツ人」すなわち見下しと略奪の対象でしかない。まことに気の毒至極である。
しかし、そんなプライドに固執する彼が、このズルとだまくらかしがまかり通る世界で無事なわけがないのだ。まだ若く何者でもないトリクが高い順応性を示し、この星の人々と対等に渡り合っていけるため、ウラジーミルはなんとか生きていけるのだ。トリクはウラジーミルの庇護者であるとも言えよう。この惑星から地球へ帰還するためには、異文化との交渉が必要だ。相手の思考を読むことができ、ズル賢い、という手強い相手との。

社会はこのように構成されている。
「チャトル人」「パッツ人」の上に、さらに黄色いパンツを穿いた偉い人、権力者「エツィロップ」、その上には赤いパンツのエリート、一番上は「ぺジェ様」だ。下の者は上の者に会ったら、必ず自分の頬を叩きガニ股に膝を開き、「クー!」と挨拶をしなければならない。特に黄色いパンツ以下の者がエツィロップに会った時「クー」をしないと大変なことになる。彼らは下の階級を見下し、立場が上であることに満足する。
そして「カツェ」はたくさん持っていればいるほど地位は上がる。ウラジーミルはウエフとビー、そして小さなヘルメットのようなロボットに「カツェ」を狙われるが、それは持っていればいるほどいい色のパンツがはけ、見下しておもちゃにできる対象が増えるからなのだ。
階級のない社会に意味はない、と彼らは言う。彼らは自分たちの社会が気に入っているのだ。自分が「クー」される階級に辿り着くためには、ズルやだまくらかし、上の者への「クー!」は当然である。
この滑稽な仕草は、かつて彼の国に蔓延っていた「平等」というイデオロギーの裏にある腐敗や、現在権力を握っている強力な何かに対するゴマスリ、それらへの皮肉でもあるのかもしれない。そういった社会の中でしたたかに立ち回り、自らがゴマをすられる立場に昇りたい人々。他人をおもちゃにして楽しみたい人々。おそらく、ソ連時代から現代に至るまでのロシア周辺の歴史を示しているのだろう。
『キン・ザ・ザ』のユルさの裏にある社会批判は、辛辣だ。

しかし、階級はかつてどこにでもあったもので、現在でもあるところにはあり、ここ日本においても、かつては明確な制度として、そして現在は見えづらい形で(しかしここ最近急激に目に見えるような形となってきたが)存在する。
巧みなズルやだまくらかしで国を左右し、カツェならぬ金を吸い上げているものが、あるのではないか、なぁ。彼らも誰かに「クー!」してその立場に昇り詰め、現在は「クー!」されているのではないか、なぁ。
拝金=資本主義。まさにどこか身近にそんな社会があるのではないか。

最後に。
『不思議惑星キン・ザ・ザ』『クー! キン・ザ・ザ』における場面の変化は、非常に単純かつ強烈なものである。
ボタンを押したらパッと砂漠の星。
ドアを開けたらそこは別の場所。
それでいいのか。それでいいのだ。
さすがエイゼンシュテインを生んだ国である。いや、そうなのか?

【映画情報】

『クー!キン・ザ・ザ』
(2013年/ロシア/DCP/96分)

監督:ゲオルギー・ダネリア
共同監督:タチアナ・イリーナ
音楽:ギア・カンチェリ
声の出演:ニコライ・グベンコ、イワン・ツェフミストレンコ、アンドレイ・レオノフ
配給:パンドラ
宣伝:スリーピン

公式サイト:http://www.pan-dora.co.jp/kookindzadza/

画像はすべて©CTB Film Company、Ugra-Film Company、PKTRM Rhythm

5/14(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー!

【執筆者プロフィール】

井河澤 智子(いかざわ・ともこ)
1986年版と2013年版の最も大きな違いについてまで、
本文では言及できませんでした。
「記憶」についてです。
たしか、1986年版では、地球に帰還した2人は記憶を失っているのですよね。
路上の「クー!」で記憶は取り戻されたのでしょうか。
しかし、2013年版では「記録装置」として、携帯電話の写真機能が使われます。
あの写真、地球で見ることは出来るのでしょうか?