【自作を語る】「感動」の呪縛——『ラプソディ オブ colors』text 佐藤隆之(本作監督)

 「佐藤さんて、アイヌだったんですか?」
 とは、前作『kapiwとapappo~アイヌの姉妹の物語~』(2016年)を撮っていた頃、よく聞かされた言葉だ。企画書やトレイラーを見て、知人たち(多くはプロデューサー)がそんなことを口にした。
 その問いは、おそらくモチーフが意外だったゆえの悪意のないものだったが、「いや、そういうわけではないんですよ」と答えながら僕は微かに違和感を覚えていた。その問いの素朴さの裏には「無意識ななにか」が隠れているような気がしていた。
 もっとも僕自身の反論も今考えれば、いささか幼稚なものだったが。
 「アイヌのことはアイヌがやらなきゃダメなんですか?」「シャモ(和人)だからこそ見えてくるものもあるんですよ」等など。
 ”表現の自由”というものは最大限認めよ、というのが僕の考えであるし、誰が何をどう描こうがその時点においてはまったく自由である。出来上がったものが社会的に認められるか否かは、また別問題だろう。

 今年60歳になった僕は、大阪芸大の映像計画学科を中退して25年間フリーランスで劇映画やテレビドラマを中心に助監督や売れない監督をやってきた。そして45歳のときに食うに困ってタクシードライバーになった。それ以降タクシー稼業をしながら自分ひとりで出来る範囲のドキュメンタリー映画を作っている。
 劇場公開作は前作と今回の『ラプソディ オブ colors』の2本だけなので世間からは「ドキュメンタリー映画監督」と認知されるかもしれないが、僕の元の発想はドラマである。
 ある事象を提示し告発するようなドキュメンタリーを「硬派」だとすれば、僕の作品は「軟派」そのもので、ドキュメンタリーらしくないと評されることが多い。曰く「民族問題も民族自体も描いていない」「何を提示したいのかわからない」と。
 しかし、僕の中ではドキュメンタリーとドラマの境界はかなり曖昧であり、シナリオがあるかどうか、出演者がプロとして演技をしているかどうかくらいしか違いはない。そして、映画として面白いかどうかが作品に対する一番の評価基準で、それはドキュメンタリーであってもドラマであっても変わるべきでないと思っている。

 そもそも、【ドキュメンタリー】とはなんだろうか。

 博識な読者はご存知だろうが、その言葉はアメリカのロバート・フラハティの映画『モアナ』(1926年)を英国のジョン グリアスンが評して【現実のアクチュアリティをクリエイティブにドラマ化する手法】として使ったのが初めてだとされている。今でこそ一般的には【ドキュメンタリー】と【ドラマ】は相反するカテゴリーとされているが、当初はそうではなかったのだ。
 それを知人から教えられた5年ほど前、我が意を得たり、と膝を打った。
 かねてから僕は、逆に【ドラマ】とは何かと考えるにつけ、それはたまたま偶然に(必然でもあるが)現実世界に起こったあるドラマティックな出来事を、膨らませたり再構成、ときには混ぜ合わせてより効果的に再現・あるいは創出したもの、と定義していたからである。
 だとすれば、【ドキュメント(現実)】がドラマティックであってもなんの不思議もない。むしろそれこそが【本当のドラマ】なのではないかと思う。言うまでもないことだが、これはテレビでいっとき流行った「セミドキュメンタリー」やフィクションドラマの一種である「フェイクドキュメンタリー」には当てはまらない。なぜか、これらハイブリッドなやり方には僕は大いに惹かれる。

話を戻す。
今回の作品は、〈いわゆる障害者〉と〈いわゆる健常者〉、その間のグラデーションを扱った映画である。
近年、巷には〈障害〉や〈福祉〉を扱った映画が多いような気がする。それは東日本大震災後に被災地や被災者を扱った映画が乱立した(それはドキュメンタリーの使命でもあるので批判しない)あとのブームのようにも見える。震災によって弱者への視点が促されたこと、またオリパラに向かってパラアスリートに注目が集まっていることも理由だろう。
ところで、「感動ポルノ」という言葉がある。
それは意地悪く簡単に言ってしまえば、弱者が頑張る(あることに挑戦し成功/失敗する)姿を見て(特に)健常者が感動を得る偽善的なストーリーだ。
「障害を乗り越え頑張る姿に感動した」「元気と勇気をもらった」
とはよく聞く当たり障りのない感想である。
テレビのお手軽な情報番組などは大抵そういう切り口でストーリーを作っていく。いや、それは「ドキュメント」と名付けられた長尺の番組においてさえ。そしてそれらは消費され流れ去っていくが、視聴者の記憶には薄っすらと沈殿していく。
では、映画においてはどうだろうか……。テレビとは違った価値観や選択肢が用意されているだろうか……?

ここで近年観た、障害を扱ったドキュメンタリー作品3作を私的に振り返ってみたい。
●『道草』(2016年・宍戸大裕監督)
 きっかけはヘルプを受ける障害者の父親からの記録依頼だという。一般にはまだ馴染みのない「ガイドヘルプ」というものを世間に紹介するという役割をうまく果たしていたと思う。また、障害者自身の持つ世界観や魅力、ヘルパーのユニークな個性も丁寧なカメラワークと編集で実直かつスタイリッシュに描いていたが、「介助される側vsする側」すなわち「障害者vs健常者」という単純な役割分担の構図から抜け出せてはいないしその意志も感じられなかった。ただ、その二分法のわかりやすさが功を奏したのか、観客の受けは良く結構なロングランヒット作になったと記憶する。

●『インディペンデント リビング』(2020年・田中悠輝監督)
 「道草」とは逆に、障害者側から自立生活への奮闘を描いた作品。大阪の自立生活センターの先進的な取り組みは評価できるし、従来の障害者と健常者(ヘルパー)の主従関係を逆転させているところは面白い。ひと括りにされがちな障害者の多様性、個性を丁寧に描いていて好感を持てた。「身体障害者がタバコ吸っていいんだ!?」というような、人々の意識をあぶり出すことに成功した映画だと思う。
 ただ、障害/健常の二項対立が問題にはされていないように思った。ある種の理想主義というか、啓蒙主義というか……。

●『だってしょうがないじゃない』(2019年・坪田義史監督)
 発達障害者として長年一人暮らしを送る叔父・まことさんと、精神の不調を自覚する監督自身が出会い、交流を深めていくドキュメント。前二作と違うのは、まことさんと監督とのふたりのパーソナルな交流が主軸となった作品であること。ほっこりとしたまことさんのキャラクターに癒やし効果と彼なりの思想なども伺え、とても自然に落ち着いて観ることができた。監督自身の生活(第三者が撮影している)や親や妻のエピソードなど意図的な誘導を感じる部分が少し気になったが、何より評価したいのは〈障害/福祉映画〉ではなく、人間vs人間の物語であること。社会問題にも触れるが説明しないことで、それを個人の問題としているところも良いと思った。

 さて。5月29日からポレポレ東中野で公開される、自作『ラプソディ オブ colors』は人々にどんなふうに観られるのだろうか。

 現実は混沌としておりそこには法則性はない。言ってみれば「とりとめがない」のであるが、そのとりとめのなさを矯めつ眇めつし、エッセンスを取り出してある方向に提示する。具体的には、枝葉を取り払い幹を見るという作業になろうかと思う。そうすることによって物事の本質をわかりやすくする。
 しかし、それはいったい誰のために?
 もちろん視聴者のためにであるが、そこに制作者自身が含まれていることを忘れてはならない。視聴者の「感動」とは、制作者の「達成感」とほぼ同義である。実際、それが視聴者にも製作者(出資者やプロデューサー)からも求められるのが現実だし、劇場用映画は産業なのだから最大公約数を求めるのはある意味当然である。それを拒否するならば、自己資金で自分の思いのみで「個人映画」として作るしかない。もっとも、そこには〈独善〉という大きなリスクがつきまとうわけだが。
削ぎ落とされた枝葉。それにはねじ曲がって折れかけたものもあるだろうし、枯れて縮こまった葉の裏にはアブラムシや青虫がくっついているかもしれない。しかし、それも含めての樹なのである。僕はそういったディテールを大事にしたい。本質はディテールに宿ると信じているからだ。
 真っ直ぐな幹から製材された木材は使い勝手がよく大工からは好まれるだろうしお金を払った施主も清々しく感じるに違いない。だが本来、樹は人に使われるためにそこに立っているのではない。森も川も湖も、誰のためにあるものでもない。だからこそ人は(勝手に)それを眺めて、美しいと感じるのだ。

 未知の世界を知ることは貴い事だが、それはあるバイアスを伴って「学ぶ(教示される)」ものではあるまい。周りの世界を自らの新しい眼で違った角度から見ることなのだと思う。
 〈寄り添う〉〈掬いあげる〉とはよく聞く耳触りの良い言葉だ。このなんだか〈上から目線〉を感じさせる言葉に嫌悪感を抱く。
 そんなふうにまとめてしまいたいメディアとは裏腹に、僕にはそんな余裕はないのだ。

【映画情報】

『ラプソディ オブ colors』
(2020 年 / 日本 / カラー / 16 : 9 / ステレオ / DCP / 108 分)

監督・撮影・編集:佐藤隆之
出演:石川悧々 中村和利 新井寿明 上田繁 Mayumi 他多数
応援撮影・グレーディング:塩谷茂(24fps)、出口さとみ
ドローン撮影:中野政勝(CIAN aviation)
音声ガイド/日本語字幕:シティ・ライツ
協力:バリアフリー社会人サークルcolors、特活!風雷社中、朱紅、障害平等研修フォーラム、曹洞宗、須磨ユニバーサルビーチプロ
ジェクト、(公財)世界宗教者平和会議日本委員会
助成 : 文化庁文化芸術振興費補助金 ( 映画創造活動支援事業 )、独立行政法人日本芸術文化振興会
企画製作 : office + studio T.P.S
配給:太秦

公式サイト:https://www.rhapsody-movie.com/

画像はすべて© office + studio T.P.S

5/29(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

【執筆者プロフィール】

佐藤 隆之(さとう・たかゆき)
1961 年山形県鶴岡市生まれ。関西で育つ。大阪芸術大学映像計画学科中退。在学中に8mm作品を3本製作。大学中退後フリーの助監督として大林宣彦、黒木和雄、鈴木清順、廣木隆一、堤幸彦などの監督作品に参加。34 歳、テレビ東京「きっと誰かに逢うために」で監督デビュー。深夜枠テレビドラマ、DVD 作品、ネット配信作品など約20 本で監督脚本。オリジナル脚本がサンダンス映画祭、函館イルミナシオン映画祭にノミネートされる。45 歳でタクシードライバーに転職。その後、個人製作ドキュメンタリーに転じる。
2016 年秋ドキュメンタリー作品『kapiw とapappo〜アイヌの姉妹の物語〜』を渋谷ユーロスペース、レイトショーにて公開。本作が長編ドキュメンタリー2作目。東京在住。