今、私は「眠ること」に対しての困難を抱えながら、これを書いている。
自らの内でコントロール不可能な「眠り」=不眠に悩まされながら、毎日を過ごしている。
いったい、眠りとは、なんなのだろうか。
日々の疲れを癒やすもの。ある意味では娯楽、または逃避。
眠りを享受する者は、ただ布団に身体をあずけ目を閉じれば、現実と非現実のあわいをたゆたうような、時間も空間も、自我も、曖昧に溶けていくような感覚を味わうことができるのだろう。想像するだけで甘美だ。
しかし、私にとってその感覚は、容易に味わうことができないものだ。なぜなら、自然に眠りにつく感覚を失ってしまった私は、一日を終わらせるスイッチを切るため、もしくは疲労を取るほんの少し微睡みのため、布団に入り、薬を飲む。もしそれがうまく効いてしまったら、瞬時に意識を失ってしまう。
気絶にも似た深い眠りから爽やかに目が覚めることができればそれはそれでなんとなく嬉しい一日の始まりなのだが、何かしらの理由で覚醒してしまったら最後である。時計を見つめ絶望する。まだ深い夜の中、まどろむ意識の揺らめきすら感じることができない苦しみがあるだけなのだ。不眠の夜。そしてその苦しみには、非常にしばしば悩まされる。
あらためて「眠り」について考えてみる。
全ての意識を一旦保留するもの。連続する時間を遮断するもの。そして、遮断した意識が戻ってくると、次の日が始まるもの。
眠りは「さかいめ」なのだ。日々の暮らしの中にある「さかいめ」。
イラストレーター、コラムニストとしても活動する住本尚子監督の長編第一作『ふゆうするさかいめ』。
眠りに取り憑かれた女性と、彼女に「現在と過去」について立ち現れる現象を、ノスタルジックな映像とアニメーションを織り交ぜて描く作品である。
眠りについての映画には、例えば小栗康平『眠る男』(1996)、アピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓』(2016)、ミシェル・ゴンドリー『恋愛睡眠のすすめ』(2005)などがある。私が実際に観たことのある何本かを思いつくままに挙げてみたが、偶然か必然か、「現実の生活」と—それこそ「夢」のような—「別の世界」のあわいを描いているものが多くみられる。
その別世界は、「彼岸」かもしれないし、「妄想」かもしれない。いずれにしても、「眠り」は現実と別世界のさかいめを溶け合わせる「メディウム」として在るのかもしれない。この『ふゆうするさかいめ』も、その一本として位置付けられよう。
床ずれができるほど眠ってしまうマリノは、パジャマを着たまま、髪に櫛を差したまま、アルバイト先の喫茶店に出かけてしまうほど、眠りと日常の境界が曖昧な中で生活している。しかし、布団販売業のマモルとの出会いや、マモルの交際相手で、幼馴染でもあるミノリとの偶然の再会によって、さまざまな「さかいめ」を意識していくことになる。
マモルの背中に見てしまった違和感。幼馴染との噛み合わない会話。それは、自分が意識の下に沈め、切り捨ててきたものとして立ち現れる。
マリノには過去の思い出に全く執着がない。ミノリはそれに対して苛立つ。
自分の大切な記憶が、それを共有する相手にとってはどうでもいいことだとすれば、ミノリは否定されたような気分にもなろう。しかし、マリノは過去を自らの外に放出し、「ないもの」として暮らしている。マモルによって見つけられてしまった彼女の過去がどういったものなのか、そしてなぜそこまで過去の自分はどうでもいいのか、それは示されない。
しかし、人は常に過去に生きているものなのだ。生きる瞬間、それは即座に過ぎ去り、常に自分は過去のものとなるのである。過去の連続の途中に、生は在る。
時間の流れには「さかいめ」はないが、人の意識の流れには「さかいめ」はある。それが「眠り」である。人一倍眠るマリノは、特にその「さかいめ」が強いのではないか。過去に対し。そして他者との関係性に対し。
劇中で印象的に使われる写真はまさに「時間」と「記憶」についてのメディアであって、
マリノとミノリが同じ写真を見て示す反応は、例え過去の自分たちがそこに居るとしても、ふたりが異なるものを見ていることが窺える。
ミノリにとっては、かつての自分たちの、ある瞬間。マリノにとっては、ただのどこかの誰か。
また、ミノリがマリノの自宅で見たマリノの両親の写真について話をしても、マリノはそれが家にあるということを思い出せない。彼女にとって両親は「漂う気配」として感知される。ふたりは「マリノの両親」について話をしていても、互いに違うものを思い浮かべているのだ。
人と人との距離感、さかいめ。他者と相対するとき、そこには不可避にさかいめがあらわれる。薄い薄い、膜のような。
この世界は感知されない薄い膜の重なりによってできている。社会を構成する薄い膜の重なり、それをまた構成する個人個人を作り上げた時間と記憶という膜の重なり。
これをなんと表現しようか。
私はある甘やかな物質に思い当たった。
ミルクレープ!
私はこの、なんとも表現し難い「さかいめ」の数々をどう表現しようかと考えあぐねた結果、このお菓子の構造と、私が思い描いているそれがぴったり重なっていることに気づき、ひとり喜んでいる。
例えばひとりの人間をミルクレープであるとするならば、重なるクレープとクリームは、その人の中に流れる時間の蓄積、記憶の蓄積である。人を構成するそれらを、フォークで上から切り分けて食べる。「さかいめ」が口の中で溶け合う。
例えば彼らが暮らす世界がミルクレープであるとするならば、マリノ、ミノリ、マモル、喫茶店の店主たちはそれぞれクレープとクリームである。気が遠くなるほど重なってできているミルクレープを切り分けて食べる。また、「さかいめ」がなくなる。
自らの眠りの中に完結し、他者の侵入に戸惑っていたマリノ。
ミノリとマモルを受け入れるためにとった行動は、マリノ=眠りと、ミノリとマモル=布団の、幸福な共犯関係を結ぶのだ。
不可避に生まれる他者との距離感、さかいめ。
それに折り合いをつける彼らならではの意外な方法に、驚かされる。
布団は意識を吸い込む。眠りは布団に支えられる。
敷布団は、背中が支えられて腰に隙間ができない硬さのものがいい。
眠りは、全てを溶かす。おやすみなさい、よい夢を。
なお、フタコブラクダの布団は実在する。
【映画情報】
『ふゆうするさかいめ』
(2020年/日本/カラー/ビスタ/65分)
監督・脚本・撮影・編集:住本尚子
出演:カワシママリノ、鈴木美乃里、尾上貴宏、ハマダチヒロ、南波俊介、笠井和夫、笠井正子、小島博子、小島信一、横井心梛、伊藤はな
音楽:のっぽのグーニー 主題歌『シースルー・レスキュー』
作詞:諸根陽介 作曲:小林このみ 編曲:のっぽのグーニー 歌:sei
撮影・照明:小川賢人、小菅雄貴
助監督:錦織可南子、田中大地
音声:タキザワユウキ
整音:タキザワユウキ、中澤佑規、三浦栄里
サウンドデザイン:紫藤佑弥
編集協力:田中俊太朗、田中大地、小川賢人、杉目七瀬
美術:カワシママリノ
小道具デザイン・アニメーション:中根有梨紗
字幕翻訳:作美はるか
字幕監修:Saimi Noda, Mika Fujimura, Arun
宣伝美術:三好遥
宣伝協力:池田彩乃
公式サイト:https://fuyusurusakaime.tumblr.com/
画像はすべて©︎NAOKO SUMIMOTO
6/12(金)より池袋シネマ・ロサにて上映!
【執筆者プロフィール】
井河澤 智子(いかざわ・ともこ)
おやすみなさい、からおはようがこなければどんなに幸せか、となんど思ったことでしょう。
しかし、幸せな眠りを感じることができるのは「起きている時」しかないのです。
なんというジレンマでしょうか。
フタコブラクダの布団、試してみたいです。