鳥取県の山あいにその「学校」はある。新田サドベリースクール。この映画は新田サドベリースクールの1年を追ったドキュメンタリー映画だ。鳥取といえば、で真っ先に浮かぶのは鳥取出身で、僕の大好きな漫画家の水木しげるだ。「おばけにゃ学校も 試験もなんにもない」というメロディーはゲゲゲの鬼太郎の世界だが、新田サドベリースクールは「学校」ではありつつも、試験も通知表も先生もない。日本で、公立の小中高を出てきた自分にとっては、なかなかに妖怪寄りの学校だなと驚かされる。
映画に登場してくるのは、6歳から13歳くらいのこどもたち。そしてスタッフ数名。一見して思うのは、こどもたちの表情の豊かさ。こどもたちの顔の豊かさが、同時にこのスクールの理念を表しているように思える。「こどもの顔」といってもそこにあるのは、弾けるような笑顔とか、顔を歪めて泣き出す顔だけではない。この映画のはじめ、スクールでニンテンドースイッチで遊ぶ子どもたちののめり込んでいる顔も、その表情のひとつだった。自然溢れるスクールの中で、ゲームに興じる子どもの顔を見ると、ともすれば最近の若者は……みたいなおじさん定型文を口にしたくもなる。けれど、このスクールの大原則はこども達がやりたいことをやる、だ。一日の時間の中で、どんなことをして過ごすかはこども達が決め、スタッフ=おとなはあくまでやりたいことをサポートする立場である。だから彼らがゲームをして過ごすならばそれは尊重されるし、英語を勉強したいとなったら、スタッフが教えたりもする。その原則のもと、こども達は日々を過ごす。だからこそ映画の冒頭に映る、ゲームに没頭するこども達の顔もこのスクールの大事な一面なのだ。そして、彼らもゲームばかりやっているわけではなく、一日を愉快に過ごすための一つの時間としてゲームがあるのだと思う。
スクールを卒業していく一人のこどもが、去り際に「自由ってむずかしい」と話していた。彼の言う、難しさは、例えば、スクールの中でのルールづくりや問題が起きた時の解決策を自分たちで決めるめんどうくささもあるのかもしれない。でも僕は、彼らが自由の難しさに一番ぶち当たっているのは、日々の退屈なのだと思う。スクールに行って彼らは何をして過ごしてもいいが、決しておとなたちから面白そうなことやワクワクすることが提示されるわけではない。なんでもない日に女の子達が「最近、つまんない」とたむろしながら話していた。僕はそのシーンがとても好きだ。こども達の口調、まるで骨がないようなこどもによくあるふにゃふにゃした動き、全てが「まじ、退屈」を表現していた。ドキュメンタリー映画を通してこどもたちがその置かれている状況で楽しんだり困難に立ち向かったり、しんどい生活をしている姿を観ることはあるが、「まじ、退屈」なこども達はかえってとても新鮮だった。そんな中、結局ポツリと一人の子が発した「喫茶店やりたい」から喫茶店構想が始まっていく。そこからも店を開店するまでにもすったもんだがあるのだけど、僕にとっては「まじ、退屈」の状態から、喫茶店構想が生まれたあの短い時間に、何か大事なものを観た気がした。はっきり言って、言い出しっぺってめんどうくさい。それはおとなになった僕もそう思う。最近小学校の同級生は結婚しまくってるし、仕事でステップアップしてる奴もいる。ウイルスなんてものもある。周りがどんどん変わっていく中で、「面白いことやろうよ」の言い出しっぺをどんどんしなくなっていってる気がする。気にしなくていいこと、気にしすぎなことがどうも最近の自分は多くて少し悔しい。結局、いつもと同じことをいつもと同じ人とやってる。それはつまりスタッフからおもしろイベントを提示されて乗っかるのと同じな気がしてしまう。世の中を覆うぼんやりとした、あまり変えなくていんじゃない?な保守マインドに抗うためにも、0からこども達がやりたいことをドライブさせる姿にはポッと勇気をもらった。
そして、この映画では、こども達の豊かな表情や、インディペンデント精神の芽生えをみることができるが、同時におとな達の苦悩も感じられる。このスクールの様々なスタンス、決め事の中で僕が一番驚いたのは、こども達が投票でスタッフを選ぶということだ。こども達が投票し、得票数の高い順に、週に何回そのスタッフがシフトに入れるかが決められていた。子ども達自身で場を作っていくという理念のもと、選挙が行われたり、新たなスタッフを募集する要項が作られていくのだが、その話し合いの場にはこども達も、おとな達も混在して真剣に話し合う。そもそも、スタッフの労働環境は適切なのか?時間外に、ミーティングしたりするのは労働になるのか?などなど。
一人のスタッフが映画の中で、口を出しすぎて、こども達の自主性を奪ってしまうこと、逆に遠くから見すぎて、こども達のやりたいという気持ちがしぼんでしまったこと、そんな失敗を何回もすると語っていた。こども達の自主性を尊重する中で、おとなはこどもの様子にうまく合わせていかないといけないのかもしれない。ただ、それだけってどうなの?とも映画を観ていきながら僕はぼんやりと思っていた。だが、その選挙前の話し合いで、一人のスタッフが、「自分は週4回入っていて社会保険入って9万円もらっているが、ほんとギリギリで、これが週3とか週2になったら家族を養っていけないし」という発言をしていた。ハッとする。そこにおとなの視点が急に入ってきたからだ。この視点があることで、こどもとおとなが真に対等になっている気がした。こども達は、こども達の論理で「こうしたい」があると同時に、おとな達にもこんな事情がある。それを突き合わせる場があることはとても大事に感じた。
果たしておとなの事情はどこまでこどもにあけっぴろげにしていいのかはわからない。自分自身の話をすると、僕は2歳から8歳までの間、家の中にたくさんのおとながいた。シングルマザーの僕の母が始めた共同保育の試み「沈没家族」のもと、母が家にいないときは代わりに無償で集まった沢山のおとなが僕の面倒を見てくれた。そこではおとなの事情は満載だった。こどもの保育をする場所でありつつも、おとなたちが交流する場所でもあったから、こどもが第一の空間ではなかった。ただ、僕はそこで、月並みな言葉だけれど、世の中にはいろんな人がいるんだなあということを学んだ。みんなそれぞれの事情で、沈没家族にきていて、そこにきてる人たちは一人ひとり僕との関わり方も違っていた。もちろん、保育してもらってはいたが、そんな場の雰囲気もあって、僕は母やおとなたちに対等に扱ってもらっている気がして嬉しかった。「家族を養っていけない」という言葉は、こどもにとっては想像しがたい世界の話かもしれない。でも、あの場でスタッフがおとなの事情を話しづらいことだったかもしれないけど、話したのは、そして話せたのはスクールのそしてこの映画の多様さを表しているようにみえた。
自分もヘンテコな「家族」で育った生い立ちを映画にしたけど、自分にとって当たり前の環境だったものが観てくれた人にとってはとても驚きだったことが不思議な感じだった。新田サドベリースクールの一年間を記録したこの映画も、これが唯一の正しい学校のあり方という訳ではなく、一つのやり方として多くの人に観られたら良いなと思う。こんな世界があるんだよということをまずは知ることによって救われる人もいるはずだ。そして、映画を観て感じた爽快感や違和感や、気になることはぜひ映画を観た人と語り合ってみたらいいと思う。その対話こそが、スクールのこどもやスタッフの話し合いと同じように「普通」を問い直して、風を吹かせるものだと思う。そして何よりも、映画に登場してきた生身のこどもたちに思いを馳せ、愉快な彼らのその後を想像しながら、健康を祈ってしまう。『屋根の上に吹く風は』は、ちょうどそんな映画だった。
【映画情報】
『屋根の上に吹く風は』
(2021年/日本/カラー/DCP/ドキュメンタリー/108分)
監督・撮影・編集:浅田さかえ
プロデューサー:日笠明彦 西村陽一郎
音楽:原摩利彦
ナレーション:玉川砂記子
配給:グループ現代
画像はすべて©SAKAE ASADA
公式サイト:https://www.yane-ue.com/
2021年10月2日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開予定
【執筆者プロフィール】
加納 土(かのう つち)
1994年生まれ。武蔵大学社会学部の卒業制作として共同保育の形「沈没家族」で育った自らの生い立ちを追ったドキュメンタリーの撮影を始める。2019年、卒業制作を再編集し、『沈没家族 劇場版』として劇場公開する。2020年、筑摩書房より『沈没家族 子育て、無限大』を出版する。