濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が公開されている。村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』(文春文庫)に収録された同名の短編小説を原作とし、6月に行われたカンヌ国際映画祭では脚本賞をはじめ、計4つの賞を受賞した。
映画『ドライブ・マイ・カー』は端的に言えば、ある演出家の「喪失と再生」を描く作品と形容できよう。「喪失」が描かれるのは前半の1時間ほどで、主人公の家福悠介(西島秀俊)が脚本家であり、最愛の妻である音(霧島れいか)を亡くすまでの過程が描かれる。
本作は彼らのセックス・シーンから始まる。音は家福に対して、行為のさなかに「やつめうなぎ」にまつわる謎めいた話を口にし、やがて、こうした不可思議な話を音が語ることが、ふたりのセックスにおける習慣となっていることが示唆される。
村上ファンならピンとくるであろう、「ドライブ・マイ・カー」同様に『女のいない男たち』に収録された短編「シェエレザード」のエピソードである。本作は179分という長尺であり、原作のほかに『女のいない男たち』から「シェエレザード」や「木野」のエピソードが物語に組みこまれている。
ファースト・シーンで着目すべきは、はじめて登場する音がいわば「のっぺらぼう」のような印象を与えることだろう。マンションの窓から見える朝焼けを背景に、画面に対峙する音の顔は逆光でその細部を判別することができず、観客が前半におけるヒロインの顔を知るには、開幕から少しの時間を要さなければならない。
もちろん、これは技術的な落ち度などではないだろう。(一義的に解釈することはできないという前提の上で)その効果について想像を伸ばすと、まず音という人物の不可解さ――後述のようにこの時の音がトランス状態にあり、いわば意識が肉体から離れていることも含め――の暗喩であると見ることができる。そしてもうひとつの効能として挙げられるのは、音と家福が一見つながっているように見えて、実はその間には深い溝が存在するという「へだたり」の強調である。それは同シーンにおいて、音が上半身を起こしていることに対して、家福が横たわった姿勢でその話を聞くという、姿勢の対照性にもまた敷衍できるものだろう(なお、この姿勢は原作の通りではなく、原作では「横になったまま話をした」と記述されている)。
こうした描写自体は、映画全体から見れば些末なものかもしれない。しかし、あえてこのようなセックス・シーンの細部に留まりたいのは、冒頭で端的にうかがえるこうした「へだたり」のメタファーは、『ドライブ・マイ・カー』という映画全体の通奏低音ともなりえているように思われるからだ。
原作における「へだたり」
「へだたり」の萌芽は、原作「ドライブ・マイ・カー」にも存在する。原作は女性ドライバーに対する家福の批評から幕を開けるが、家福は彼女たちの運転が「いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか」の二択に分けられるとし、女性ドライバーを自身が採用することに対する懸念を示す。
本作が発表されたのは2013年だが、現在の視点からすれば、いささか女性差別ともとらえかねられない態度である。また、作中ではドライバーとして雇用される若い無口な女性・渡利みさきの外見について「ちょっとぶすい」とも語られるように、ルッキズムの観点から見た違和感も頭に浮かんでくる。
もちろん、小説内の人物の心情や会話にまでポリティカル・コレクトネスを求めることにはやや無理があるだろうが、上記の描写に限らず、女性の容姿についての言及は『女のいない男たち』のあちこちで確認できる。たとえば「シェエラザード」では主人公が肌を重ねる女性シェエラザード(なお、これは主人公がつけたあだ名であり、本名はわからない)について、「髪型も服装も化粧も、さして感心できる代物ではない」などと語られている。こうした上から目線とも形容できる容姿への批評は、同じ土俵で相手を理解することを拒否する、もしくは表面的にしか相手を見ない独善的な視線と言いえるものだろう。『女のいない男たち』に限らず、村上作品にはよく見られる傾向ではあるものの、こうした点に「へだたり」の萌芽を確認することができる。
なお付言すれば、村上自身がそうした男性からの視点を必ずしも首肯していないことも、作品からは読み取れる。小説「ドライブ・マイ・カー」は大ざっぱに言えば、家福が投げかける、なぜ自身の妻が自分ではない男と寝たのかという問いに対して、運転の過程で次第に家福に打ち解けるようになったみさきが、ある「答え」を提示するという物語の流れになっている。それは図らずも、単なる質問への回答ではなく、人間の普遍的な姿を言い当てたような提言となっており、家福はその「答え」に救いを得たように感じる。こうした構図は本作のみならず、多くの村上作品に共通するものではあるが、つまり一目では男性が選ぶ側に=優位な立場に立っているように見えて、実は女性の方が一枚上手な立場にあるという構図こそが、小説「ドライブ・マイ・カー」のひとつの骨子であろう。
高槻の設定の変化
『ドライブ・マイ・カー』は前半の1時間ほどは家福と音の日常生活が描かれ、その中でふたりの仕事の流れや、かつて夫婦が幼い娘を亡くしたこと、また家福の留守中に、音が別な男と体を重ねていたことが明らかになる。映画の後半では音の死から2年が経過しており、地方の演劇祭から『ワーニャ伯父さん』の演出を依頼された家福は広島に向かう。そしてリハーサルで出会う俳優が、やがて映画に劇的な展開をもたらす高槻耕史(岡田将生)である。彼はほかでもなく、かつて音が肉体関係を持った男のひとりであった。そして映画では、高槻の描写からも「へだたり」が強調されることとなる。
高槻について、原作と映画で異なった点としては、年齢の違いがまず挙げられる。原作における高槻は家福と同世代の――中年の男性とされているものの、映画における高槻は、家福の息子と言ってもいいくらいの年齢に改変されている(俳優の年齢を参照すると、高槻を演じる岡田将生は、西島の18歳下である)。また、年齢の変更に伴う面もあるだろうが、映画での両者は演出家と俳優として交わることによって、そこには指導する側/される側というはっきりとした境界線が引かれることとなる。原作においては、両者の関係には「気の合う酒飲み仲間」と形容されるように、ある種の対等性が担保されていることが示されるが、映画における両者の関係は、対等性とはいささか縁遠いもののように感じられる。
これが映画の家福と、高槻のあいだに見る第一の「へだたり」である。これはやや表面的な次元での指摘ではあるものの、より高度な――すなわち、家福と高槻の心理的なへだたりは、中盤になってより顕在化することとなる。
家福はリハーサルの過程で、高槻と音への感情を含めた私的な話も交わすようになるが、そうした中で「相手のことを知る方法はセックスだけではない」と高槻に助言する。しかし、そもそも家福自身の音への理解は、その多くがセックスに依拠したものだ。それは「脚本家としての音」を家福が見い出したことに起因する。前述のように、セックスの過程で音は家福に謎めいた物語を語るが、それらは彼女がトランス状態の――いわば茫然自失となった状態のもとでつむがれるものであり、彼女が意識を取り戻した際にはその記憶は失われている。家福は音の代わりに彼女の口から出る言葉を記憶し、妻に語り聞かせ、音はその物語を文字にすることによって、脚本家としての地位を確立する。つまり、家福は音がつむぐ物語の、最初の観客の地位を占めるのみならず、音のプロデューサー的な役割も担っていたのであり、それらは音とのセックスによってはじめて得られた地位であった。すなわち家福は、セックスによってはじめて到達できる「特権性」を享受していたと言えるだろう。
そして、家福の特権性が崩されるのが、中盤の車中において、家福と高槻が語り合うシーンである。そこでの高槻は自身が冒頭で音から得た、「やつめうなぎ」のもうひとつのエピソードを家福に語る。それは家福も知りえなかったものであり、つまりここでは、前述のような家福の、音のすべてを掌握していたかのような特権的な地位ははかなくも崩れてしまう。また、家福に謎――なぜ夫への深い愛情を示しながらも、何人もの男と体を重ねたのか――を残して死んだ音の心情の不可思議な感触も、より補強されることとなるのだ。
同時に、高槻の見え方は、このシーンで大きく変化する。これまでは比較的軽薄な、感情のコントロールが苦手な青年として描かれていた高槻であったが、ここで音の知られざる物語を語る彼の表情には、しだいに一筋縄ではいかない陰鬱な影が増していき、リハーサルの過程やバーで酒を交わすひとときでは見られなかった、彼の新しい像が生起することとなる(*)。じっさい、家福を演じた西島自身も「(ここでは)これまでとは違った高槻像が見えた」とインタビューで語っている(『キネマ旬報』2021年8月上旬号。なお聞き手は伊藤元晴氏、山下研氏とともに筆者が務めている)。こうした変貌は高槻との関係性の変化を示す一方で、「君は社会人としては失格だが、役者としては必ずしもそうではない」と高槻に語った家福自身が、じっさいは高槻という人間をつかみ損ねていたことのひとつの証左ともなっているだろう。