村山実は阪神の大エースだった。
プロ野球史上に残る長島とのライバル対決など、気迫のピッチャー人生を記録した、引退記念レコード
背番号11番は永久欠番
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。廃盤アナログレコードの「その他」ジャンルからドキュメンタリーを掘り起こす「DIG!聴くメンタリー」。久々に連載を再開させていただきます。
イベントのほうはなんとか続けているが、連載はおととし、2020年夏の『小津安二郎の世界』(1972・ビクター)以来だ。
中断していた理由は、主に本業のためです。2019年の晩秋から入ったレギュラー仕事が、毎度けっこう準備が必要で、なかなか聴くメンタリーに時間を割けなかった。
今年(2022年)からそのレギュラーが週2から週イチになるので、この2年余に比べれば余裕が出る予定。なるたけコンスタントなペースに戻していきたい。
(まるで待ってくれていた読者がいる前提なのは、どうぞ、愛嬌ということで……)
さて、再開記念の盤はどれにするか。
今年の干支は寅年なので、年明けに縁起もののつもりで、末聴の山からトラ=阪神タイガース関係の2枚を引っ張り出して聴いた。
『阪神タイガース 歌の球宴』(1981・ミノルフォン)は、岡田、真弓、若菜ら当時新進の選手による歌もの。あいにく聴くメンタリーではなかった。
さすがはプロ野球選手、試合後の遊びも本格的というか、みなさん、さすがの歌唱力だ。ただ、平均以上の歌声がずっと続くのも、それはそれで味気ない。〈野球盤DJ〉として知る人ぞ知るブーマー先輩ならば、きっと僕には分からない面白さを発見しているだろうけど。
このアルバムは、演歌・歌謡曲のカバーだけでなく、遠藤実や杉本真人、弦哲也らがオリジナル曲を各選手に提供している贅沢さが特長。
阪神ファン以外にも割と?知られている岡田彰布と岡田真弓(阪神のマスコットガール)のデュエット曲「逢えば涙になるけれど」は、このアルバムが初収録。それからシングルカットされたのだった。
この年、阪神はシーズン成績3位で、5年ぶりにAクラス入りを果たした。その余勢でこんな企画盤を作れる。つくづく人気球団だなあ。
その人気球団を代表するエースで、二代目ミスター・タイガースと呼ばれたのが、村山実。今回は村山の引退記念レコード、『栄光の11番 村山実』(1973・東芝)を取り上げます。
日下武史による、オープニングのナレーション。
「投手、村山実。この人は常にエースであった。昭和34年、プロ入り。以来14年、スタンドはいつも村山の力投を期待し、村山もまたその期待に応えて、決してファンを裏切ることはしなかった」
「逃げのピッチングを嫌い、必ず真っ向から投げ込んでいく潔さのなかに、勝負に生きる男の哀しさすら漂わせる村山。勝って喜びを隠さず、負けて悪びれない、人間そのものの村山。そんな村山に、スタンドは満足する」
いい調子。構成・脚色でクレジットされているのは北英祥。インターネットだけではほとんど情報の見つからない人だが、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の名物番組『人に歴史あり』に参加していたのは分かった。この手の構成ものを安心して任せられる、力のある台本作家だったのは間違いない。
防御率0.98はいまだに戦後最高記録
とはいえ、村山実をもう知らない方も多いと思うし、僕もスポーツはなべて半可通でしかもG党びいきとくるので、まず、『プロ野球人名事典1995』森岡浩編著(1995・日外アソシエーツ)の記述をベースにプロフィールを整理しておく。
・1936年、神戸市北区生まれ、兵庫県尼崎市出身。
・中学で野球を始め、住友工業高校で内野手からピッチャーに転向。
・関西大学では2年でエースになり、4年の時、関西六大学リーグ(現・関西学生野球)で春夏連覇。
・1959年、大阪タイガースに入団(球団名が阪神タイガースになるのは1961年から)。
・1年目の1959年から活躍し、18勝10敗、防御率1.19で防御率1位。
・1962年には、25勝14敗、防御率1.20でMVP。
・1964年から3年連続で20勝を記録し、65~66年は2年連続で最多勝。
・1967年からは血行障害に悩まされるが、監督兼任となった1970年に14勝3敗、防御率0.98で戦後最高の防御率を記録。
・1972年、開幕8試合で監督を辞任して投手に専念するが、血行障害の悪化のため引退。
・通算222勝147敗、2271奪三振。沢村賞3回受賞は歴代最多タイ。
ほんとにナレーションの通りなエースっぷり。
プロ野球ファンにとっては常識に近いと思うが、ピッチャーの能力の評価は、勝利数よりも防御率のほうが大事になる。よく打たれて何点も取られたとしても、味方チームがそれ以上にガンガン打ってくれたら勝利投手になれるからだ。
しかし防御率の計算方法では、1点台の場合は9イニングあたりの自責点が2点未満を示すことになるので、如実にピッチャーの凄さが分かる。今はもっと細かく計算された評価方法が出ているが、防御率が基本になるのは変わりないだろう。
NPB(日本野球機構)のデータから、最近のスーパーピッチャーのシーズン防御率を挙げてみよう。
2013年、まさに神の子野球の子、鬼神のごときだった楽天・田中将大の防御率が1.273。
昨年(2021年)、DAZNなどで中継を見ていると観戦と言うよりほとんど芸術鑑賞会だったオリックス・山本由伸の防御率が1.394。
一方、1970年に村山が達成した戦後最高の防御率は0.98。
ウソでしょ……。村山実のとんでもなさよ。
しかし村山実が顕彰される時に、こういった数字が優先して強調されることは、ほとんどない。
まず語られるのは長島茂雄との、〈天覧試合〉などのライバル伝説だ。(今は「長嶋」だが、現役時代の話の時は「長島」にします)
本盤の最後に収録されている引退発表後のインタビューでも、現役時代の一番の思い出は長島選手との勝負だったと本人は明言している。
1959年6月25日、後楽園での巨人・阪神戦を、天皇皇后両陛下が初めて観戦した。戦前は学生野球よりも人気がなく、娯楽としては一段低く見られていた職業野球は戦後になって隆盛を迎え、両陛下が初めてスタジアム観戦に訪れるまでになった。プロ野球が戦後日本を代表するプロスポーツとなったことが事実上示された、一つのピークといえる日だ。
その、晴れの〈天覧試合〉で村山は、長島からサヨナラホームランを打たれた。
プロ入り2年目の長島はこのホームランで国民的スターになり、打たれたルーキー・村山には悲運のエースというイメージが定着した。
しかし、村山はその雪辱を果たすように数年後、通算1500奪三振と通算2000奪三振はどちらも長島から奪ってみせた。
▼Page2 「大将だったもんですから」負けん気一杯のヒストリー に続く