【連載】ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー 第34回 『栄光の11番 村山実』

「大将だったもんですから」負けん気一杯のヒストリー

プロ野球ものの聴くメンタリーは大体、重要な試合の実況、本人のインタビュー、ヒストリーを語るナレーションで構成されている。
本盤もそうなのだが、特色は、あくまで長島との勝負を軸にしていることだ。そんな構成にしていけば、自ずと村山の選手生活のハイライトが充分に語られ、村山の選手としてのプライド、人間味が表現されているようになっている。

【A面の主な内容】
○1966年6月8日・対巨人戦の実況。打席は長嶋。フォークで三振にとり、2000奪三振達成。
○インタビュー、ファンの声。
○1972年、引退。背番号11は永久欠番となる。
○本人インタビュー。引退については「やれやれいう感じですかね。まあ、それに尽きるんじゃないですか」。現役時代は練習をとにかくやった。それが全てだと。
○生い立ち紹介。幼い頃から気性が強かった。集団疎開先でも「大将だったもんですから」、地元のガキ大将に噛みついていた。
○終戦直後に野球に出会う。住友工野球部の藤田監督のインタビュー。手の大きさに注目してピッチャーに転向させた。得意球となるフォークボールも高校時代に修得。
○思い出深い試合は、高校最後の兵庫県予選の二回戦。前夜、40度以上の高熱が出るも登板し、完封した。
○関西大学でも活躍。ほぼ全球団に望まれたなかからタイガース入団を決めたのは、スカウトが関大OBで、肩を痛めた時も親身にしてくれたのを恩義に感じて。
○ここで時間は飛び、通算200勝を達成した1970年7月7日・対大洋戦の実況。試合後のインタビューで、初勝利を挙げた時の感慨を語る。
○村山のデビューを見たチームの先輩・小山正明(この人も通算320勝の大投手)の証言。
村山は注目の新人だったものの、キャンプ中は気に留めるほどの印象はなかった。ところがペナントレースが始まり、相手チームと向き合うと、別人のように持っているものを剥き出しにした。
○1959年6月25日・対巨人戦、〈天覧試合〉の実況。

【B面の主な内容】
○1962年、阪神優勝。この年25勝を挙げてMVP。この年27勝の小山との争いになった。
秋の日米親善野球で、デトロイト・タイガースを相手に8回までパーフェクト。
○1971年、ある電気メーカーが車のスピードを測定するメーターを開発し、阪神投手陣でテストした逸話。 江夏豊のボールは時速127キロ。村山は時速128キロだったという。
○1963年8月11日・対巨人戦の実況。ボールの判定が不服で球審に食ってかかった際、球審を殴ったとして退場を宣告され、悔し泣きしながらマウンドを去る。〈涙の退場事件〉。
○ピッチャーは繊細で孤独である、という述懐。
○右手にかすかな痺れが初めて出たのは1962年。腱鞘炎。その後、血行障害になり、引退まで苦しむ。大阪厚生年金病院の主治医の証言。
○1966年6月8日・対巨人戦の実況。通算1500奪三振を長島から奪い、1501個も王から。
長島の証言インタビュー。
○1970年、投手兼任で監督。シーズン2位。
○1972年10月7日・対巨人戦の実況。半ば最後の登板を意識して臨み、長島と王に連続ホームランを打たれて優勝(V8)を決められる。「何かそれでサバサバした、何もかもが全部清算できたと思いましたね」と引退を決める。
○妻、息子の証言。村山によると、引退すると告げた途端に奥さんはしばらく寝込んだ。それまで気を張っていた疲れがドッと出てしまったという。家内は僕以上に耐え、苦労してくれていたと感謝の思いを話す。
○引退発表後のインタビュー。

「陛下の前で野球できる、いうこと」

実は、本盤はレコード屋で見つけて迷いなく買ったものの、すぐに、積極的に聴いてみる気にはなれなかった。
僕の世代はもう、村山実の現役時代を知らない。
村山といえばタイガースが凄く弱かった1988年から89年、〈ダメ虎〉時代の監督の印象のほうが強いし、〈天覧試合〉のホームランは「ファールだった」と何度も主張しているのが、なんだか潔くない、スカッとしないものを感じさせてイヤだった。
はっきり言えば、プロ野球のレジェンドのなかでも、村山は人気がない部類だった。

ところが。
本盤のなかで〈天覧試合〉の思い出を語る村山は、後年の印象とはまるで別人だったのだ。

当日、昭和34年6月25日。村山がマウンドにあがったのは9回裏、4対4の同点の場面だった。

「投げたくてウズウズしてました。というのは、やっぱり、陛下の前でね、初めて野球するんでしょ。それがたまたまピンチになってお前投げいということで。投げたんですけどね。非常にもう……打たれたいう感じがせん……しなかったです! ものすごう嬉しかったです。陛下の前で野球できる、いうことが嬉しかった、ということです。もう、それだけだったですね」「あの時だけやなかったかなあ、(打たれて負けても)下向いて帰らんかったんは。あの時はグッと胸張って……。実にいいゲームだったです」

村山はサヨナラで決着がついた直後から、打球はポールをギリギリ切れていた、ファールではないかと口に出していた。複数のナインの証言が残っている。
なので、引退後まもない時期のインタビューでここまで潔く、打たれて悔いなしと言い切っているのは驚く。
村山実=「あれはファール」としつこく主張する男、のイメージとこんなに違うのはどういうことか。

村山の潔さ、骨っぽさは、〈涙の退場事件〉を振り返る時にもよく出ている。

(球審の)国友さんに一つも僕は触れなかったんですけどね、手ェは。まあ……あくる日、電話したですよ。えらいスイマセンでしたいうことで」

村山は、自分は球審には手を出さなかったと主張している。しかし翌日、その球審である国友正一に電話をして謝ったという。

どうも、殴らなかったのは本当らしいのだ。
昭和のプロ野球関係の本を何冊か棚から出し、〈涙の退場事件〉について書いてあるものを探していたら、青田昇が回顧録『サムライ達のプロ野球』(1996・文春文庫)で、当事者としての証言をしていた。
青田は長島入団前の巨人のスターで、当時は阪神のコーチ。村山が球審に抗議している時、ベンチからグラウンドに駆け付けていた。
「実は、この時、国友球審に手を出したのはこの僕なのだ。にも関わらず逆上した国友さんは村山に退場を宣してゆずらない。いまでも村山には気の毒なことをしたと思っている」

青田さんは晩年の解説者時代も、遠慮のないコメントと古巣の巨人びいきを隠さない率直さで愛されていた。そんな青田さんが言うんだから、信憑性は高いと思われる。

殴ってはいない。しかし、激しく判定に抗議した自体は謝罪する。村山の、筋の通し方が窺える。
さらに本盤では、こんな打ち明け話もしている。

「今だからしゃべるんですけどね、どうしても士気があがらん時があるんです。チームの状態が悪い時。そういう時に思い切って強く……」

直情型のようで、投げながらチーム全体を見ていて、計算ずくで涙の抗議をしてみせる。
そして、天覧試合では、サヨナラホームランを打たれたことよりも、天皇陛下の前で野球ができた喜びのほうが上回ったと語り、恩寵煙草をいただいた話も楽しそうにしている。
再び、さっきの疑問に戻る。後年の、あの、「あれはファールだった」と主張し続けた執着との落差は、どう捉えればよいのか。

▼Page3 教育勅語を読んだ世代にとっての天覧試合 に続く