作品を見終えた後に、今まさに一本の「映画」を観たという感覚を覚える作品である。また、ドキュメンタリー映画の中に久し振りに一人の「女優」を観たという感覚を覚える作品でもある。渋谷で出会った一人の少女の過去と現在の物語。かつて歌手になることを目指して東京に上京し、渋谷の路上で歌っていた彼女は、統合失調症を発症して帰郷を余儀なくされ、今は故郷の佐賀で母親と暮らしている。
何の変哲もない地方都市の殺風景な街路をキャメラは静かにゆっくりと前へ進んで行く。その後の物語の展開を暗示するかのような冒頭のショットに続いて、キャメラが映し出すのは今から10年以上前の2001年の渋谷である。米国で同時多発テロ事件が発生した直後の渋谷は、今と変わらず、ファッションや音楽など最先端の流行を求めて多くの若者たちが集まる憧れの街であった。その一方で、将来の不安や焦燥感を抱える若者たちが自分たちの居場所を求めてさまよう空虚な街でもあった。
当時、映画学校の学生だった監督の島田隆一は、そのような若者たちの姿をキャメラに収めてドキュメンタリー映画にしようと、学校の仲間たちとともに渋谷の街にたむろする若者たちの取材を始める。そんな中、歌手になることを目指してヒッチハイクで東京に上京し、渋谷の路上で歌っていた吉村妃里という当時20歳の少女と出会う。島田隆一らは、無鉄砲でありながらも、繊細であり、理想と現実の狭間で揺れる彼女に惹かれ、約半年間、彼女に寄り添って撮影を行った。
彼女は路上で出会った若者たちと「寺子屋」というネットーワークを作り、彼女と同じように渋谷の街をさまよう友人たちと繋がっていた。普段は司会の仕事をしている若い女性、公園でジャンベを叩く二人組の男の子たち、逆目でエレキギターをかき鳴らす少女、監禁や猥褻行為をされた経験を語る少女などが、彼女を取り巻く寺子屋のメンバーだ。
ある日、彼女は偶然にもタレント事務所にスカウトされるが、理不尽な理由で直ぐに辞めさせられてしまう。ウィークリーマンションからも追い出され、住む場所を失った彼女は、一度会っただけの女性のアパートに転がり込むことになる。そして、夢の挫折や居候生活など、精神的に不安定な日々を送る中、彼女は統合失調症を発症して入院してしまう。故郷の佐賀に転院することになり、撮影も中断せざるを得なくなった。その後、島田隆一らは映画学校を卒業し、撮影したテープは放置されたままとなっていた。
一見、この作品は、映画学校の学生の頃に撮影をした取り留めのない映像が淡々と続くかのように思われる。しかし、それから10年後、中断したままの過去に決着をつけるために、そして完成されるはずだった一本の映画を完成させるために、島田隆一が吉村妃里に再び会うことを決意し、彼女が暮らす佐賀へと向かったことにより、物語は急展開を遂げることになる。
見覚えがある殺風景な街の片隅にある一棟の作業所。画面の外からは踏切の音が聞こえてくる。キャメラはその作業所の内部を捉え、ゆっくりと横に移動して行く。作業用のテーブルを挟んで衣服を折畳み袋詰めの作業をしている人達を、一人、また一人と映し出して行く。そして、キャメラが手前にある柱を通り過ぎたとき、私たちは見覚えのある一人の女性の顔を目撃することになるであろう。キャメラは、真正面の引いた位置からテーブル越しにその顔を捉え、それから横顔のクローズアップ、そして衣服を丁寧に折畳み袋に詰める彼女の手を映し出す。
その顔は帽子と白いマスクに隠され、その目は帽子のツバで微かに隠されているが、そこにいる女性が紛れもなく彼女であるということは誰の目にも明らかである。なかなか画面に現れない10年後の彼女の姿、綺麗に化粧されながらも帽子とマスクに隠された彼女の顔が、この映画のサスペンスとなっている。
息を呑むようなこの三つのショットの連鎖は、この作品の中でもとりわけ印象深いシーンを作り上げている。それは、映画学校の習作に過ぎなかった作品が、一本の「映画」へと立ち上がる瞬間であり、被写体である彼女が一人の少女から一人の「女優」へと変容する瞬間でもあるからである。ローポジションから捉えた作業所の廊下の無人ショットや、薄暗い屋内から光が差し込む戸口を捉えたショットなど、キャメラの的確な位置や画作りも鮮やかである。
キャメラは、彼女が働いている作業所から母親と暮らす彼女の自宅へと移動する。母親は洗濯物を干し、彼女はお風呂の掃除をして、ともに夕食の準備をし、こたつを囲んで二人で慎ましく鍋料理を食べる。その生活感の描き方、物音の捉え方などは、ほとんど劇映画と言っても遜色がないほどの出来映えである。その日常生活の様子から、彼女は帰郷後も入退院を繰り返し、自立支援の作業所に通所していることが伺える。現在も通院を続け、薬を飲み続けている。しかし、かつて渋谷の街で自分の居場所を求めてさまよっていた彼女は、故郷の佐賀で母親という居場所を見つけたのであり、それは「ともにいること」の可能性と希望を示唆するものでもある。
インターネットや携帯などの通信技術がいくら発達しようとも、乗り越えられない距離は存在する。「ともにいること」ということは、決して代替することができないものなのだ。この作品の後半では、見る主体と見られる客体という男女のジェンダー的不均衡を消滅させてしまうような親密性が感じられる。それは「寄り添う」から「ともにいること」への変容とも言えるであろう。そして、被写体と同じ時間や同じ場所を共有して映画を撮るということが今なお必要とされる理由の一つもここにあると思われる。
夜の街中で、渋谷にいた頃の過去を回想して、彼女が涙を流すシーンがある。しかし、その涙を流す顔は偶然にも暗闇に隠されている。むろん、涙を流す彼女の顔にキャメラはクローズアップすることも、ライトを当てるようなこともすることはない。また、一度だけ、彼女が自宅の居間で鏡に向かって化粧をする場面がある。帽子とマスクに隠された顔、暗闇に隠された涙を流す顔、綺麗に化粧された顔、それらの顔は、渋谷にいた頃の素顔とは対照的であり、彼女の現在の境遇や心情を象徴するものにほかならない。この作品の主題は、紛れもなく彼女の顔なのだ。
ある日の朝、迎えにきた作業所のワゴン車に乗り込み、彼女が車のドアを閉め、そして彼女を送り出す母親が家の扉を閉めるところでこの作品は終わる。溝口健二の『赤線地帯』やペドロ・コスタの『骨』など、ある困難を抱えた若い女性をテーマにした作品には、「扉を閉める」というところで終わる作品の系譜があることを想起するであろう。私たちは、統合失調症という病を共有することはできない。おそらく、彼女の今後の運命も共有することはできないであろう。この映画を観るものは、閉じられた扉の向こうの世界に入って行くことはできないのである。
しかしそのことは、些かもこの作品の欠点とはならない。むしろ、病に苦しんでいるものの、自由と幸福を求めて逞しく生きる一人の女性の過去と現在、挫折や希望、困難や心情を鮮やかに描いたこの青春映画に私たちは心を打たれるほかはない。
【作品情報】
『ドコニモイケナイ』
(2011年/日本/86分/カラー/デジタル/4:3/モノラル)
監督:島田隆一
渋谷篇撮影:朝妻雅裕、島田隆一、城阪雄一郎
佐賀篇撮影:山内大堂
編集:辻井潔 構成:大澤一生、島田隆一、辻井潔
制作協力:安岡卓治
音楽:AMADORI、モリヒデオミ サウンドデザイン:田邊茂男
製作:JyaJya Films 宣伝:酒井慧 宣伝協力:ノンデライコ
配給:JyaJya Films
公式サイト:http://dokonimoikenai.com/
予告編:http://www.youtube.com/watch?v=Qbc0WFlIeDo
【上映情報】
11月24日(土)より渋谷ユーロスペースにてレイトショー公開
(連日21時10分〜)
劇場サイト:http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=428
【執筆者プロフィール】
吉田孝行(よしだ・たかゆき)
1972年北海道生まれ。一橋大学大学院修了。民間企業に勤務する傍ら、映画美学校でドキュメンタリー映画の制作を学ぶ。『まなざしの旅―土本典昭と大津幸四郎』(代島治彦監督)などの制作に携わる。2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、ヤマガタ映画批評ワークショップに参加した。