【特集】20年目の『阿賀に生きる』(佐藤真監督)

故・佐藤真監督のデビュー作『阿賀に生きる』(1992)が、ニュープリントで公開される。この『阿賀に生きる』は、日本のドキュメンタリー史を語る上で“マストアイテム”と言って良い。映画のデジタル化が急速に進む中、あえて16mmを起こした関係者の英断に頭が下がる一方で、『neoneo web』ではじめてドキュメンタリー映画に触れるような読者にこの作品をどのような温度で伝えたらよいのかは、少し考えた。

観るものがいる限り、映画自体は“作品”として後世に伝えていく事はできる。しかし1990年代から2000年代の日本のドキュメンタリー映画シーンに関わった人間として、佐藤真監督の作品は、その話す口調や、鋭い目線や、著作の文章ひとつひとつと切り離して考えるのが難しい。それぐらい大きな存在であったし、2007年に急逝した衝撃は、未だに私の中に残っている。

結果的に、いただいた4本の原稿からは、それぞれの距離感で『阿賀に生きる』と佐藤真監督に対する思いの熱さが伝わってくる。『阿賀に生きる』は、いまだ多くの人の心の中に灯り続けているのだ。ならばその「温度」を、そのまま伝えることにしよう。ご寄稿いただいた皆様、そして小林茂監督に心から感謝します。
(neoneo編集室・佐藤寛朗)

※なお、現在発売中の『キネマ旬報』12月上旬号に、本誌編集主幹・萩野亮による、小林茂さん[撮影]インタビュー「16ミリニュープリント公開記念インタビュー よみがえる「阿賀に生きる」」が掲載されています。こちらもぜひご一読を。

『阿賀に生きる』

 『阿賀に生きる』〜私たちが抱えていく「シリアスさ」との付き合い方   
川上拓也

「ドキュメンタリー?あんまりシリアスなのは見ないな。疲れるし。映画でもやってるんだ?」

私が、実際に知人や友人達に言われた事のある言葉だ。
その都度「まあ、そうだよね。」と曖昧に答える。少しだけ悲しげな素振りで。

「ドキュメンタリー映画」を劇場で観るという行為は、私たち若い世代にとっては未だに非常にマイナーなものだ。昨年、この国を襲った東日本大震災以前から、そして以降は更にも増して、私たちが日々過ごすこの「生活そのもの」が、様々なシリアスな状況で覆われている。そのような状況の中、ドキュメンタリー映画もまた、社会問題や悲劇や不条理を、または、ある人生の切実さを抱える私自身などを描く「シリアス」な作品が多い。

土本典昭監督、小川紳介監督を筆頭に、政治の季節であった60年代後半から、いわゆる「シリアスな社会派」としての立場で多くの作品が製作されてきた。アクティビズムやジャーナリズムといった世界と非常に近い表現としてのドキュメンタリーが、その主流を担ってきた。現在でもその状況は大きく変らないように思う。いや、むしろ原発事故以来、その立場はより強力な説得性を持って、また、ある特定の社会問題に多くの人たちの関心が向く状況下において「動員が見込める」という商業性の意味においても、その力を強めてきている。シリアスな状況下に直結した、シリアスな作品群。

私たちは、日常を覆うこのシリアスさと、どう付き合っていけばいいのだろう。
ドキュメンタリーという表現は、この現状にどんな眼差しを向ける事が出来るのだろう。
やはりシリアスな面持ちで、真正面から不正や腐敗を追求しようか。デモに参加してみようか。革命を夢想しようか。それとも…
 
そんな中、佐藤真監督の「阿賀に生きる」が1992年の公開から20年の時を経て、16mmニュープリントで再公開される。DVDで何度も観たこの作品のニュープリントを観て、新たな発見が幾つもあった。同時に、この映画が持つある種の「軽さ」に感じ入った。
「新潟水俣病」という非常にシリアスなテーマを扱っているにも関わらず、この映画の持つ「多幸感」は何だろう。新潟で暮らした事もない私が感じる「懐かしさ」は何だろう。東京で、自動車が行き交う道を歩きながら感じる「身につまされる想い」はどこから来るのだろう。

映画に登場する3組の老夫婦の表情の「素直さ」にハッとさせられる。
グッと心の奥にしまってある哀しさ、誇りを持つ仕事へ取り組む厳しく真剣な目、少年のように得意げな頬、喜びがこちらの心にまで伝染する微笑み。
私は都市の生活の中で、他人への無関心を装う。視線と視線のぶつかり合いを避ける。普段どれだけ自分の喜怒哀楽の表情が抑圧されているのかに気付く。

撮影:村井勇

各シーンの素朴な雰囲気に騙されちゃいけない。
あらゆる現実の時空間が切り貼りされて、「映画」の時空間がフィクショナルに再構成されている。同じシーンでも、実は出演者の着ている服が違っており、別の日の撮影である事に気付かされたり、実際には撮影現場で鳴っていなかったであろう音が聞こえてきたり。ドキュメンタリー映画という表現が、いかに「真実性を帯びた虚構」に基づくものであるのかを再確認させられる。その構成という名の虚構が、この映画に出てくる人たちの「日常」という真実性に接近していく。その近づき方に、言葉では形容しがたいが、「真剣な軽さ」のようなものが感じられる。

登場人物の多くが、新潟水俣病の未認定患者であるという事。それは、非常に「シリアス」な事実だ。が、佐藤真監督や小林茂キャメラマン、そして「阿賀の家」に住み込んだスタッフ達全員が捉えたのは、「患者」さん達の生活の「シリアスさ」だったか。いや、傍から見ればシリアスな状況に置かれた方達の日常は、それでも笑いに溢れ、ユーモアに溢れ、歌と共に、仲間と共に、川と共に、生きる喜びに溢れている。どんなにシリアスな状況下においても、人間は、生きてきたし、生きているし、生きていくのだ。

スクリーンに投影された映像と、スピーカーから発せられる音から、その当たり前の日常を受け取った時に、私の感情は、「軽さ」を伴った多幸感に包まれる。

人間の生活、社会を疑うことは容易い。でもその前に、人間の生を感じるということは、実は現在の私たちにとって、今まで以上に大切な事なのではないだろうか。

私たちと、またその更に次の世代が抱えていくだろう現実の「シリアスさ」。原発事故は収束せず、政治やマスメディアは腐敗しきっており、あらゆる場所では紛争が頻発し続けている。シリアスな社会問題の例を挙げればきりがない。その「シリアスな状況」との付き合い方のヒントが、この映画が捉えた豊かな「日常」には満載だ。

20年前の映画ではなく、いつまでも最新で、普遍的な、そして声を出して笑って観られるドキュメンタリー映画、それが「阿賀に生きる」だ。

 

私は、佐藤真さんから直接に教えを受けた事もなければ、20年以上に渡ってこの映画を支えてこられた多くの方達と面識がある訳でもない。でも、どうしてもこの映画を多くの人に観て欲しい。特に私と同世代の、もしくはもっと若い方達に。普段、ドキュメンタリー映画は観ない私の友人のような方達に。私たちが生まれた時からすでに用意されており、当たり前に享受してきた、近代化が完全に完了した生活を、一緒に改めて問い直してみたい。

私たちが享受し維持してきた「豊かな文明」は、自然の中の暮らしと比べて本当に「豊か」なのか?

遡上する鮭の母性愛を感じた事が、仕事道具へののっぴきならぬ愛情を感じた事が、つきたての餅の熱さを感じた事があるか?

眉間にシワを寄せ、肩肘張って、シリアスな面持ちでこの文章を書いてしまった。
餅屋の加藤のじいちゃんが、飲み会の後に見せる無防備さにはまだまだ敵わない。

 私たちの顔の筋肉は、ひょっとして、阿賀のじいちゃんばあちゃん達より衰えていないだろうか?

川上 拓也(かわかみ・たくや)
1984年生まれ。北海道旭川市出身。エンジニアを脱サラ後、2010年度映画美学校ドキュメンタリーコース初等科を受講。卒業制作として「MAKING of MANGA」を構成・編集。NHKドキュメンタリー番組の編集助手を経て、現在は小林茂監督の新作「風の波紋」に録音スタッフとして参加。映画美学校の同期と「生きのこる言葉(仮)」を制作中。

 

『阿賀に生きる』

『阿賀に生きる』と佐藤真監督のこと 
桝谷秀一

1991年の夏、第1回目の「日本映画パノラマ館」の作品選定のさなか、コーディネーターの斎藤久雄と私は、阿賀の家を初めて訪れた。佐藤真、小林茂を中心とする『阿賀に生きる』の撮影スタッフ7人は、古い家を借りて、上山市牧野のまさに小川プロダクションのスタイルで映画を作り続けていた。資料はきちんと分類され、カメラなどの機材は古いながらも、手入れが行き届いていた。しかし、そこでごちそうになった食事は質素なものだった。当時の日本はバブルの末期で、狂乱の物価と好景気で賑わっていた時代である。その中で、若者7人が極貧の生活をしながら映画を作り続けていたことが、すでに奇跡のような感じがしたものだった。

そこで、深夜にかけて、約6時間ほどのラッシュをみせてもらったあと、斎藤久雄がラッシュのかたちでの上映を決めた。完成もしていない映画を上映するという、暴挙とも言えるそのことは、しかし、お互いの運命的な関係の始まりだったのだと思う。

ラッシュ上映を映画祭という公式の場で行ったことについては、当時から賛否があった。あれから20年も経つのだが、いまだに業界のある友人に会うと度々、あれはよいことではなかった、と言われるほどのことである。そこで、ラッシュ上映への経緯について、もう少し詳しく触れてみたいと思う。

斎藤久雄コーディネーターの「日本映画パノラマ館」のプログラムに関して、どうやってあの作品群を選んだかということを、後々彼と話したが、答えはシンプルだが、重みがあった。ひとつは、斎藤久雄にとってドキュメンタリー映画であること、それに、その作家が10年後にも映画を撮っているだろうと感じられるもの、この2点だという。たしかに、「日本映画パノラマ館」には劇映画あり、実験映画ありでバラエティーに富んではいたが、不思議と統一感があった。また、映画に関わり続ける志を、作家にも、選んだコーディネーター自身にも問うてゆくということであろう。

こうして行われたラッシュ上映後のミューズロビーでの、観客や他の監督たちとの深夜における議論も白熱したもので、まさに激戦の様相を呈した。その場にいた中には、柳澤寿男監督や鈴木志郎康さんの顔もあった。ある意味、屈辱的ともいえる批評を浴びた7人のスタッフの、その後の映画の再構築過程というのは、伝説化しているのではないだろうか。そして、YIDFF1993ではインターナショナル・コンペティション優秀賞を獲得した。これは、このラッシュ上映があったからこそ生まれたものだと、思っている。

話を戻すがYIDFF1991、『阿賀に生きる』の撮影スタッフは、ヤマガタが初めてではなかった。初回の1989年には、撮影中で、その間をぬって、馬見ケ崎川の橋の下にテントを張ってすごし、映画祭に通ってくれていたのだという。ご存知の通り、山形の10月の屋外は相当に寒い。今でもそのことを思い出すと、胸が熱くなる。そうまでしてこの映画祭に来てくれる観客がいるということに、ひたすらにありがたいと思わずにはいられない。

撮影:村井勇

この出会いのきっかけをつくってくれたのは、小川紳介監督であった。「日本映画パノラマ館」の作品を探しているというと、佐藤真という真面目な若者が、阿賀野川近くの場所で、新潟水俣病の映画を何年もかけて撮っていると、教えてくれたのだ。そして冒頭の阿賀の家の訪問につながっていく。

佐藤真さんは、その後、『阿賀に生きる』が1993年の本映画祭のインターナショナル・コンペティションで優秀賞を受賞したのをはじめ、多くのドキュメンタリー映画制作、著作にとりくまれた。その中でも、『ドキュメンタリー映画の地平』(上下巻、2001年、凱風社)を読んだ時は、ヤマガタがそれまでしてきたことへの、ある距離感を持った総括になっているな、と感じたものである。

1992年に、私たちは小川紳介監督を失った。その悲しみと痛みは数年の間続いた気がする。ただ、少しづつ少しづつ、その痛みは遠のき、この頃の映画祭の真っ最中には、小川監督がまさにそこにいるという気配を、実感として持てるようになった。2007年の映画祭が始まる直前に、佐藤真さんを失ったことの実感が、まだ私には無い。きっとこれからじわじわとその思いが迫ってくるのではないかと、おもう。しかし、いつかしばらくして、映画祭の賑わいの中で、佐藤真さんの、幸福な気配が感じられる時がくるのではないかと期待するのは、間違っているだろうか。佐藤真さん、見守ってください。

(この文章は、YIDFF2007『デイリー・ニュース』0号(佐藤真監督特別号)に書かれたものを、加筆・修正したものです)

 桝谷秀一(ますや・しゅういち)
1959年山形市生まれ。自主上映から市民映画館建設などに関わった後、小川紳介監督が提唱者のひとりである、山形国際ドキュメンタリー映画祭の1989年の初回起ち上げから市民ボランティアとして参加。2006年、同映画祭のNPO独立時に理事になる。映画祭期間中毎日発行されるデイリー・ニュースの編集を長くつとめる。

『阿賀に生きる』

『阿賀に生きる』再公開を祝して 
山本草介

「阿賀に生きるファン倶楽部」というものをご存知だろうか?
毎年ゴールデンウィークに映画が撮影された新潟、阿賀野川のほとりで「阿賀に生きる」上映会を楽しむ集まりのことである。僕自身、佐藤さんの助監督をしていた頃に、一度だけ監督からこんな上映会をやってるんだと誘われたことあるが、どうしてわざわざ新潟まで足を運んで映画を見なければならないのか理解できず、行かなかった。いま思えば佐藤さんなりの助監督へのメッセージであったのだと、悔いても悔いきれない。

そんな僕がはじめてその会に参加したのは、2008年のこと。佐藤さんが亡くなり、追悼会をやるので、助監督経験者として一言話してくれと、映画の仕掛人であり、ファン倶楽部の主宰を務める旗野秀人さんから連絡があったのだ。

東京から5時間。そこには驚くべき世界が待っていた。完成から二十年近くが経っているのにもかかわらず、地元の人はもちろんのこと、全国から二百名近くのファンが集まり、何回見たかもわからない「阿賀に生きる」の上映で大爆笑が起きる。しかしまあ、ここまではなんとか想像できる範囲だったが、上映後に始まった宴会が半端ではなかった。二百名が旅館を貸切、大広間に集合した。とにかくまずは自己紹介と宴がはじまったが、一人一人が、みな「阿賀に生きる」に対する熱い思いの丈を話すものだから、自己紹介だけであっという間に2時間が過ぎた。そして宴もたけなわになると、待ってました!とのかけ声とともに「阿賀に生きる芝居版」がはじまった。メインテーマの笛の音で幕が上がると、参加者が次々と登場人物を演じはじめた。みな完璧に“台詞”を覚え、抑揚までそっくりそのまま、映画がお芝居となって再現されていた。念のために註釈すると、「阿賀に生きる」は新潟水俣病の患者さんたちを撮影したドキュメンタリー映画であり、劇映画ではない。しかしながら、映画の中で現れるちょっとした“ため息”や、じいちゃんばあちゃんの丁々発止のやり取りの“間”まで、ほぼ完璧に捉まえていた。抱腹絶倒、一升瓶がビール瓶に見えるほど次々空になっていく。

僕はここまで人に愛されるドキュメンタリー映画を他に知らない。ましてや重い題材であるはずの新潟水俣病を扱った映画であるのに、どうして人はここまで笑い、踊り、歌うのだろう。佐藤さんは何という映画を作ってしまったのだと、驚きを通り越してため息が出た。

酔いが回ってくると関係者から次々と製作秘話が漏れてくる。「あの時の討論会は面白かったなあ」。聞けば、撮影も中頃、カメラマンの小林茂さんと佐藤さんが大喧嘩をし、現場の空気も停滞。これでは製作が進まないと、映画にカンパしてくれた支援者を集めて公開討論会をしたのだという。

佐藤さんは訴える。「僕がインタビューをしようとすると小林がカメラを止める。これでは撮影にならない!」それに対して小林さんは「あなたのインタビューで彼らの日常が壊れてしまうんだ!」佐藤さんは反論する。「インタビュー自体が目的ではなく、話し手がこちらの質問を離れ、問わず語りがはじまるための呼び水にインタビューをしているのに、小林はそれを理解しない!」小林さんは全く動じずに「俺たちの誘導でそんなものは撮れやしない!事実、撮れていないからカメラを止めてるんだ!」
大勢の支援者の前で、佐藤さんと小林さんの議論は白熱したという。

僕にとって佐藤真という監督は、天才だった。「SELF AND OTHERS」の恐ろしいまでの静謐さと、「阿賀に生きる」のユーモアを併せ持った作家性に憧れ、助監督を志願したのだ。現場に入れば、にこやかなイメージは一転し、ドタバタのダメ助監督を鬼の形相で叱咤しながら、50分くらいの中編なら一日で最初から最後まで編集し、夜は飲み屋で酒杯を傾けながら今日の編集をどう思った?とさりげなく聞いてくる怖い人だった。僕はその質問にどう答えるのかが最大の難関で、お酒なんてほとんど飲めなかった。そして日を置いて再び編集室に入ると、それもやっぱり一日で思いもよらぬ構成を作りあげる。佐藤さんはドキュメンタリー映画界屈指の論客でありながら、言葉の世界からいかに離れるか、助監督なんかには決して近寄ることのできない孤独な闘いを続けた巨匠。その巨匠が、映画作家としての力量のなさをあえて大勢の前でさらし、批判や励ましを一身に受けていた…。僕は三年ほど佐藤さんの側にいながら、時には自宅に住まわせてもらいながら、そんな姿を人に見せるとは露にも想像しなかった。

撮影:村井勇


佐藤さんがいつでも口酸っぱく話していた「映画の日常」。カメラという非日常の機械を介して、被写体の日常、さらには日常の奥に秘められた人間の魂をいかにして捉まえるか。単なるカメラマンと監督の関係には収まらない佐藤さんと小林さんの議論には、僕らのような二十年後の作り手にとっても、大事な問いがあると思う。
「それでどんな結論が出たんですか?」
「結論も何もないよ。ふたりとも言いたいことを吐き出して、なんだかすっきりしたみたいで、そのままみんなで宴会だよ」

この会の盛り上がりがなぜなのか、何となくわかってきた。
佐藤さんたちは毎日のように支援願いの手紙を綴り、その数はひと月千以上にも及んだという。時折届く振り込み用紙の金額に励まされながら、フィルムを購入し撮影を続ける一方、月に一度、支援者を集め製作委員会を開いた。そこでは、製作の混迷も、スタッフの内紛も、ラッシュフィルムもすべて公開した。山形国際ドキュメンタリー映画祭では編集途中のものを、一般の観客に公開して、矢のような批判を浴びた。被写体にラッシュを見せて、思わぬところで大笑いが起きたりして、そこに映画の肝があるのではと、撮影の方向も変えていった。被写体が自分の姿をフィルムの中に見て、もう少しこう話した方がいいんではとか、もう一度撮ろうとか、主体的に映画に関わってもらった。などなど、通常の(?)映画製作者にはびっくりするような逸話が、次々と参加者の口をついて出てくる。

『阿賀に生きる』は佐藤さんの処女作で、あの頃、佐藤さんは名もない青年だった。撮影の小林さんはスチール写真しか撮ったことがなく、動く映像が撮れただけで大喜びする不思議なカメラマンだった。録音の鈴木彰二さんは、針灸師の勉強をしただけの全くの素人ながら、鍼を持てるなら録音マイクも持てると、訳のわからない理由で佐藤さんが指名したのだという。全員映画を撮るのははじめての若者集団だから、支援者も被写体もずけずけと意見を言う。そうして撮る側も撮られる側も応援する外部の人間も、いつの間にか共犯者となり、そのすべてのまなざしに見つめられながら、できあがった映画なのだ。映画を見るのに、素人も玄人も何もない。だからこそここに参加する人たちは、“わたしたちの映画”として二十年の時を経てもこうして集い、僕のような製作に関係ないただのファンも多数巻き込みながら、映画を肴に飲めや歌えの大宴会を繰り広げるのだ。

映画の仕掛人である旗野秀人さんは、はじめて地元・阿賀で映画を上映した時のことをこう語る。「村の中でずっと水俣病の患者さんは日陰者だった。水俣病であることで後ろ指さされる人生をみな送ってきた。ところが映画の上映が終わり、出演者が舞台挨拶に立った時、大きな拍手が起きたんだ。水俣病患者でありながら、映画スターとして拍手を送られたんだ。あのときの感動は忘れられない。村の中で、患者さんを見る目が変わったんだ」

この映画がなぜ心を打つのか。なぜ奇跡的な瞬間に満ち満ちているのか。もちろん佐藤真という稀代の才能によるものが大きい。しかしながら阿賀野川に来て、我がことのように映画を語るファン倶楽部の面々と接すると、ひょっとしたら映画は徹底的に開かれた場所で生まれた時、監督本人にも与り知れぬ高みへ飛び立つことができるのではないかと信じたくなるのだ。

カメラとパソコンさえあれば、一人でも映画が作れてしまうこの時代。
佐藤さんが残した途方もない置き土産を、フィルム時代の遠い昔話ととるか、それともここに映画の新しい可能性を見いだすのか。
それは私たち自身だ。

山本草介(やまもと・そうすけ)
 1976年、東京都葛飾区生まれ。早稲田大学在学中から自主映画を撮りはじめ、
卒業後は東陽一、佐藤真などに助監督として師事。2002年、文化庁派遣芸術家在外研修員としてロンドンに留学した佐藤真の留守宅を一年間預かる。2006年に天草に住み着き撮影した劇映画『もんしぇん』で監督デビュー。現在第二作『ウサギ』を仕上げ中。

『阿賀に生きる』

境界線上の作家:佐藤真 
岡本和樹

映画監督:佐藤真がこの世を去って、すでに5年の歳月が流れた。彼の不在は、私にとってとても大きいものだった。それが何なのか考え続けている。

震災が起った。世界は答えの出せない問題で溢れている。反面、方々から聞こえてくる声は、明確な強い答えばかりだった。答えが得られなければ、安心できないからだろうか。だが、答えは一つではない。一つの答えを巡って、敵と味方に別れる。また別の答えを巡って、敵と味方に別れる。自分の答えを信じたいからか、敵の声に負けじと、声はますます大きくなる。その一方で、答えの出せない者は自然と声が小さなくなる。小さな声は大きな声に掻き消されてしまう。まるで存在さえしていないかのように。

かく言う私も、震災後、どうすればよいか判らず、言葉を失っていた時期がある。その時は本気で表現を辞めようと思っていた。こんな時に、確たる意志を持った発言も、そして行動もできない者は、表現者などと偉そうにうそぶくことはできないと思ったからだ。ただし、どれだけ不安に苛まれても、大きな声に呑み込まれてはいけないということだけは、強く自分に課していた。そして、ふと我に返り、周囲を見渡すと、答えを出せずに迷っている人はほとんど見当たらなかった。存在しないのか、それとも、発語さえできず沈黙しているのか。いずれにせよ、表面には見えない。私が表現者としてできることがあるとすれば、それは迷い続けることだけだ、本気で迷っているということを形にすることだけだと思えた。これは震災前の自分の姿勢と変わらない。それこそが、佐藤真の背中を追い続けて見出したものだ。

私にとって、佐藤真は、答えの出せない問題と向き合い続けた作家だった。誤解を恐れずに言えば、迷い続けた作家だった。それは、世界と最も誠実に向き合おうとする態度だと思えた。多くの作家は、信念であったり、主張であったり、自分の持っている答えをもとに作品を作る。だが、彼は違った。撮影前に答えはなかった。世界と向き合って、初めて何かが見えてくる。その際、自分の意志などはただの偏見に過ぎないと知っていた。世界は私を裏切り続ける。現実の前で、今まで持っていた信念は、跡形もなく崩れ去ってしまう。そこから初めて映画が始まる。それが世界と向き合うことだ。一般論を、そして、自分自身をも疑い続けなければならない。唯一の拠り所は自分の感覚だけだ。だが、その感覚さえも、時に疑わしい。それは理論も同様だ。では何を頼りに。おそらく、その頼るべき視点と方法論を見出すことそれ自体が、彼の映画作りそのものだったのだろう。その為には、理屈も、感覚も、情報も、経験も、あらゆることを総合し判断しなければならない。撮影を通じ、編集を通じて。感触を確かめながら、何度も、何度も。奇を衒って新たな方法を模索したのではない。現実に潜む何らかの本質を顕在化させる為に、新たな方法を必要としたのだ。だから、彼は作品ごとにそのスタイルを変えた。向き合う現実の数だけ、その向き合い方が存在する。そして、その方法論によって見出された新たな視点こそが、彼の批評性だった。

『阿賀に生きる』

ニュープリントで甦る佐藤真の処女作『阿賀に生きる』の方法論は、旧来の社会派ドキュメンタリーの在り方とは大きく違っていた。それは新潟水俣病という社会問題だけに焦点を当てたものでは無く、阿賀野川と共に生きる人々の営み全体を見つめたものだ。そこには、川や山を中心とする自然の時間、釣りや稲作、祭、神事などの自然と共に生きる人間の時間、更に、工業化によって生まれた近代的人間の時間が、重なり合って流れている。そして、その中には、ハレ(非日常)の時間もあれば、ケ(日常)の時間もある。これらは、佐藤真が恣意的に形にしたものではなく、既に現実に存在していたものだ。その中から、彼が、他のスタッフと共に、その本質を丁寧に形にしていったのだ。そうして見いだされたその視点こそが、彼の批評性となった。ここに公害問題の答えがある訳ではない。人生の答えがある訳ではない。だが、そこには人が生きる上で抱えている様々な問題が、答えではなく、問いのまま内包されている。公害を産んだ近代化や工業化とは何だったのか。その恩恵で豊かに生活している今現在の私たちの生活とは何か。そもそも、豊かさとは。今観直せば、どんな人でも少なからず電力の問題なども頭をよぎるだろう。勿論、社会問題から離れてこの映画を観ることも可能だ。夫婦・親子・友人・村社会など、人と人との関係とは。職業とは。老いとは。時間とは。生きるとは。問いはこの映画を観る観客の数だけ存在する。そして、観る度に変わる。おそらく、佐藤真自身もこの映画の意味を、生涯、把握しきることはできなかったのではないか。だから約10年後に続編『阿賀の記憶』を撮ることになったのではないか。把握しきれる訳などない。人の生のすべてを。世界の有りようのすべてを。だからこそ佐藤真はそこにカメラを向けたのだ。

彼はこの姿勢を生涯続けた。遺作となった『エドワード・サイード OUT OF PLACE』では、世界で最も大きな未解決の政治問題の一つ、パレスチナ・イスラエル問題に取り組んだ。事態を俯瞰すれば、イスラエルの暴力は自明なことであり、その暴力を単に批判的に描いて作品化することは容易にできただろう。だが、佐藤真はそうしなかった。その細部にある複雑に絡み合った問題をこそ、見つめようとした。その複雑さを描くことが、西と東の、パレスチナとイスラエルの境界に身を置いたエドワード・サイード自身を描くことだと彼は考えたのだろう。どれだけイスラエルの暴力が自明なことでも、現実的な問題の答えはそう簡単にはいかない。だから、これほどまでに事態がこじれているのだ。その絡まった糸を、少しでも解きほぐすことが、真に求められている解決への糸口となる。その為に、映画の視点は、アラブ世界とイスラエルとの境界線上を揺れながら漂っていく。それは次第にサイード自身の視点とシンクロして見えてくる。そして、映画の最後に、サイードの言葉が朗読される。それはサイードの言葉であると同時に、映画の言葉でもある。そして私には、サイードと同様に境界線上で揺れ続けた、佐藤真自身の言葉、遺言のようにも響いてくる。


「いまでは「ふさわしく」あること、しかるべきところに収まっていることは重要では無く、望ましくないとさえ思えるようになった。あるべきところから外れ、さ迷いつづけるのがよい。けっして本拠地などもたず、どのような場所にあっても自分の住まいにいるような気持ちはもちすぎないほうがよいのだ」(『遠い場所の記憶 自伝』より)

佐藤真ほど、答えの出せない問題に迷い、境界線上で揺れ続けた作家はいなかった。それは、世界を見つめる視点から、それを描く方法論に至るまで。現在のように出口の見えない社会状況の中では、人は不安に苛まれ、藁にもすがるように、何らかの答えを求めたくなる。それは私も同様だ。だが、そんな時だからこそ、自分の足で立たなければならない。「あるべきところから外れ、さ迷いつづけること」それだけが、私が映画を作る上で、そして生きる上で、心がけなければならないことだと思っている。そのことを、私は佐藤真から学んだ。

岡本和樹(おかもと・かずき)
1980年生まれ。映画美学校にて佐藤真の教えを受ける。自己と他者/社会をテーマに、現実と関わる表現の新たな方法論を模索している。埼玉県川口市で市民にカメラを渡しワークショップ形式で街の姿を記録した作品『隣ざかいの街‐川口と出逢う‐』(2010)を指揮。ワークショップ作品の第二段として、川口市民と共同で脚本作りから演技まで行うフィクション映画を制作中、現在編集段階。

主な作品:『帰郷-小川紳介と過ごした日々-』(2005)〈大澤未来と共同監督〉/寺山修司主宰:演劇実験室・天井桟敷の市街劇をテーマにした『世界の涯て』(2007)/あがた森魚の日記映像を月刊で映画化する試み『もっちょむぱあぷるへいず』(2007.1~8)/『もうひとつのヤーチャイカ』(2009)など。

佐藤真監督(撮影:村井勇)

【作品情報】
『阿賀に生きる』

(1992年/日本/115分/カラー/16ミリ/スタンダードサイズ/モノラル)
監督:佐藤真  撮影:小林茂
録音:鈴木彰二/撮影助手:山崎修/録音助手:石田芳英/助監督:熊倉克久/スチール:村井勇/音楽:経麻朗/整音:久保田幸雄/録音協力:菊池信之/ナレーター:鈴木彰二/題字:小山一則/ネガ編集:高橋辰雄 

製作:阿賀に生きる製作委員会
提供:カサマフィルム 協賛:シグロ 配給・宣伝:太秦 配給協力:コミュニティシネマセンター

【上映情報】
11/24〜 渋谷・ユーロスペースにて公開
連日:10:00〜(12/1より10:45〜)
※連日ゲストあり、問い合せはユーロスペース(03-3461-0211)まで