【論考】 視覚と身体のZ軸(後編) 『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』 text 神田映良


このように『Pina』では、3Dによる空間性は全て、肉体の実在感という中心軸から捉えられている。例外は、モノレールの車窓から街を捉えたショットだ。列車の先頭車両で、正面から迫ってくる光景を窓越しに眺めるあの体験がそのまま映像化されている。その奥行き感に加えて、車両が懸垂式である為、宙を浮遊するような感覚が味わえる。「見る」ことの純粋な愉しさをシンプルに味わわせてくれるこのカットだけでも、数分間の鑑賞に耐えるだろう。こうした、カメラがそのまま観客の目となること。それを主軸に据えたのが、次に見る、ヴェルナー・ヘルツォーク監督作『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』(以下『洞窟壁画』)だ。


















© MMX CREATIVE DIFFERENCES PRODUCTIONS, INC

この作品の被写体であるショーヴェ洞窟は、「フランス政府によって初めて撮影が許可された」と宣伝文句にもあるように、非常に貴重な対象なのだが、環境の保全の為、撮影時間が限られている。洞窟内のシーンに姿を現わすヘルツォーク自身、残り時間を気にしながら撮影に臨んでいる。洞窟の壁に触れてはいけないし、地面さえ、細長い金属製の橋の上を渡る以外は許されていない。非常に神経質な条件下での撮影なのだ。息を潜め、岩に囲まれた空間の暗闇を、限られた光源を頼りに進むことと、僕ら観客の、四角いフレームを覗き続ける行為としての映画鑑賞という行為が、いつしかパラレルな関係になっているのを感じる。
ナレーション(日本語版はオダギリジョー)が、足場が狭い為にスタッフが画面に写り込んでしまうことを断わる。逆にこのことから分かるように、被写体は飽く迄も洞窟であり、そこを歩き進んでいく人間は、たまたま写り込んでしまっただけに過ぎない。つまり、『Pina』のモノレール・シーン同様、この作品ではカメラ=観客の視界という関係が基本であり、それ故にこそ、洞窟探索と映画鑑賞がパラレルとなるのだ。

壁画の登場以前にまず、洞窟そのものが天然の造形物として目を奪う。布のように薄く、優雅な曲線と、帯状の模様を有する、石製のオーロラのような石が天井に展開する。カメラのアングルが変わるのに合わせ、岩壁には無数の小さな点が煌めく。洞窟内の岩肌は、肌、という字を付されるのに相応しい、滑らかにうねる表面が、艶かしくさえある。頭上から長く細く垂れて凝固している鍾乳石。少し接触しただけでも簡単に折れてしまいそうだ。これが、フレームの端を横切るときの緊張感。ヘルツォークが、皆に静かにするよう求め、洞窟の沈黙に耳を済ませるとき、ヒタヒタと雫が落ちる音が洞窟内に響く。その音を立てている雫が落ちているのが、画面の奥に小さく見えていたりもする。この、洞窟内の有機的な造形を3D映像で観るという、ただそれだけの行為が、もはや官能的でさえある。
その洞窟内に描かれた壁画もまた、岩壁の凹凸によって、描かれた動物たちに立体感を与えている。古代人は、時間や運動を表現する為に、同じ動物の姿や、動く足などを複数重ねて描いたのだが、この手法は、漫画などではお馴染みの手法だ。これはまた、写真の発明以降の絵画に於いても時々見かけるものでもある。未来派の画家ジャコモ・バッラの《鎖につながれた犬のダイナミズム》では、犬の足や尻尾、つながれている鎖、それを持つ婦人の足が複数描かれ、動く被写体を撮った写真のブレのような効果を得ている。「未来」派の絵画が古代人の壁画と近似しているという事実には、洞窟のような自然が有する長大な時間との対比も相俟って、人類の歴史がコンパクトに折りたたまれ、古代人と現代人が同一地点で遭遇してしまったような感覚にさせられる。これを、人類の営みの永遠性と呼ぶべきなのか、或いは、人類史上の「進歩」が単なる幻想に過ぎないのだという皮肉を感じるべきなのか。

硬く不動の岩壁に「時間」を表わそうとした古代人の痕跡が残るこの洞窟は、洞窟内の独特な造形そのものが、長大な時間の記録でもある。動物の動きという瞬間的な時間を描こうとした古代人と、長大な時間の蓄積としての自然。そしてこれら二つが同時に、時間を描き記録することを遂に実現した映画というメディアによって、空間的な被写体として撮られるという不思議。一つのシーンで、興味深い解説がされていた。或る壁画が描かれた壁に、洞窟熊の爪による掻き傷がつき、更にその後から絵が加筆されていたという。古代人に、熊の爪痕とコラボレーションする意図があったのかどうかは知らないが、岩に手を加えて痕跡を残すという行為を通して、古代人は獣との交感を試みたのだろうか。古代人について語られた言葉の中に、「彼らにとっては人も動物も分け隔てられた存在ではなかった」というものもあった。全てのものは、最初は人間として存在しており、その後で創造主によって、様々な生物へと変えられたのだという。「全てのものは、かつては人であったことがある」。

 

 

 

 

 










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ヘルツォークが、こうしたことをどれほど意識していたのかは明確に語られないが、最後になって、些か唐突に登場する「白いワニ」のインパクトは、様々なことを考えさせる。洞窟の近くにある原子力発電所と、そこで生じる熱を利用した温室で育った、アルビノのワニ。思えば、度々挿まれていた、極端に低い位置のアングルによる、地面を這うように撮られたショットは、遠近感をより強調する為にそうした撮り方が為されているのだと解釈していたが、或いはこれは、ワニの視点だったのかもしれない。「白いワニ」といえば、日本では某マンガ作品に登場する幻覚として知られているようだが、ヘルツォークもまた、『バッド・ルーテナント』に登場するイグアナのように、幻覚的な存在として白ワニを捉えていたのかもしれない。壁画に於ける、熊の爪痕との協演から、科学技術による侵犯という関係へ。「過去」を辿り続けていた映画の最後になって僅かに挿入された「未来」のイメージは、原発を介して「フクシマ」の現実へと、図らずも接続してしまった。

以上に見てきた二作品だが、ダンサーの肉体や、壁画の残る洞窟という、特別な被写体を撮るからこそ3Dの必然性があったのだと、取り敢えずは言える。だが、あらゆる被写体は何らかの意味で「特別」でもあるだろう。一つのドキュメンタリー映画が撮られるとき、その被写体は3Dであることを要求しているのかどうか。その判断の座標軸に於けるX軸とY軸にあたるのが、被写体の「(肉体的/物体的)実在感」と「空間性」だと、僕は考える。『Pina』と『洞窟壁画』は、このそれぞれの方向性を、かなり純粋に追求した作品と言えるだろう。個人的には、『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』など、「街中の壁面にストリートアートを描き込む身体」という運動体と、街そのものの空間性という両面に於いて3D的なドキュメンタリー映画だと思えるのだが、あの手持ちカメラの揺れに酔いそうになったことを思えば、3D化は体に悪そうで気が進まない面もある。「体に悪い映像」ということ自体、カウンター・カルチャー的ではあるが。
ところで、『Pina』の中には、暗いトンネルの中でダンサーが踊るシーンがあるのだが、その壁には絵(壁画!)が描かれていた。『洞窟壁画』の古代人たちもきっと、壁面で動く自らの影と絵との共演に興じていたのだろう。僕らが見ている対象と、僕ら自身の身体が空間を共有しているという感覚の喜び。3D映画が生まれた理由の一つもまた、そこにあるはずだ。そして、「見ている対象」は何も、青い肌の異星人といった意味で「特別」である必要はない。家族や恋人といった私的な特別さ、親密さを3Dで撮る作家が現われたら映画は何を得るのだろうか。キャメロン的な3D作家はひとまずもういい。例えば河瀬直美的な視点で3D映画にデビューする才能が現われないものか。こんな僕の願いに共感してくれる人は、少数派どころか、誰もいないのかもしれないが。



 

『世界最古の洞窟壁画35mm 忘れられた夢の記憶』
監督・出演/ヴェルナー・ヘルツォーク
2010年/アメリカ/90分/35mmフィルム/カラー
5月12日(土)よりシアターN渋谷ほか全国順次ロードショー!

 

【執筆者プロフィール】神田映良(かんだ・あきら) 1978年大阪府生まれ。大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科卒。インターメディウム研究所・IMI「大学院」講座(現・IMI/グローバル映像大学)修了。2011年、第二回映画芸術評論賞・奨励賞受賞。