見たくない。でも見たい。贅沢で倒錯したこの欲望が、ドキュメンタリーの需要のある一定部分を支えていることは、わざわざ指摘するまでもない。戦争の悲惨さ。郊外の空洞化。権力の横暴。現代の混迷。家庭内暴力。人種差別。就職難。心の病。非モテ。貧困。難病。原発。震災。どれをとっても、人間ひとりを簡単に押しつぶすことができる大問題。しかしそれがいったん映画の題材になると、どうだろうか。見始めて、見終わったら「ずしりと重いものが残る」「深く考えさせられるドキュメンタリー」などとつぶやいて、また新しい明日へと気持ちをリセットしたり、しなかったりする。
生活のために過酷な練習を重ね、大人顔負けのハードさでムエタイの試合に挑む少女たちを描いた『リトルファイター 少女たちの光と影』も、そのように、カタルシスの泉として消費されそうな第一印象を与える。もっとも、人類ははるか昔から、作られた悲劇に涙を流しては夜を乗り越える力を得てきたわけで、ドキュメンタリーにそうした効用を期待していけない理屈はない。(そしてもちろん、ドキュメンタリーの真摯な理解者もたくさんいるはず、と付け加えておく)
以上を承知の上で、それでもなおこの映画には、若干の居心地の悪さを覚えずにはいられない。というのもここには、見る者の感情が進むべき方向を指し示す、倫理の矢印がほとんど見当たらないからだ。気持ちはまっすぐには進まず、ときに立ち止まり、曲がりくねり、こんがらがる。
本作がおもにスポットを当てているのは、ふたりの少女、スタムとペット。彼女たちのまわりには、家族をはじめとした大人たちが群がり、多額の金銭が行き交い、思惑が渦巻く。見たくない。でも見たい。そしていざ見てみると、予想に反して、義憤に駆られることはとても難しい。
年端も行かない判断力のない子供たちにこんな危険なマネをさせるなんて、と眉をひそめたくなったところで、父親の「娘の人生だから娘が判断するだろう」とのクールなコメントが挿入される。試合は賭けの対象であり、胴元が仕切ってはいるけれど、とにかく少なからぬ金が入ることはたしかなようで、勝ったスタムは家族が住む家を完成させて幸せそうだ。彼女の祖母は、孫に500バーツ賭けたから勝って嬉しい、と屈託なく笑う。一方、負けたペットは、悪所と形容したくなるような歓楽街に設けられたリングに上がり、試合を続けている。
ミュージック・ビデオのスタッフとして映像に関わり始めたというトッド・キールスティン監督は、価値の押し付けを極力避けながら、スタムとペットの子供としての日常を、練習風景を、激しい試合の様子を、ときにイメージ・ビデオを思わせる呑み込みやすいタッチでつづる。はにかみ。不安。気負い。そしてなによりも彼女たちの笑顔。そうしたものを、児童虐待、拝金主義、といったキーワードでまとめて、紐でくくって、見て見ぬフリをして、どこかの片隅にうっちゃっておければいいのだけれども、少女たちは明らかに傷つきもしながら、同時に、現実に手が届く夢をも見ている。もちろん物事のいちばん醜い部分はこの映画には映っていないに決まっているような気はするけれど、じゃあなにを信じるかって言ったら、最終的には彼女たちの顔と言葉を注視するしかないだろう。
クライマックスのスタムとペットの試合。ふたりがぶつかりあっているラウンドの時間中は臨場感を欠いた音処理がなされ、それがかえって、容赦のない肉体同士の激突を伝える。対照的に、インターバルのあいだはカメラはコーナーのスタムに密着し、音も四方八方から押し寄せてくる。3人くらいのコーチたちがよってたかってスタムに水を飲ませ、コップで浴びせ、腕を激しくマッサージし、全員が同時にアドバイスを与え、鼓舞する。スタムも必死でそれを聞こうとはするが、すべてが耳に入っているようにはとても見えない。トレードマークである紫の頬紅は大きく肌に広がって、まるでアザのようだ。
もうやめてくれ。見たくない。でも見たい。ここでわたしたちは、自分の欲望が拳のように目の前にぬっと突きつけられるのを感じる。耐え切れずに目をつむると、拳は大きなクエスチョン・マークになって迫ってくる。
戦っているのが女の子ではなく男の子だったら、少しは気が楽になるのか? あるいは大の大人だったら、本気で殴り合うところを見せて金をとっていいのか? そもそも外国人がわざわざタイに来て、こぎれいに映画にまとめただけでなにがどうなるのか? 映画が終わったあと、スタムとペットはどうしているのか? 映画に登場しないほかの少女ファイターたちは、どんな顔をして、どこでなにをしているのか? わたしたちはこれを、冷房のよくきいた映画館にのうのうと座って見ていていいのか? その映画をネタにして、なにかうまいことを言おうとしたりしていいのか?
わたしはタイには行かないだろう。彼女たちに会って励ますこともない。もしかしたら、この映画が大ヒットしたら、彼女たちの人生がよりよい方向に変わることがあるかもしれない。しかしたかだか1本の映画に、そこまでの重荷を背負わせるのは酷だ。でも、だったら、誰がどうやって背負えばいい? 見たくない。でも見たい。その誘惑に負けたわたしたちは、彼女たちのことなんて知らなければよかったのに、とつぶやきながら、その場を立ち去って、また別の映画を見続けるしかないのだろうか?
【上映情報】
『リトルファイター 少女たちの光と影』
2012年/アメリカ/64分/タイ語/カラー/ヴィスタサイズ/デジタル上映
監督 トッド・キールスティン
製作 ラネット・フィリップス/ジョナサン・カー
提供:シネマクガフィン
配給:CURIOUSCOPE
8月24日より 新宿K’s cinemaよりロードショー 全国順次公開
連日10:30〜
公式HP:http://www.curiouscope.jp/littlefighter/
【執筆者紹介】
鈴木並木 すずき・なみき
1973年、栃木県生まれ。派遣社員。最近見た『ホワイトハウス・ダウン』(ローランド・エメリッヒ監督)で、「ground floor」と言っているセリフの字幕が「G階」となっていて、ナルホドと思いました。以前からおこなわれている慣習だったかどうか、気になっています。