大阪の路上から西ティモールへ――「アナ・ボトル」との出会い
学部生のころから文化人類学を学んでいた私は、11年前(2002年)に博士課程に進んだ。それまで大阪駅周辺で生活するホームレスたちの調査をしていたが、博士課程では国外で調査をしたいと思った。まず調査地を決めなければ始まらない。漠然と東南アジアのどこかの町にしようと思い、いくつか候補地を挙げて、実際に行ってみた。そのうちのひとつが、インドネシアで「もっとも貧しい地域」ともいわれる西ティモールであり、そこにあるクパンという町だった。
クパンでしばらく過ごしてみると、町のあちこちで、ある人びとの姿が目につくようになった。彼らは素朴なつくりの荷車を押して、町を歩いていた。荷車には、空き瓶や空き缶、ダンボール、トタンや機械部品といったスクラップが積まれていた。彼らは「アナ・ボトル(空き瓶の子)」と呼ばれる廃品回収人で、町を歩き回って廃品を買い集めているのだった。
アナ・ボトルたちの手には風船が握られていた。風船の中に笛が仕込んであって、それを握ると、豆腐屋のラッパを思わせるひょうきんな音が鳴り響く。これが彼らがやってきた合図だった。滞在先の部屋で午後を過ごしていると、この音が聞こえてきた。私は部屋を出て、音の方へ向かった。雨季のうすぐらい曇り空の下で、せまい道のわきに、廃品を積んだ荷車が止めてあった。しばらくそこで待っていると、向こうの茂みが揺れて、ひとりの小柄な男性が現れた。数本のビンタン・ビールの緑色の空き瓶で両手がふさがっているので、風船ラッパはシャツの襟首から背中につっこんでいた。当時はまだ言葉が十分にはできなかったが、仕事に同行してしばらく歩いてみたいと伝えた。彼はすこし戸惑ったようだったが、快く承知してくれた。こうしてその日、町を一緒に歩いて回り、夕方になって最後に行き着いたところが、アナ・ボトルたちが集まって暮らしている小さな小屋だった。これが彼らとのつきあいの始まりだった。
そののち西ティモールに2年間滞在して、人類学のフィールドワークをつづけた。彼らは村を出て、クパンに出稼ぎに来た農民たちだった。町でアナ・ボトルとなり、きびしい肉体労働をこなしてお金を稼ぐ。稼いだお金は、村にせっせと持ち帰る。村ではさまざまな儀礼がおこなわれる。そこで彼らは、祖先の霊を慰撫するとともに、たくさんのごちそうを用意して、大勢の客に気前よくふるまうのだ。こうした儀礼のために、彼らは廃品回収で稼いだお金を、惜しみなくつぎ込んでいた。町と村とを頻繁に行き来し、町で市場経済の仕組みの末端に加わってお金を手に入れ、それを村での贈与の経済につぎ込む。ふたつの異なる経済と価値のあいだで営まれる彼らの暮らしをまとめて、2010年にようやく博士論文を書き終えた。
映画をつくる
博士論文を終えてしばらくのあいだは、安堵と疲労で何にも手がつかない状態がつづいた。そうしたとき、「映画をつくってみたら」と、同じ研究科の田沼幸子さんに持ちかけられた。田沼さんは大学で、人類学的フィールドワークの方法として、また研究成果を社会に伝えるための方法として、映像制作がもつ新しい可能性を探究するプロジェクトを始めていた(※1)。私も参加していて、集まったメンバーで民族誌映画やドキュメンタリーを鑑賞したり、制作者を招いて話を聞いたりし、少しだが作品づくりの技術も勉強していた。田沼さんが自身のキューバでの研究にもとづいて映画を完成させていく過程も、間近で見ていた(『キューバ・センチメンタル』2010年)。プロジェクトのおかげで、大学には小さなビデオカメラと、編集用のPCとソフトがすでにそろっていた。何よりも、すでに何度かお招きして講師をお願いしてきた市岡康子さん(※2)に、1本の作品を仕上げるために欠かせない構成と編集を手伝ってもらえるということが大きかった。
当時は何か新しい作業に没頭したかった。大学院を出たものの仕事は何も決まっておらず、完成までに実際にどれだけの時間や手間がかかるのかは、あまり考えなかった。8月に西ティモールで撮影を試みて、60分テープで10数本を撮影してみた。だがこれは失敗に終わった。市岡さんに「写真の撮り方みたいで、これでは映像はつくれない」と指摘され、「もしどうしてもこの材料で仕上げたいならばお手伝いはしますが、どうしますか」と尋ねられた。1年後の8月に再撮影を行い、何とか材料がそろった。2回の撮影で、60分テープを30本使った。編集の作業に入ると、刺激的で、新鮮な驚きの連続で、時間が経つのをしばしば忘れた。こうして2012年に、映画『アナ・ボトル』が完成した。ありがたいことに、「ゆふいん文化・記録映画祭」ほか、いくつかの映画祭に出品することができた。自分が大学での非常勤でもっている講義はもちろん、ほかの大学でも文化人類学やそのほかの講義で上映してもらっている。
『アナ・ボトル』現地上映会
2012年8月、西ティモールの町と村で、アナ・ボトルたち自身に、完成した映像を見てもらった。上映用の適当な設備を揃えられず、ノートPCの小さなモニターを使った。
彼らは私がつくった40分の映像を、じつに楽しそうに見てくれた。インドネシア語版の制作が間に合わずに、ナレーションは日本語のままだった。そのせいもあったかもしれないが、話の全体の流れやテーマは、とくに話題にならなかった。彼らは、いま誰それが映った、あの場所はどこそこだと、小さな画面をいちいち指さして、終始にぎやかだった。上映が終わると、余韻をたのしむまもなく、「次はあいつのが見たい」とか、「これじゃなくて、あの儀礼を見せてくれ」とか、以前に見せたことがあった、ためしにいくつかの映像をつなげただけの短い動画をリクエストされた。彼らが喜んでくれたことはもちろんうれしかったが、1本の物語をようやく作り上げた編集の苦労はまるで意味がなかったようで、正直なところ満たされない気持ちもあった。
登場人物のひとりニアル(55歳)は、町で彼らが暮らす小屋で最初に上映したとき、周りの仲間にひやかされながら、画面で語る自分の姿を照れくさそうに見ていた。村の彼の家で、家族と一緒に改めて見たときには、自らの語りにしみじみと聞き入っていた。上映のあとでニアルは、私が以前にあげた彼の写真を手に取り、じっと眺めていた。「俺が死んでも、自分の子どもや孫が、映像を見てくれるだろう。あれが父さんだ、爺さんだと言いながら、にぎやかに騒いで。」 彼の言葉を聞いて私は、これでよかったのだと思った。ひとつひとつの場面に大騒ぎして、誰かの頭をふざけてはたいたり、ひやかしたりしながら見るというのは、せっかくみんなが集まり同じものを一緒に見るのだから、じつに健全ですてきな映像のたのしみ方なのだと思った。
40分の映像には、このときすでに亡くなっていた人物が映っていた。町での出稼ぎの経験が長く、いつも冗談をいって周りを笑わせていた「酔っぱらいのアグス」だ。ごくわずかに映り込んでいただけだったが、その姿は見る者たちを強くひきつけた。
上映のあとで写真を眺めながら、ニアルはその写真の端を切るのだと言った。かつて私が町で撮ったその写真には、ニアルと彼の荷車が写っていて、そのわずかな端に、こちらを見て立っている「酔っぱらいのアグス」の姿があった。アグスの家族から写真が欲しいと言われたので、その端を切って、渡すことにしたのだという。私は、もっといい写真があるはずだと言って、古い画像フォルダを探し、よさそうなものを選んで町の写真屋で印刷して、ニアルに託した。
ニアルにはすでに何人かの孫がおり、年齢もアグスよりだいぶ上だ。彼は、いずれ自分がアグスのようにこの世を去ったあとで、自分の映像を残った家族が見ている場面を想像したのだと思う。彼の子どもや孫たち、彼自身は顔を見ることのなかった幼い孫やひ孫たちが、画面を見つめて、自分の姿に指をさし、大声で笑ったりはしゃいだりしながら語りあうようすを、思い浮かべたのではないか。
彼らは、いなくなった者を「覚えておく」ということを、かなり重く考えている。私が西ティモールでの滞在を終えて日本に帰るときには、「お前のことを、きっと何度も思い出すぞ」と繰り返す。しばらくの別れを前に、私を喜ばせようとして彼らの口をついて出てくる言葉だ。旅立ちの別れと同じく、死に別れた者たちのことを、残された者たちは決して忘れてはならない。死んだ者たちは、家族に忘れ去られ、ないがしろにされると、機嫌を損ねる。そのせいで、幼い子どもが病気になったり、大切な牛が死んだりもする。よって、儀礼をおこない、祖霊を慰撫するということは、生きている者たちが彼らを決して忘れておらず、何かあるたびに思い出し、大切にしているのだと伝えることである。死んでしまった自分を想像してみたとき、生きている者たちから「忘れ去られてしまった」自分を考えるのは、つらく、悲しいことだろう。にぎやかな家族に囲まれて、一緒に映像を見たニアルは、自分の映像が残りつづけるということで、こうしたことに対する安心を得たのかもしれない。
「お前はこういうものを作っていたんだな、これがお前の仕事だったんだな」と、アナ・ボトルたちの何人かが、見終わったあとで私に言った。西ティモールの自分たちの暮らしぶり、働きぶり、自分たちが大事にしているティモールの「アダット(慣習)」を記録して、外国で伝えているのだなと。私はそれまでにも何度か、なぜ日本人の学生が、遠く西ティモールまで繰り返しやって来て長い時間を過ごしているのかを、言葉では説明していた。だが映像を見たことで、彼らには何か、たしかに腑に落ちたというところがあったようだった。
かつて私は、日本への帰国のたびに、「お前は日本に帰ったら、俺たちのことを忘れてしまうんじゃないか。もう戻ってこないんじゃないか」と尋ねられた。最近はそのようには言われなくなった。それは、私が彼らを忘れることなどないのだと、そろそろ納得してくれたからだと思う。
(※1) 大阪大学グローバルCOE「コンフリクトの人文学」(2007-2011年)における、「映像作成による人文学のコンフリクトの国際研究教育の可能性」プロジェクト。
(※2) TVディレクター。1962年日本テレビに入社。牛山純一の「ノンフィクション劇場」のディレクターとして『多知さん一家』(65)などを手掛ける。その後は「素晴らしい世界旅行」ディレクターとして『クラ—西太平洋の遠洋航海者』(71)などアジア・太平洋の民族誌を記録した番組を多数発表、映像民族学の第一人者として活躍する。
【作品情報】
『アナ・ボトル――西ティモールの町と村で生きる』
(43分/カラー/DV/2012年)
※ゆふいん文化・記録映画祭 第5回松川賞受賞
ディレクター・撮影: 森田良成
編集: 森田良成 市岡康子
構成協力: 市岡康子
【執筆者紹介】
森田良成(もりた・よしなり)
1976年奈良県生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科・特任助教。文化人類学が専門。おもな論文に「貧乏―『カネがない』とはどういうことか」春日直樹編『人類学で世界をみる』(2008年)、「受け継がれた罪と責務」鏡味治也編『民族大国インドネシア』(2012年)などがある。
映画『アナ・ボトル』は、第15回ゆふいん文化・記録映画祭(第5回松川賞受賞)、第10回International Ethnographic Film Festival of Quebec(FIFEQ)、第10回Worldfilm-Tartu Festival of Visual Cultureで上映された。