【Book】「この本を読めば、“コロンボ”の見方がわかる!」…のか?~ムック本をドキュメンタリーとして考える~ text 山本達也

コロンボ12

別冊宝島1957『増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録』(宝島社)

まだ未婚の僕は、将来もし結婚出来たらお相手の方のことを「カミさん」と呼びたいと思っています。

と、かなりしょうもない告白から始めてみましたが、まぁ要は『刑事コロンボ』のファンだ、ということです。なんだったら、メモした紙とか鉛筆をどこにしまったのか忘れてあちこち探したり、クラッカーをたっぷり入れたチリをバーニーの店で食べたりしたいとすら思ってます。

小学生の時に日テレの「金曜ロードショー」で『新・刑事コロンボ』に出会い(『コロンボ』のような海外ドラマをあの枠でやってた、というのも隔世の感がありますなぁ。あのテーマ曲、好きでした)、その後はちょっとブランクがあったんですが、CS放送の「AXNミステリーch」でよく再放送されているのを知り、昨年改めて『刑事コロンボ』旧シリーズ全45話を見終わって、すっかり”コロンボファン”として出来上がってしまいました。

そんな僕の所にneoneo編集室の方から、

 「『刑事コロンボ』のムック本の書評を書きませんか? ”ムック本・データ本もドキュメンタリーである”というテーマで」

というメッセージが届きまして、「面白そう」と思った僕は「書きます」と返信したわけですが、数日後、ふと思い出しました。「そういや俺、ムック本とかあんまり読んだ事ねーな」と。

そこで早速(と言いつつ、ちょうど自分がプロデュースする『ウチのはらのうち』の撮影時期と被っていたので、かなり遅くなってしまったんですが……)ムック本を注文し、届いたものを読んでみました。読んだのは、『増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録』(別冊宝島)です。

ライターでコロンボマニアの町田暁雄さんが監修した本著は(Amazonの説明曰く)「世界一のコロンボ研究本」ということで内容は多岐に渡り、新旧シリーズ全69話の1話ごとの分析はもちろん、主演のピーター・フォークや製作者であるリチャード・レヴィンソン&ウィリアム・リンクに関する文章、犯人役を演じたスターについての記述、コロンボにまつわる情報を網羅的にまとめたページやえのころ工房さんによる楽しいイラストなど、コロンボファンなら存分に楽しめるムック本で、僕も(自分が見たエピソードの解説などは特に)バババッと一気に読み終わりました。

……が、しかし。

どうも読み終えた時に「面白かったー」とはならない。読んでいて楽しいし、「ほほー」と思うような発見ももちろんあるんだけど、これが「心に残るか?」と言われると、それはどうだろう?と思ったのも正直な所でした。

”ムック本もドキュメンタリーである”という観点で言い換えると”ドキュメンタリーも心に残らない”ということになるのか。いや、そんなことはないな。今でも強く心に残るドキュメンタリー作品はたくさんあるしな。

というわけで、僕がこの本に抱いた印象を考えることは”ドキュメンタリー”なるものを考えることに繋がるかなと思ったので、ちょっとまとめてみようと思います。

まず、ムック本というのは、その性質から「編集」がとても重要です。これはドキュメンタリーも同じ。そして、編集によって「視点」を提供する、というのもムック本とドキュメンタリーに共通している一つの側面だと言えるでしょう。すなわち、その対象をどう見るのか、その「見方」を提供する。もっと言えば、対象に何を選ぶのか、も含めて、“何を”“どう見るのか”を提供するということ。

僕がドキュメンタリーを見る時にポイントにしているのは、この提供された視点と、それによって切り取られた対象と、自分が持っている視点のそれぞれの関係です。だから、映し出されている対象に素直に感情移入する、とか、その対象の背景や心の内にある“真実”がえぐり出されることを期待する、というよりは、鑑賞しながら変わっていくその関係を楽しんだり考えたりする、という面を僕は大事にしています。

例えば、戸塚ヨットスクールに密着した東海テレビ放送制作のドキュメンタリー『平成ジレンマ』で提供される視点は、その存在を肯定も否定もしないフラットなものです。それに対して対象(ここでは戸塚宏)は強烈に偏った考えを持つ人。そうなると僕は「この人やこの人の考えをどう自分は捉えればいいのだろうか」と考えを巡らせながら鑑賞し、すぐには出ない答えを引きずりながら映画館を出ることになる。

また、繰り返し何度も見ている『ライブテープ』(監督:松江哲明さん)では、前野健太さんの音楽を見つめる松江さんの視点を共有しながら、前野さんの楽曲の印象がCDで聞いたりライブで聞いたりしたものから変わっていくのを体験しました。

では、今回のムック本ではどんな「視点」が提供されているのでしょうか。

……これがですね、よくわからんのですよ。

まぁムック本というのは「データ本」なので、網羅的に様々な情報や考察が含まれることで視点が散漫になるという面(視点の提供というよりも、読者が視点を獲得する為の色々なフックが用意されている)は否めないと思うのですが、生粋のコロンボマニアである監修者(この方、前述の「AXNミステリーch」の公式サイトで『コロンボ』解説ページの企画なども担当されているので、コロンボマニアの日本における第一人者、と言えるのでしょう)の強い愛情が、“編集”によって若干漂白されてるが故に、彼の「視点」が見えづらくなってるような気がするんです。

それはおそらく、このムック本の読者として想定されている層の中途半端さに起因しているのかな、と思っています。というのも、各話の分析ページに「ここからネタバレです」的な注意マークが付いているんです。これ、僕だけかもしれませんが、要らないと思うんですよ。だってコロンボファンは、各話を見た上で「この人はどういう点に着目して分析するのかしら」という読み比べを楽しむと思うから。これを読んで「ネタバレしてんじゃねーよ!」と言っちゃう人は、コロンボファンではないだろうし、尚かつこのムック本を手に取らないような気がするからです(この点については、「じゃあムック本は“玄人”相手にしか商売出来ないのか」っていう疑問が自分の中にあったりもするんですが)。

もちろん“編集”が、作り手の意図や思いを的確に受け手に伝えるという側面を持っているのも、それが見事に作品の魅力に寄与することがあるのも知っています。ただ、このムック本に施されている“編集”は、監修者の意図(=視点)から若干ズレているような気がしてならないんです。

なので、ズレてしまった「視点」の「不明瞭さ」が、対象/作り手の視点/自分という三者の関係を掴みづらくしている。もちろんそれらの関係は常に変化し続けているものなので、明瞭に掴めるものなどないんですが、それでも最低限の「視点」を感じたいんです、僕は。(もちろん、「文章」と「映像」における”編集”という行為の違いや、カメラの存在と「視点」の関係などについても考えを巡らせないと、この意見には説得力が生まれないとも思っています)

あと一つ、これもドキュメンタリーとの共通点かもしれませんが、魅力的な対象を切り取るこれらのものが結局はその対象の「魅力そのもの」に勝てない可能性、というのも、僕をムック本から遠ざけている理由かもしれません。

「そんな勝負、別にしてねーだろ」というツッコミがバンバン飛んでくるのがまざまざと目に浮かびますし、「映画のメイキングでも面白いのあるじゃねーか。別もんだろ、馬鹿野郎」という声が耳の奥から湧き上がってくるようですが、これは僕としては引っかかるポイントなんです。

ムック本はあくまでも、対象をより輝かせる為に機能すると思うのですが、それ自体が自律的な面白さを持ち、対象と幸福なマリアージュを果たす為には、魅力的な対象との距離をしっかりと保つ必要があると思います。

中にはあまりに対象の魅力に寄りかかりすぎるが故に「視点」を感じられず、結局「これ読むぐらいだったら、(ムック本で取り上げている)対象を見てた方がいいわ」という印象になってしまうものもある。かつてそういうものを読み失望した記憶がどこかにあるから、ムック本を避けていたのかな、と。そしてその「距離感のバランスの欠如」は、前述した「視点の不明瞭さ」とも繋がるわけです。

と、色々書いてきましたが、書いてみて思ったのは、ムック本とドキュメンタリーの共通点を探し考えるのは色んな事を派生的に想起させて面白いなぁ、ということです。「対象を事細かに見つめる」という意味では根っこの所で共通しているものだと思うので。

ドキュメンタリーの中にもイマイチはまらない作品があるように、ムック本にもハマるものとそうじゃないものがあるはずです、当たり前ですが。「ムック本はイマイチ乗れない」と一括りで考えるのではなく、一冊一冊にちゃんと目を向けて読み込んでいけば、それこそコロンボが小さな小さな矛盾から犯行トリックを見つけていくように、色んな発見があるんだと、今回読んでみて改めて感じました。

【おまけ】
編集室の方から、「好きなエピソードについてもぜひ」とのことだったので、調子に乗って勝手ながらランキング形式で発表させていただきます。ネタバレあるかもしれませんが、許して下さいませ

<第3位>
第10話「黒のエチュード」

『刑事コロンボ』の大きな特徴は「倒叙型」ミステリーであることです。「倒叙型」とは、まず作品の冒頭で犯人や犯行を観客に見せ、一見すると完全犯罪に思われるその犯行を後に出てくる人物(ここではコロンボですね)が小さな矛盾点や証拠から暴いていく、というもので、小説などで使われていた手法なんですが、『コロンボ』はこの手法を採用して「犯人役にスターを起用する」ことを可能にしました。

通常のミステリーにおいて犯人にスターがキャスティングされている場合、観客はその人物が出てきた時点で「こいつが犯人なんじゃ……」と疑い始め、少しテンションが下がる場合があります。「だってスターなんだから、ちょい役にはしないでしょうよ、さすがに」みたいな感じで。まぁ、その思い込みを利用する、という手があったりするのもミステリーの醍醐味ですが、「倒叙型」では犯人を予め示して犯人と刑事(もしくは探偵)の緊張感のあるやり取りを楽しむ形になる為、堂々と犯人役にスターをキャスティングする事が出来たわけです。

と、前置きがかなり長くなりましたが、「黒のエチュード」の犯人役はピーター・フォークの盟友でもある、あのジョン・カサヴェテス。この二人の「犯人vsコロンボ」としてのやり取りが見られる、というだけでちょっとニヤニヤしちゃいます。(正直な所、話の展開や決め手となる証拠は他のエピソードに比べてちょいと弱いんですけどね)

あと、ジョン・カサヴェテスの奥さん役で登場するブライス・ダナーがすごく魅力的です。彼女はグウィネス・パルトロウの実のお母さんなんですが、もうね、そっくり。「あれ、グウィネス・パルトロウが出てる」と思っちゃうぐらい。彼女の姿が見られるのも、このエピソードのポイントだと思います。

<第2位>
第19話「別れのワイン」

コロンボファンの中でも1、2を争う人気のエピソードで、全体に漂う“空気”が大きな魅力となっています。

その“空気”を醸し出しているのは、シリーズ全体の肝とも言える「コロンボと犯人の関係性」。犯人に対して強い怒りを示すときもあるコロンボが、このエピソードではほのかな共感のようなものを抱くのがわかります。犯行そのものや犯人の人物像もコロンボのそうした感覚を支えていて、ラストは見ているこちらも静かな切なさを感じる名シーンです。

 <第1位>
第32話「忘れられたスター」

映画『サンセット大通り』をモチーフの一つにしているエピソードで、ビリー・ワイルダー作品が大好きな僕にとってはその時点で点数が上乗せされてしまうんですが、それだけじゃなく、「復活を目論むかつての大女優が、反対する夫を殺害」という身勝手な犯行にも関わらず、「(コロンボも含む)主要な登場人物がみな犯人を“愛している”」という点が僕には強く印象に残りました。

犯行が明らかになると同時に、犯人である女優の悲しい運命と、彼女に向けられるある人物の愛が立ち上がってくるラストシーンは、事件解決の爽快さで終る他の多くのエピソードとはまた違う、何とも言い難い味わいが感じられます。

もしかしたら“コロンボらしくない”作品かもしれませんが、オススメです。


【書誌紹介】

コロンボ12


別冊宝島1957 増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録

著者:町田暁雄 監修/えのころ工房 絵

定価:1890円(本体1800円)

B5判 224P

ISBN:978-4-8002-0697-8/雑誌:66089-34

2013年2月5日発売 

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【執筆者紹介】 

山本達也(映画プロデューサー)
05年『ゴーグル』(監督・脚本:櫻井剛)でプロデューサーデビュー。06年からは下北沢トリウッドと専門学校東京ビジュアルアーツの産学協同企画「トリウッドスタジオプロジェクト」のプロデュースを担当。最新作『ウチのはらのうち』は只今下北沢トリウッドにて公開中(10/4まで連日15:00/17:00/19:00 http://filmtsp.tumblr.com/)。
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