【Report】映像イメージへの応答をめぐって――あいちトリエンナーレ2013 text 影山虎徹


|震災経験の風化に抗して

愛知県で3年に1度開催されている芸術祭「あいちトリエンナーレ」が、8月10日より始まっている。今回のテーマは「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」であり、震災後のわれわれの現状にコミットしている作品も多く展示され、われわれが置かれている状況へ問いを発している。名古屋のみで開催されていた前回のトリエンナーレとは異なり、岡崎市での展示や県内都市への巡回も行われており、愛知県を全域にかけて楽しめる芸術祭となっている。

展示会場には、駅ビルやデパート、空ビルを使った展示も多く、場所の特性を利用した展示が目に付く。例えば、岡崎駅を降りてすぐに見えるオノ・ヨーコの「生きる喜び/JOY OF LIFE」と書かれた作品は、広告掲示板のように展示され街に溶け込み、長者町エリアを歩けば漫画家、横山祐一の作品などがビルのショーウィンドウに飾られたディスプレイのように展示されている。

オノ・ヨーコ『生きる喜び』 東岡崎駅北口広告掲示板 *東岡崎駅会場 (撮影筆者)

オノ・ヨーコ『生きる喜び』 東岡崎駅北口広告掲示板 *東岡崎駅会場 (撮影筆者、以下同じ)

横山祐一 八木兵伝馬町ビル ショーウィンドウ *長者町エリア

横山祐一 八木兵伝馬町ビル ショーウィンドウ *長者町エリア

街の中に溶け込んだ多種多様な作品たちは、美術館を抜け出し自らのお気に入りの場所にそっと居座っているようにも見える。名古屋市、岡崎市という人の行き来が目まぐるしいこの地方都市に現れた新しい住人に、人々が足を止めふれあう。日常の中に生まれる芸術体験は、それだけで街を違った相貌にさせている。

さて、冒頭でも述べた通り、今回のトリエンナーレは震災後の日本をどのように生きるか、という大きなテーマがある。震災から2年半が経過した今、震災の被害を直接的には受けていない愛知という工業都市において、その影響は見えにくく、感じにくい。いや、それは愛知県だけの問題ではないだろう。直接的に被災を経験していない多くの人間にとって、被災体験は意識しなければ薄れていってしまうものになってしまっている。それは、おそらく危惧すべきことであり、現実としてわれわれが向き合っていかなくてはいけないひとつの問題である。そして、そのひとつの方法としてアートがある。展示された作品たちは、われわれに震災とはなんであったのか、それによって何が変化したのか、そして私たちはどこに向かっているのかをわれわれに突きつけている。

|震災経験と未完の映像――アーノウト・ミック『段ボールの壁』

愛知文化芸術センター10Fに展示されているアーノウト・ミックの『段ボールの壁』は、われわれの震災への「理解」に疑問を投げかける。オランダ人のアーティストであるミックは本作品のために実際に福島に赴き、震災後の避難所を模倣したセットを作り、有志で募った演者の二日間の様子を撮影した映像を制作した。この映像の中には、避難した住民たちと東京電力の間で起きた対立を模倣した様子も映し出される。その映像作品のまわりには、段ボールで囲いこまれており、鑑賞者には、避難所の様子を思わせる仕組みになっている。

当時の被災地の様子を映像でしか知らない私にとって、画面に映されたそれは体育館に段ボールを立てて人々が寝ている映像であるという点で震災後に観ていたテレビのニュース映像と変わらないかもしれない。当時、ニュース映像を観て募金に走った私は、その一連のアクションでこの映像を「消費」していた。しかし、段ボールに囲まれた画面に映されたふたつのグループの対立や体育館で生活をする人々の映像は、私の目に直接的に飛び込んできた。当時、何度もテレビを通して観ていた映像の模倣であるはずのものにどこか目を奪われていた。

先ほども述べた通り、映像内容だけを見れば、実際のニュース映像とミックのそれとは何も変わらない。しかし、ミックの映像を観ている私は、この映像が何を模倣しているかも理解しているし、現実世界では、今後どのような状態になるのかも把握しているという点で、当時のニュース映像とは異なる(さらに言えば、芸術祭の展示会場で観ているという点でも異なる)。当時、現在進行形で消費していた映像を、そのときとは時間も場所も異なる立ち位置から観る。そして、ミックの映像が模倣であると知っている点で、われわれが映像を鑑賞する際、意識的/無意識的にオリジナルの映像――つまり、当時現在進行形で観ていたニュース映像――と比較してしまう。われわれは、当時感じていた緊張感や不安を抱いて、ミックの作品を観るであろうか。いや、そうではないだろう。つまり、われわれがミックの作品を鑑賞する際、緊張や不安といった自己の内的関心から解放され、異なる「視点」からその映像を観ることになるのである。

私たちは、見ることによって、それを消費してしまう。しかし、ミックはその「完了した映像」を再び模倣しわれわれの前に提示することで、それに待ったをかける。ミックの作品は、震災というものをわれわれ「理解」させるのではなく、それに「近づけ」させる。直接的な被災をしていない人間にとって、その体験を本当の意味で理解すること――つまり同じ体験をすること――は不可能である。ならば、われわれはそれをどう理解するか、それはそのものを「完了させない」ことである。〈消費−完了〉させないことこそ、われわれは、震災という経験を理解することに最も近づくことができるのではないだろうか。

|「見る」ことへの問い――アリエル・シュレジンガー『Untitled (Inside out urns)』、『The kid』

しかし、それはなかなか容易なことでない。それは映像メディアに慣れきってしまった現代人にとってはなおさらである。

岡崎会場春ビルに展示されているアリエル・シュレジンガーの作品を見たときに、私はそれを強く感じた。この作品は、割れた窓ガラスの写真とその割れたガラスによって構成されている。額縁に使われた割れたガラスは、鑑賞者に最も見やすい場所にあるにも関わらず、その窓ガラスが写真に写ったガラスであると瞬時に気づかない。われわれは、割れたガラスの写真を一目見て、大雑把な認識し「消費」してしまっている。

アリエル・シュレジンガー『Untitled (Inside out urns)』、『The kid』 *康生会場 春ビル

アリエル・シュレジンガー『Untitled (Inside out urns)』、『The kid』
*康生会場 春ビル

映像イメージになるということは、同時にそこに写されるモノが、実際にはそこに存在しないということを意味している。われわれは、無意識にそれを理解しているため、このようなことは気にも留めない。映像イメージを見ている鑑賞者とそこに写る被写体は、実際には同一の空間、時間にいることはなく、そこで映像イメージを見ているものにとっては、過去のものであるのだ。目の前に実際に存在している割れた窓ガラスは、写真に撮られた場所から空間移動しているだけでなく、過去から現在という時間をも移動している。〈かつてそこにあった〉ものから〈いまここにあるもの〉への変換。それはまるで、死者の蘇りとでもいうべき不気味さすら感じる。 映像イメージのもつ〈かつてそこにあった〉という性質は、〈それはいまここにない〉という性質を内包し、われわれは無意識的に非現在性、非現実性を感じる。

われわれは被写体に共感し、鑑賞者自身に何かしらの感情が揺れ動いたときにそれを「見た」と思い込んでしまう。しかし、果たしてそれは、本当に対象を「見て」いるのであろうか。われわれの視線が真っ先に吸い寄せられるものは、〈かつてそこにあった〉映像イメージであり、映像の世界を抜け出して、映像よりも近い位置――鑑賞者の目の前――に身を置く〈いまここにある〉割れた窓ガラスは、イメージに遅れてわれわれに認識される。現在性、現実性が低いものに、われわれの志向性は向かってしまうというこの逆転現象。映像はいつから実在に先行するようになったのであろうか。それが果たしてどのような問題があるのか。シュレンガーの割れたガラスは、無言の問いかけを投げかけている。

震災を通し、われわれの環境は激変した。それをどう感じているかは、個人の感覚により異なる。アーノウト・ミックやアリエル・シュレジンガーらの作品を通して感じたことは、われわれを取り巻く映像世界の変化とそれを認識するわれわれの感覚の変化である。〈消費―完了〉という無意識のプロセスの中でわれわれは、多くのものを捨て、剃り落している。私たちは、果たして何を見て、何を見ていないのか。あいちトリエンナーレはそんな問いを福島から450キロメートル離れた街から発信している。

|開催情報

あいちトリエンナーレ2013「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」
会期:2013年8月10日(土)~10月27日(日) 
会場:〔名古屋地区〕愛知文化芸術センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場、中央広小路ビル、オアシス21、名古屋テレビ塔など
公式サイト:http://aichitriennale.jp

|執筆者プロフィール

影山 虎徹  Kotetsu Kageyama
1990年静岡県生まれ。愛知大学文学部人文社会学科西洋哲学専攻を経て、現在は立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻前期課程在籍。 ロラン・バルトを中心に映像イメージについて研究中。