【Review】『こわれゆく女』ジョン・カサヴェテス レトロスペクティヴ text 指田文夫


1975年に作られたジョン・カサヴェテス監督、ジーナ・ローランズ主演のこの映画を見て、すぐに思い出したのは、藤田敏八監督、秋吉久美子主演の1973年の日活映画『赤ちょうちん』である。『妹』『バージン・ブルース』と続く秋吉・藤田三部作の一作目で、『妹』ほどではないが、なかなか興味深い作品だった。秋吉は、高岡健二と偶然に東京で出会い、一緒になり子も作るが、次第に精神を病んでいく。それは、唐十郎の状況劇場や石橋蓮司の第七病棟の芝居が展開していた、都会の底辺にうごめく無名の男女の「地獄めぐり」をソフトにしたような物語だった。


















(c)1977 Faces Distribution Corporation

このカサヴェテスの作品は、地獄めぐりというよりは、主人公メイベル(ジーナ・ローランズ)の夫ニック(ピーター・フォーク)は、役所の土木監督であり、日本より遥かに階級社会の米国では、一生を労働者として生きてゆく者たちであり、そこには上昇も下降もなく、地獄も天国もない。

夫との二人だけの夜を過ごそうと、3人の子供を母親に預けたメイベルに、ニックから緊急作業の電話が入る。淋しさに耐えかねメイベルは、バーで見知らぬ男を引っ掛け、家に連れてきてセックスする。この辺りは、ダイアン・キートンが1977年に主演した『ミスター・グッドバーを探して』にも似ている。だが、表現は淡々としているが、より即物的でリアリステックである。

メイベルは、子を遊ばせている最中にも『白鳥の湖』のバレーに陶酔するなど 狂騒的で、次第におかしくなる様が極めてリアルに捉えられている。まるでドキュメンタリー映画のようで、ジーナ・ローランズの躁状態の演技はとても生々しい。

かつて中平康監督、石原裕次郎主演の1956年の日活映画『狂った果実』をパリで見たフランソワ・トリフォーは、その俳優たちの演技の自然さに驚嘆した。確かに『狂った果実』の石原裕次郎や北原三枝の演技は自然である。それは、中平康が持ち込んだ松竹大船の演技術であり、元を辿れば花柳章太郎ら新派の演技法である。それは「如何にして素で演じられるか」というもので、その極意は常に台詞や行動を忘れ、その場で今生まれたかのように演じることである。



















(c)1974 Faces InternationalFilms,Inc.

この『こわれゆく女』でのジーナの演技がどのように編み出されたか私は知らないが、当初この映画をカサヴェテスは戯曲として書いたそうだ。だが、それを読んだジーナの、「毎日舞台で精神を病む女の役をシリアスに演じることは無理だ」とのことで、映画になった。撮影は、ロスアンゼルスにあった実際の家を借り、週6日間、13週間にわたって行われ、映画の時間軸どおりの「順撮り」で撮影された。ドキュメンタリーではないかと思われるほど生き生きとした演技だが、そこに即興はほとんどなかったらしい。このジーナの病状は、躁病か統合失調症だと思うが、アルコール依存症の患者と家族が、あるいはD・V(ドメスティツク・バイオレンス)の男女らが、多くの場合「共依存」であるように、このピーター・フォークが演じるニックの「おかしさ」も相当だと思われる。

ついに、ジーナは精神病院に入院し、6ヶ月後に帰ってくる。その時、彼女から言われた病院の療法が、作業療法と電気ショックというのだが、本当だろうか。日本でも1950年代までは、電気ショックやロボトミー手術も行われたが、1970年代のアメリカで電気ショックがあったとは少々信じられないが。

退院を祝いに来た友人たちを強引に帰して二人は、子供たちを寝かせ、やっと二人だけになる。それはジーナが客の前でつい言ってしまう「早くセックスしたい」との本能に過ぎないのだろうか。この作品に社会的意味を見出しても意味はない。これは成瀬巳喜男の作品が常にそうであるように、結末がなく「救いのない」のが人生というものだとカサヴェテスも言っているのではあるまいか。

「ジョン・カサヴェテス レトロスペクティヴ」
5月26日より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
オフィシャルサイト  配給:ザジフィルムズ


指田文夫 1948年東京大田区生まれ。大衆文化評論家。演劇評論家として1982年から、音楽雑誌『ミュージック・マガジン』に劇評を執筆中。著書に『いじわる批評、これでもかっ!―美空ひばりからユッスーまで、第7病棟からTPTまで ポピュラー・カルチャーの現在』など。