【リレー連載】列島通信★山形発/移民/越境者を見つめること、その「観客」として text 畑あゆみ

『Foreign』(2012, Miriam Fassbender)

 3月28日から31日の4日間にわたり、第1回ベルリン国際映画祭in仙台が開催された。世界三大映画祭の一つベルリナーレが公式にバックアップする世界でも稀な映画の祭典であり、震災から2年を経た仙台の地で、近年のベルリン映画祭のジェネレーション部門上映作品から日本の子供たち向けに厳選された作品が上映され、また関連イベントやワークショップも多彩に開催された。

その2日目、『ローカルからグローバルへの視点~クリエイティブ産業における、地方都市の役割とその可能性』と題した特別シンポジウムが行なわれ、観客として参加してきた。登壇者は、今回のメインゲストであるベルリン映画祭ジェネレーション部門ディレクターのマリアンヌ・レッドパース氏、映画作家ヤン・ヨンヒ氏、地元仙台にスタジオを構えグローバルに映像製作を展開している亀田和彦氏、そしてモデレーターは東京国際映画祭ディレクター矢田部吉彦氏である。各氏のお話は、映画祭の特殊性や作家との関わり方、世界に向けて地方からビジュアルデザインを展開することの意義などそれぞれ示唆に富みおもしろかったが、その後のディスカッションの中で特に興味を引かれたのが、最近の映画祭で増加傾向にあるという「移民」「越境」というキーワードである。偶然ながら、このサイトの江口由美氏による今年の大阪アジア映画祭についてのレポート・後篇のなかでも、そのラインナップの特徴として「越境」が報告されている。同じテーマについて断片的に考えを巡らせた本稿は、その短いドキュメンタリー番外編のようなものと捉えていただければ幸いである。

さて、確かに近年、このテーマの作品が世界各国で高い評価を受けている。それもやはり女性監督の活躍が目立つ。ヤン・ヨンヒ監督のドキュメンタリー2本『Dear Pyongyang』『愛しのソナ』はベルリンを始め各国の映画祭で上映され、そして昨年の『かぞくのくに』が、国内でもキネマ旬報、映画芸術2誌のベストテンで一位に輝いたのは周知の通りだ。また、前回の山形映画祭2011のインターナショナル・コンペティションで上映された作品にも二つ、移民、越境者を取材した作品があった。

ルーシー・シャツ監督夫妻がイスラエルとパレスティナの政治的・軍事的軋轢の狭間で過酷な生活を強いられる家族に密着し、大賞に輝いた『密告者とその家族』、そしてこれは女性監督ではないが、ウクライナの激動の歴史に翻弄されながら現在はドイツでドストエフスキー文学の翻訳者として生きる女性を描き、優秀賞を獲得した『5頭の象と生きる女』。これら2本は山形だけでなく世界中の映画祭で賞を与えられている。さらに、筆者が昨年訪れた映画祭のうち、6月のベルリン・ドキュメンタリー・フォーラム2では、『Foreign』(2012)という作品に出会った。これはドイツ人女性監督ミリアム・ファスベンダーによるドキュメンタリーで、欧州でよりよい生活を送り家族を養うために故郷マリを出てアルジェリア、モロッコの港へと危険な密入国の旅を続ける貧しい青年に密着した作品だ。その日暮らしの旅路でしばしば地元民から迫害を受けたりもする彼と彼の仲間たちに対し、かたわらで見守る監督ら撮影クルーがどう距離をとり、その関係性を保ち続けたかが議論を呼んだ労作であった。

そして10月に行った中国の杭州アジア映画祭では、台湾の作品『Money and Honey』(2011、監督Lee Ching-hui)が印象に残っている。AND(Asian Network of Documentary)ファンドを獲得して製作されたドキュメンタリーで、家族を養うため台湾に渡り、医療機関での介護の仕事で出稼ぎ生活を送るフィリピンの貧しい家庭の女性たちを10年以上にわたり追った作品だ。同郷の仲間たちと支え合い、家族に再会する日を夢見ながら過酷な労働に耐える台湾での日常だけでなく、遠く離れて生活しているフィリピンの家族とのすれ違いや、挫折、帰国後の変化などにも丁寧に密着し、未来への希望と不安定さの中でもがく出稼ぎ労働者の実情を真摯に捉えている。

国家の歴史や政治、経済、そして実際に国境によって引き裂かれた一見特殊な家族の現在を見つめるこれらの作品には、ヤン・ヨンヒ監督もシンポジウムで語っていたように、その特殊性を「ずっと見続けること」で見出される「普遍性」――例えば家族の絆、愛情――が現れており、見る者の心をダイレクトに打つ。だがそれ以上にこれらの作品に明確に刻まれているものは、ますますグローバル化する高度資本主義経済下での人の移動の切実さだ。移民や移住者を取り上げたドキュメンタリーは昔から製作されてきたが、2000年代に入り、それはこれまで以上に身近でリアルな題材になりつつある[i]。強力な市場の原理に支配された現在の世界と人を動かしているものはまさにMoney(資本)とHoney(家族・愛)であり、この二つは一体化しもはや切り離すことは不可能だ(「No money, no honey!」とあっけらかんと歌うフィリピン女性たちのたくましさ!)。

家族と自分のよりよい未来、より豊かで安定した生活を求めて、国の境界をやむにやまれず超えていく人々のまなざしは、まっすぐ先進国、あるいは周囲のより富める国へと向かっている。そして彼らの「外の世界」に向かう意志は、A.アパデュライの謂いに従うなら、噂や伝聞の類から電話、テレビ、インターネットまでを含むメディアを媒介として、重層的に膨らんだ想像性のもとで醸成されたものだ。近年貧しい国でも爆発的に普及している携帯電話やスマートフォンが、情報やモノの拡散を加速し人々の移動をますます活発にしているのは言うまでもない。だが例えばヤン・ヨンヒ監督作品に出てくる、平壌に暮らす姪の少女の靴下に縫い付けられたミッキーマウスのアップリケでさえも、そうしたメディアの一つになり得る。日本からのお土産であろうその靴下は、米国で暮らす叔母や日本の祖父母との交流とともに、彼女に外の世界への憧憬、想像を膨らませる媒介物となるだろう。

これらの映画はすべて、いわば透明な覆いのように世界中に遍く浸透する市場経済の巨大な渦の姿を、具体的な形で私たちに垣間見せてくれる。そしてその映画自体が、グローバルな資本流通の恩恵を受ける主要なメディアの一つであることも忘れてはならない。高い評価を受けている上記の越境ドキュメンタリーもまた、国際的な映画祭や配給網に乗り、今後世界各国、主に北半球の豊かな国々の多くの観客の目に触れつづけることになるだろう。そこでの観客は、映画の中の越境者を「迎え入れる」側の人々であり、目指される側に立っているのだが、もはや映画館の暗闇の中で一時の優越感に浸っているだけではすまされない。彼らは隣人であり、自分の未来の同僚、友人、家族となることもあるだろう。自分自身も同じように越境者となる可能性もある。いまだ「移民に対して閉鎖的」と批判されるこの国に暮らす私たちももちろん例外ではない。映画とは何よりもまず「見る」ことであり、他者の身体を見ることは、共感以上に深い情緒的・肉体的反応を自分自身の内に抱えることである、とメルロ・ポンティの「受胎」概念を引きながら説いたのは記録映画作家デヴィッド・マクドゥーガルだが、日々生まれているこの越境者という一見遠い存在を、人々に単に想像<イメージ>させるだけでなく自分の一部として引き受けるよう促す力が、映画にはあるのかもしれない。

『Money and Honey』(2011, LEE Ching-Hui) /写真提供:杭州アジア映画 祭(HAFF)



[i]     実際、山形国際ドキュメンタリー映画祭では、1995年以降毎回、2つあるコンペティション部門のどちらかで「移民」「移住」をテーマにした作品が上映され続けている。

【執筆者プロフィール】

畑あゆみ(はた・あゆみ)
愛知県生まれ。専門は記録映画史研究。2011年4月より山形国際ドキュメンタリー映画祭山形事務局勤務。発売中の『neoneo 02』に小川プロの山形作品について小論を寄稿させていただきました。10月開催のYIDFF2013に向けて準備も鋭意進行中です。