【Report】90歳のジョナス・メカスを追いかけて 第1回(全3回)~パリ・前編~ text 小山さなえ

2012年のクリスマスイブに90歳の誕生日を迎えた、ニューヨークを拠点に活動するリトアニア人映像作家、ジョナス・メカス。そのカリスマ性で世界中にファンを持つ。名前は知っていたが、私が彼の映画をきちんと観たのは、たった1年半前、彼が88歳の時に制作した『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』(2011)が初めてだった。その時の感動は表現し難く、見終わった時の圧倒的な幸福感に包まれる感覚が、未だに忘れられない。「この世はもっと素晴らしいのかもしれない」そう思わせる、肯定感あふれるメカスの世界の捉え方に、私は魅了され、とりことなった。

パリ、ロンドンの著名な美術館・ギャラリーは、彼の長年に渡る功績を称え、回顧上映や新作上映を含めた個展を2012年12月の目玉企画として用意した。この一大イベントを追いかけた記録を「パリ前編・後編」と「ロンドン編」の3回に分けて、寄稿させて頂く。
(作品画像以外の写真は全て撮影:小山さなえ)

 

ポンピドゥー・センターの壮大な上映特集企画のオープニングを飾ったメカス作品一挙上映

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(上)企画展の予告動画(さすがパリ!とてもオシャレ)

ジョナス・メカスの過去最大の回顧上映(新作を含め74本上映+365日プロジェクトのビデオ上映など)がパリ・ポンピドゥーセンターで開催されると知り、初期作品をフィルムで見られる貴重なこの機会を逃せる訳もなく、パリに飛んだ。

今回の企画はポンピドゥー・センターが、バルセロナ現代文化センター(CCCB)によって過去に制作された映画シリーズ『往復書簡』(2006年/ヴィクトル・エリセ×アッバス・キアロスタミ組に始まり、映画監督2名1組が互いに映像を文通のように交換する企画)を拡張したような内容となっている。今後、数年に渡り、『往復書簡』シリーズの作品とともに、その作品を制作した2人の監督の旧作をも全て網羅して上映していく、とてつもないプロジェクトの一環。その先陣を切ったのが「ジョナス・メカス×ホセ・ルイス・ゲリン」(2012年11月30日~2013年1月7日開催)だったのだ。

メカスのレトロスペクティブでは、70本を超える(内容・尺・素材も多様)作品を、特定のテーマに関連付けて整理された26プログラムが上映された。(1プログラムで複数の作品を鑑賞する形)。

メインの上映は美術館内の2つの劇場で交互に上映される一方、広い美術館を利用し、地下1階のFORUM会場では、メカスのインターネット上で公開された『365日プロジェクト』を投稿月ごとに見せるモニターがずらっと並び、その横では、メカス自身を対象とした第3者によるドキュメンタリー作品が複数ループ上映されていた。対照的に、ゲリン作品も反対側のスペースで、独創的な方法で上映されていた。全く異なる個性を持つ、才気溢れる両者へのリスペクトがひしひしと感じられるプレゼンテーションだった。勿論、両監督による本企画のメイン映画『往復書簡』の映像は、奥の広い上映スペースで全会期中、無料で上映していた。

(上)メカスがインターネット上で公開した「365日プロジェクト」。月ごとにモニターで自由に鑑賞可能。                     (下)ホセ・ルイス・ゲリンの無料上映スペースでは、独特の映像美が際立つよう趣向を凝らしていた。

 12月のポンピドゥーは長蛇の列で、冬空の下、みな1時間以上並んでいる。「これがみんなメカス目当てなら、パリは凄いな」と思いつつ尋ねると―『ダリ展』の行列だった。回顧展ではメカスがダリの「ハプニング」を一緒におどけながら撮影した映像を含む作品” In Between”も上映された。撮影から半世紀後、こういった形でダリと再会し、ほくそ笑むジョナスの顔が思い浮かぶ。

メカスは本当に稀有な人生を歩んだ人だ。22歳の時に反ナチ活動の一環で地下新聞を発行していた際、タイプライターを盗まれ、発覚したら投獄という恐れから、弟を連れ、故国リトアニアを離れ、ウィーンを目指す。しかし、道中、ドイツ軍によって難民キャンプに収容され、強制労働を余儀なくされる。4年に渡る難民生活を転々と送ったのち、1949年にニューヨーク(以下、NY)へ辿り着き、難民として受け入れられる。到着して2週間後には、フィルムカメラを手に入れ、言葉も分からない、新天地での日々を日記のごとく撮影した。そして、同郷の前衛芸術家のジョージ・マチューナスとの親交を通じ、オノ・ヨーコ、ジョン・レノン、アンディ・ウォーホール、アレン・ギンズバーグなど時代の寵児と次々と出会う。その交友関係は凡人の想像を遥かに超え、なんとケネディ家にまで及ぶ。ケネディ暗殺後、父親を失った子供たちがふさぎ込まないようにと、ジャクリーヌ・ケネディに頼まれ、ある夏には、ケネディ家の別荘で子供たちと一緒に遊びながらカメラの使い方を教える日々を送るに至る。

映像の世界に魅せられた彼は、自らアンダーグラウンド映画に光を当てるべく、映画批評誌への寄稿、個人映像作家のための活動母体や劇場を用意するために奔走し、映像制作も精力的に行った。紆余曲折を経て辿り着いた地で、彼は当時のNYカルチャーのエッセンスをすべて吸収し、自らの創作に生かし、時代の寵児となっていった。

写真上:1964年にダリの『ハプニング』を収めたフィルムより。
In Between 1978, Mekas and Salvador Dalí, fooling around during one of Dalí’s “happening” events, l964 © Jonas Mekas
写真下:故ジョン・F・ケネディの子供たちと。
This Side of Paradise 1999 © Jonas Mekas
 

(上)企画展パンフレット。両表紙でそれぞれの作品紹介が展開され、真ん中で2人が出会う作り。

メカス映画はドキュメンタリー映画なのか?

「日記映画」とも呼ばれる、日常で出会う人々や風景を収めただけの映像が、どうしてここまで人の心を打つのか。それは「詩人の目」を通して世界を再構成して見せてくれるからだと思う。ただし、この作風も一朝一夕で確立されたのではないことが旧作群を観ると分かった。

『営倉/The Brig』(1964) © Jonas Mekas

特に現在の作風に至る前の、初期の作品には度肝を抜かれるものが多い。1964年にヴェネチア映画祭でドキュメンタリー部門金賞を受賞した『営倉/The Brig』を今回の特集上映で初めて見た時の衝撃は凄かった。

アメリカ海軍の日本基地における「しごき」の1日を映した本作は、人間の非情な暴力性を際立たせた作品で、バイオレンスに弱い私は途中退出を考えたくらいだった。同時に、こんな残虐な作品をメカスが果たして本当に撮ったのか、という疑念が頭をよぎり、最後まで目を逸らしながら観ていると、驚くべく真実がラストに待っていた(ネタばれを避けるため詳しくは書けないが)。



フランスの映画批評誌「カイエ・ドゥ・シネマ」は65年に、端的にその凄さを表す評を掲載している。「この映画を観終えた者は、2度とこの作品を観ないと誓うだろう。このスペクタクル映画が持つ衝撃を2回は味わうことは不可能だ」

メカスの映画はジャンルを超越し、決して「ドキュメンタリー映画」という既存の枠にはまらないが、鑑賞者はその枠に当てはめて映画を観ようとする。『リトアニアへの旅の追憶』(1972)上映後、観客とのQ&Aで、それを象徴する面白いやり取りがあった。

メカスはよく自らの経験に纏わる『アネクドート(逸話)』を披露する。『逸話』である以上、誇張もあれば、虚実入り混じる。その時に披露した逸話は、リトアニアへの一時帰郷が許され、撮影していた際に、当局にはスパイだと思われ、数十メートル先では旧ソ連側の役人たちが見張り、頭上にはヘリコプターが偵察していた、というものである。冷戦時代の真っただ中、メカスの交友関係を考えると嘘とも言い切れない話ではある。

ただ、パリの若い女性は疑問を呈した。「本当に頭上にヘリがいたのなら、どこか映像の中に一瞬でも入れ込めたのではないか?」「そんな悠長な時代じゃない、あの時代は凄かったのだから」と弁解するメカス。しかし、彼女は納得しない。

私はこのやり取りを観ていて、「なるほど、この女性はメカスの映画を観て、「ドキュメンタリー映画=事実を捉えた映像」と思っているのか。だから、メカスの発言にも納得がいくような真実性が無いと許さないのか……」と彼女が訝る様子を理解できた。

映像の中のメカスに多くの人は騙される。いつも呑んで、歌い、笑っている実直な好々爺に映る。勿論、そういった面もあるが、実際に会場で会ったメカスは、無駄に話はせず、じっと人の話に聞き入り、どちらかというと強面で眼光鋭い。そして、何よりも彼は映像作家である前に、詩人なのだ。彼の映画では、世界は彼の「詩人の目」を通して緻密に再構成・編集され、映し出される。重要視されているのは決して「事実」ではなく「人生における本質的な意味を感じる瞬間や美しさ」だ。フィクション、ドキュメンタリーの枠を軽々と超え、彼の映画は常に緻密に自由に作られているのだ。

『樹々の大砲/The Guns of Trees』© Jonas Mekas

最初で最後の劇映画『樹々の大砲/Guns of Trees』(1962)も興味深かった。4人の男女がなぜ友人の女性が自殺したのかを理解しようとする話で、現在と過去を行き来しつつ、非連続で断片的な話をアレン・ギンズバーグの詩の朗読で包括していく、当時の時代のエッセンスを存分に入れ込んだ意欲作。

タイトルは、詩人のStuart Perkoffの詩の引用で、1960年代の若者が感じていた、世界の全てが彼らに敵対してみえた雰囲気を「公園の木や街路樹でさえ、自分たちの存在に向けられた銃先に見える」と表現したことに由来する。作風は尖っているが、メカスらしく抒情的で人間愛に溢れた作品。ただ同時に、なぜ彼がこの後、一切、劇映画を作らなくなったかも理解できるような、方向性を決定づけたような印象を抱かせる作品でもある。(本作を見ていて、それまでメカスが培ってきた即興的な映像作りに対して、劇映画の枠はいかにも窮屈そうだと感じたのだ。枠に収めようとするが、内破してしまった様子が、どうにも映画としての美しさにつながっていないのだ。)

多くの未公開作も上映された。メカスは当時のNYの前衛イベント、才気溢れる劇作家による舞台、強い煌めきを放つ芸術家仲間を映す一方、道で毎日政治的プロパガンダのチラシを配る女性活動家、若者たちによるデモなど、その時代の強いエネルギーをフィルムに収めていた。作風も様々で、映像による記録性を優先したもの、コンセプトに徹したものなど、意外な作品も見ることができた。ある雑誌社から宣伝用に映像制作を依頼されたが、自由に作りすぎて途中で打ち切られた、曰くつきの作品などもあった。

新しい映像のあり方を積極的に肯定し、多様な表現に挑み続けた結果、現在のスタイルに辿り着いたということが分かるような、過去の努力がしのばれる作品群だった。メカスは「天才」であり、努力の人だった。

ピップ・ショードロフ氏。Re:Voirショップにて

「芸術家が天才かどうかは『長生きするかどうか』で分かるんだよ(笑)天才は創作で寿命をすり減らすことはないから」と私に教えてくれたのは、メカスをサポートする映像作家のピップ・ショードロフ氏。アメリカ人だが、パリで映画を学び、パリで前衛作家たちの作品の上映・保存を推進するメカスの同志である。(Re:voirという出版社の代表でもあり、自身も『フリー・ラディカルズ―実験映画の歴史』という作品を発表。2012年の恵比寿映像祭上映時に来日。)

今回のポンピドゥーの回顧展が実現したのも、実は彼の縁の下の努力があったからだ。

ショードロフ氏によると、元々、ポンピドゥーのコレクション部門ではメカスの作品を幾つか購入していたので、中規模の特集上映企画を担当者と相談していたところ、もっと予算のある映画部門が大々的な回顧展を企画していることを後から知り、驚いたという。そこから彼は俄然忙しくなった。NYのメカスの自宅で、全ての作品について確認を取りながら全作品を網羅するフィルムカタログを作った。ある映画はタイトルが変わり、メカスが気に入っていない作品はお蔵入りし、と整理され、現時点での最新版のフィルムカタログが完成した。

メカスの周りには、プロジェクトを支える同志が常にいて、無償で彼を支えている。作品だけでなく、その在り方もとても稀有な人なのだ。

 メカスの作品の話に戻るが、今回の特集上映を見て、必ずしも全ての作品を素晴らしいと思ったわけでもない。例えば、“My Paris Movie”(2011)。20年前にメカスのパリ初の個展を企画した、パリ・ジュ・ド・ポム(Jeu de Paume)国立ギャラリーの長年の友人、ダニエル・イボンの依頼によって制作された長編。見るのを楽しみにしていたのだが、今ひとつ期待外れだった。彼の敬愛する歴史的なパリの詩人や哲学者への賛美や仲間たちとの戯れなど、面白いのだが物足りない。他にも依頼を請けた形で制作された作品を幾つか観たが、どこかメカスの持ち味であるキレやリズムが見られないものが多い。商業的に映画を制作することを拒み、常に自らにのみ依って生きた作家ゆえか、自身の強い発意が伴わない制作では、本領が発揮されないのかもしれないと感じた。



パリのシネフィルと観る、メカス映画。そこは一種のユートピア。

パリのシネフィルたちと一緒に夜な夜なメカス映画を観る日々は愉しかった。1本上映が終わるたびにフィルムチェンジで場内の明かりがつくので、観客も気楽に途中退出できた。とはいえ、多くの人は、1本でも多く観ようと劇場に最初から最後まで残る。しかし、彼の映画は詩のリズムに近く、俳句のように短い作品もあれば、5時間近い叙事詩・抒情詩的なものもある。メカスの自由奔放な作風に、皆、振り落とされまいと喰らいついていたようにも思う。

パリの観客は皆、構えず、映像に対し、直観的に笑い、ため息をつき、拍手をする。鑑賞の仕方も、集う人もさまざま。何も起きないメカスの映画に飽きた若い女性が携帯をチェックしだすと、遠くからオバサンが怒鳴る。かと思えば、そのオバサンがこの貴重な機会を逃すまいと、ICレコーダーに音と解説を録音し出す。ポエティックな映像や音楽をバックグラウンドにイチャつくカップル。いつも一緒に並んで鑑賞を楽しむ、仲良しの初老シネフィル仲間たち。古いフィルムゆえに、トラブルも続出。映らなかったり、音声や字幕が消えたり。しかし誰も慌てず、騒がず。いつも誰かが映写室に静かに乗り込んでいくと、5分ほどで解決し上映が再開される。

12月のパリはいつも灰色の雲がかかり、最後の映画が終わる頃には外は真っ暗で、風も冷たかった。けれど、毎日1日3本以上観ていると、一日の終わりには、いつもメカスの映画体に沁みわたり、どこか非現実的な感覚に包まれて幸せだった。色んな人たちがメカス映画の持つ不思議な魅力に惹きつけられ、集い、映画を観る一体感は、一種のユートピアのようだった。こんなとてつもない映画上映企画を成立させたパリという土地は、やはり芸術の都なのだとひしひしと感じた。

ちなみに、今回の企画展に合わせ、アニエス・ベーの映画レーベルとの協力でDVDボックスも発売された。これまでメカス作品は(フィルモグラフィの)全貌が掴みにくく、簡単には鑑賞することができなかった状況を考えると、「次世代に自分の作品を見てもらいたい」と強く願うメカス自身にとっても、嬉しいプレゼントだったに違いない。

(続く)

【執筆者紹介】

小山さなえ(こやま・さなえ)
1978年生まれ。慶応義塾大学卒業後、(株)リクルートで広告営業等を経て、映画配給会社で映画バイヤー等を数年経験後、フリーランスで国内外の映画祭広報・コーディネート・アテンド・翻訳、通訳業などに携わる。海外放浪癖あり。