【投稿】『花火思想』について語るときに我々の語ること text 渡辺祐一

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こんにちは。渡辺と申します。
映画の配給・宣伝を生業としています。プロの物書きではありません。
にもかかわらず、いまから『花火思想』という、たいへん魅力的な一本の映画にドライブされて、自分でもよくわからないことを、よくわからないままに書き連ねてみようと思っています。それで果たして「neoneo web」読者のみなさんに楽しんでいただくことができるのかどうか、実はずいぶん心細いのです。
ですから、まあ、とにかく最後までお付き合いいただけたら幸いです。


さて、縁あって試写会で映画『花火思想』を観た。
2014年1月8日の夜のことだ。

「コンビニでアルバイトをしながら、うだつのあがらない毎日を送っていた優介は、夢に出てきた馬の面を被った男のことが頭から離れずにいた。ある日、昔組んでいたバンドのメンバーと再会するが、それは忘れようとしていた過去との再会でもあった。恋人が拾ってきた不気味な人形、ホームレスの男、馬の面、聴こえない音楽。そして優介は、夢の男に導かれるように此処ではない何処かへといざなわれていくのだったが……。」
そうチラシに書かれたあらすじだけを読んで、『花火思想』が「たいへん魅力的な映画」だと期待することは難しい、と思う。

実際に、せっかちな私は上映がはじまってすぐに、来たことを後悔しはじめた。
語られた台詞、撮られたショット、説話のありかた、それらのどれをとっても既にどこかで見たことのある、聴いたことのある何かに似ていて、観ているこちらが気恥ずかしくなるようなクリシェの連続だった。

にもかかわらず、だ。どうしても最後まで画面から目を離すことができなかった。計ったわけではないけれど、体温が平熱よりも高くなっていたのだと思う。ひどく喉が渇いた。そしてエンドクレジットを眺めるころには、「傑作」という言葉をもう少し節約しながら生きてくればよかったと、後悔さえしていた。
映画とは、その部分の総和以上の何かであるということをあらためて思い知らされた。

あれから2週間が経った今も、この映画がなぜあれほどまでに面白かったのか、よくわからない。今もその理由をひとりで考えあぐねている。

そもそも私は、あの晩、いったい何を観たのだろうか、と。

このような幸福な映画体験はそうそうあるものではないから、一人でも多くの人に、映画『花火思想』を観てもらいたいと思っている。

とはいえ、私は、私の手持ちの語彙や統辞法では、この映画の魅力をみなさんに十全に伝えることができない。なぜか?

もちろん、私の文章力がその任に堪えない、というのがその大きな理由のひとつだ。
しかし、そればかりではない。より決定的な理由が、二つある。

まず第一に、先に私は「この映画がなぜあれほどまでに面白かったのか、よくわからない」と書いた。「よくわからない」ことを無理やり手持ちの言葉に置き換え、多くの人に伝えようとするとき、私には、私なりにかろうじて「わかること」だけを選択的に書き連ねてしまうという悪癖がある。畢竟そのようにして綴られた文章からは、「よくわからない」がゆえに持続している魅惑の痕跡がいつのまにか姿を消し、一本の映画の力をただただ縮減されたかたちで記述してしまうからだ。
そのようにして映画を論じるのは不当なことだし、そのようにして書かれた文章が、人をスクリーンへと誘うことはない、ということを私は経験的に知っている。

そして第二に、これがもっとも決定的な、身も蓋もない理由なのだが、「みなさん」などというものは、そもそも現実には存在しないからだ。
いや、ここでは「みなさん」を一網打尽にできる文章など存在しない、という程度の表現にとどめるべきなのかもしれない。

ずいぶんややこしい話になってきてしまって、申し訳ない。
しかし、心配には及ばない。おそらく。

なぜならば、映画の配給・宣伝を生業としていると、このように「すごく面白い映画があるけれど、私の力ではその魅力をみなさんにうまく伝えられない」という事態に直面することは、さして珍しいことではない。むしろこのような問題を解決することが、私とその同業者たちとの「ほとんど唯一の職務」だと言ってよい。

だから、完全な解決策とは言わないまでも、いくつかの次善策のようなものがある。

まず、「私」にできないのであれば、「誰か」に託せばよいのである。
然るべきライターや批評家に、あるいは記者や編集者に作品を見せ、然るべき媒体にレビューなり批評を掲載していただけばよい。
そして、一本の映画をめぐってより多くの文章が書かれれば、その魅力がより多くの人に伝わる可能性は、高まる。うまくいけば、その数を「みなさん」へとむけて、こつこつと積み上げていくことができる。もちろん、うまくいかないときもある。けっこうある。
(正直に「うまくいかないときのほうが多い」と書くと、職業的背任になりかねない)

しかし、ここでは上記の方法をとることはできない。なぜなら、傑作『花火思想』は、幸か不幸か、私とその仲間たちとの配給・宣伝作品ではないからだ。私は、ボランティアで試写会をひらき、宣伝業務を行うだけの資産も時間も権利も、気前の良さも、持ち合わせてはいない。申し訳ない。

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そこで私は試みに一計を案じてみることにする。
まずは、この映画の魅力を「みなさん」にではなく、『花火思想』を撮った大木萠監督に伝えてみるのだ。

幸いにも、彼女から試写の翌日、次のようなメールを頂戴した。

渡辺さま
 
昨日はお忙しい中、『花火思想』の試写会にお越し頂きありがとうございました。
ゆっくりご挨拶できずに申し訳ありません。

この作品を観て、どうお感じになられましたでしょうか。
改めてご感想などいただけると幸いです。
 
稚拙な作品ではありますが、これが全てだと思っています。
 
公開に向けてこれからも精進してまいりますので、
今後ともよろしくお願い申し上げます。

大木 萠
2014/01/09 (木) 20:53

そして、次のような返事を出した。しかし、それを書いたのは私ではない。「僕」である。

「私」もまた「みなさん」がそうであるように、それほど自明な存在ではないということなのだが。それはそれとして。

大木萠さま

ご丁寧に恐れ入ります。
先日は映画を観させていただき有難うございました。
お返事遅くなり、ごめんなさい。

映画を観たというよりも、映画に殴られた、そんな体験でした。
あの映画を観た後では、車のフロントガラスにぶつかって死んだカラスの気持ちがちょっとだけわかるような気がします。ま、それはそれとして。

以下、思ったことをつらつらと書いてみたら、ずいぶん長くなってしまったので、お時間のあるときにでも眺めていただければ幸いです。

まず、ずいぶん昔のことを思い出しました。
僕が生まれた町の夏の花火大会で、花火の筒が倒れて、見物客に向かって暴発し続けたことがありました。遠くから観ていた僕にとっては、(けがをした人にはたいへん申し訳ないけれど)とてもエキサイティングで美しい、初めて見る光景でした。でも、まさにその近くで花火に撃たれた人の話によれば、現場は阿鼻叫喚の地獄絵図。あまりにも理不尽な暴力だったんだろうな、と思うばかりです。

暴力と映画といえば、例えば『許されざる者』『プライベート・ライアン』『アクト・オブ・キリング』。どれもずいぶん暴力的で、とても面白い。大好きな映画です。でも、それらは暴力を描いた映画、暴力についての映画であって、「暴力そのもの」ではありません。いや、少なくとも僕個人に直接向けられた暴力ではないから、どこかで安心し眺めていられる。寡聞にして『プライベート・ライアン』の冒頭を観ながら、実際に蜂の巣にされたという人を僕は知りません。

さて、そして、『花火思想』。
これは参りました。あれは僕個人に直接向けられた暴力でした。胸ぐらを掴まれ、押し倒され、首根っこを押さえつけられ、ギターで殴りつけられた。
おかげで、いまも頸から右肩にかけてズキズキと鈍い痛みが残っています。
「そういうこと」ってあるんですね。

きっと『花火思想』を観て、「不器用で荒削りなところがいい」「若者ならではの、インディーズならではの魅力」「次回作を観てみたい」といったようなことをわりと平気に口にする人がたくさんいると思います。
(あくまで推測ですけど、きっとたくさんいるでしょ?)
僕は、そういう連中は、ぜんぶ嘘つきだと思うことにしています。

『花火思想』は、間違っても「ダイヤの原石」なんかじゃない。
そうではなくて、もうすでにどうしようもないくらいに削られて、擦られた、石。
なんの石かはわからないけれど。
で、それをどこかの誰かが、馬鹿みたいに力いっぱい投げつけた。
僕はそれを、とてもとても美しいと思いました。
ずいぶん、痛かったけれども。

人は、「そういうこと」ができる力のことを「才能」と呼ぶのだけれど、
そんなことは、まあ、もう、どうだっていいじゃないか。
だって「これが全て」なんだもの。

大木萌監督とその仲間たちに幸あれ!

渡辺祐一

2014/01/10 (金) 15:46



一読して私は、やれやれ、と思った。
ひどくいい加減な言葉づかいだし、「僕」がつかうほとんどの比喩がクリシェで、読んでいるこちらが気恥ずかしくなってしまう。しかし、共感できるところもある。私も「そういう連中」のことを快くは思っていない。「嘘つき」とまでは言わないが、少しばかり愚鈍で不遜だな、と思うことにしている。

そして、ともに『花火思想』にアディクトした我々は(というのは私と僕のことだ)、ずいぶん久しぶりに二人で話し合ってみることにした。

そもそも我々は、あの晩、いったい何を観たのだろうか、と。


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すると、細部においては、我々の記憶が微妙に、だが決定的に異なっていることを知った。我々は、映画館の同じ座席で、同じ角度からスクリーンを見つめていたにもかかわらず、だ。だとしたら、我々が観たのは、実際には存在しない何か、もはやこの世のものではない何か、だったのだろうか?

そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
けっきょく、今のところ、我々には、わからずじまいのままだ。

でも、ひとつだけ、あらたにわかったことがある。
うまく伝えられるかどうか自信はないのだけれど。
最後に、そのことを記す。

映画が、その部分の総和以上の何かであるように、
我々もまた、その部分の総和以上の何者かになりたいという、
密かな欲望に、『花火思想』は火をくべる。

けっこう気に入ったので、もう一度だけくりかえす。

映画が、その部分の総和以上の何かであるように、
我々もまた、その部分の総和以上の何者かでありたいという、
そんな儚い欲望が『花火思想』と共振し、倍音を奏でる。

「音のない音楽が聴こえる」とは、きっと「そういうこと」だ。

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【映画情報】


『花火思想』
(2013年/93分/HD/日本)

出演:櫻井拓也 久保健司 勇人 富岡英里子 四宮勘一 瀧口修平 渡辺美穂子 
金村英明 大六芳和 中村無何有 活野創 齋藤隆文 工藤淳一 金川高之 小林泰子 木村暉 岩澤秀平 芹澤興人 モロ師岡

制作:勝又健 鶴岡由貴 桑尾賢哉 小林宏彰
撮影:阿佐谷隆輔
照明:草彅秀興
照明助手:南馬越耕太郎
録音:野崎芳史 渡邊真司 今井真
美術・メイク:大沼史歩

プロデューサー:大木萠
製作・配給:すかいふぃっしゅ
宣伝:カプリコンフィルム
脚本:阿佐谷隆輔
監督:大木萠

公式サイトhttp://hanabishiso.jimdo.com/

1月25月(土)より渋谷ユーロスペースにてレイトショー!

【執筆者プロフィール】

渡辺祐一 (わたなべ・ゆういち)
1978年生まれ。ドキュメンタリー映画を中心に配給する合同会社東風の従業員。Image.Fukushima実行委員会東京事務局長。