【Interview & Report】鉄くずに怒りをこめて映画に託す――『鉄くず拾いの物語』ダニス・タノヴィッチ監督インタビュー&シンポジウムレポート

2013年のベルリン国際映画祭で最優秀男優賞を受けたのは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの寒村に住まう、演技経験のないある鉄くず拾いのロマ系の男性だった。男性の名前はナジフ・ムジッチさん。ロマへの差別と貧困のため、ムジッチさんの妻のセナダさんは、3人目の子どもを身ごもり、生命の危機にあったにもかかわらず、手術を受けることができなかった。

1月14日より公開の始まった『鉄くず拾いの物語』は、この事実をもとにして、『ノー・マンズ・ランド』で知られるダニス・タノヴィッチ監督が、ムジッチさん一家に彼ら自身を演じさせて作り上げた劇映画だ。最低限の資材と短期間の撮影で、ドラマとドキュメンタリーのはざまにたしかな手ざわりを残すこの作品は、ベルリンをはじめ各国映画祭で大きな話題を呼び、ムジッチさんはじつに定職と保険証を得た。

公開を機に来日されたタノヴィッチ監督は、12月10日の世界人権デーを前に開催されたシンポジウムにも登壇。インタビューとあわせてそのレポートをお届けします。なお、インタビューは「毎日.jp」誌、「映画.com」誌との共同でおこなわれたものですが、文責は聞き手の一人である筆者にあることをお断りしておきます。
(萩野亮/neoneo編集室)

※追加情報 「貧困の最優秀男優、独で難民申請却下 ボスニア出身ロマ「トロフィーは返却する」」(msn産経ニュース 2014/1/24)

 

ダニス・タノヴィッチ監督

ダニス・タノヴィッチ監督

――この作品を作ったきっかけからお聞かせください。

ニス・タノヴィッチ(以下DT) 自分は4人の子どもの父親でもありますが、それに加え、妻が一度流産を経験しています。それがどれほどつらいことかを身をもって知っています。それに加え、セナダさんの場合は自分の生命さえも落としかねない状況だった。その事実を新聞記事で知って、腹の底から怒りがこみあげてきて、理性というよりは感情的な理由でこの映画を作りはじめたんです。

――ナジフさん一家に会いに行かれたとき、最初にどういうお話をされて、この映画に出演を依頼したのですか。

DT まず起きたことをすべて、一日ずつ聞きました。そのときから映画にしたいと思っていたのですが、フィクションなのかドキュメンタリーなのか、その形式も考えながら、メモを取りました。そのほか彼らの生活だったり人生だったりについても伺いました。面白いのは、もともと新聞記事の主役は奥さんのセナダさんだったわけなのですが、映画ができあがってみると、よりナジフさんに寄り添った作品になったことです。それは、セナダさんの体調が悪く動けない状況であったために、代わりに彼が立ち回るという映画的なポジションにあったからです。

3度目に会ったときに、彼らに彼ら自身を演じてほしいと伝えました。あまり伝統的なドキュメンタリーの手法は採りたくなかったし、いっぽう長篇のフィクションだと数年はかかってしまう。ボスニアの映画状況では一本の作品の制作はなかなか簡単ではありません。そういったことから、自然な流れで彼ら自身をキャスティングしました。すでにそのころにはお互いに信頼関係ができていましたから、わたしの申し出に彼らも快諾してくれました。

――ロマ系の方々は、ボスニアでどのような暮らしをされているのでしょうか。

DT 今回の映画に登場する村は、すべてロマ系の人びとで成り立っていますが、これはかなりめずらしい居住形態です。ナジフさんやセナダさんによると、300年にわたって土地に根付いているといいます。一般的にいって、ロマ系の方々はその他のボスニア人に交じって町や村で生活しており、とくに隔離されているわけではありません。かつてジプシーとも呼ばれた彼らは、ノマドとして定住地をもたない人びともいますが、ナジフさんたちのように定住している方たちもいるわけです。

ただ、やはり彼らの生活水準は低く、町に暮らしていても、端のほうに住んでいる場合がよくあります。ノマドの名残りから教育水準も高くなく、就ける仕事もかぎられています。わたしが子どものころのことでおぼえているのは、ナイフの砥ぎ屋さんですね。あるいは、靴みがきのアンクル・ミーシャという有名な方がいるのですが、町に自分のテリトリーをもっていて、誰もが彼を知っているんですね。その目の前にマクドナルドができたのですが、そんな巨大企業をもってしても彼をどかすことはできなかったという話もあります(笑)。

――この作品は明確な脚本をつくらずに撮影に臨まれたそうですが、当局の女性職員との車中のシーンで「まだ戦争中のほうがよかった」というナジフさんの印象的なせりふがあります。あの一言も、ナジフさん自身からこぼれでたものだったのでしょうか。

DT せりふを脚本にして彼らに渡すということはしませんでした。ナジフさんと女性職員とは以前からの知り合いだったのですが、頻繁に会う仲ではなかったようで、30分ほどの車中で「最近はどうしているの?」という世間話を交わしていた、そのなかで彼が云ったことばです。

――車中のシーンでもうひとつ印象的なのは、何度も画面にあらわれる、もくもくと煙をたてる発電所です。

DT あれはユーゴスラビア時代に建てられた火力発電所です。社会主義の思潮のなかで、労働者階級を称える象徴的な意味をもっていくつか建てられたもののひとつです。ですが、いまとなっては労働者階級は不在であり、機能しないシステムのなかで取り残されています。あの発電所は、この国にとって過去のシステムの名残りであり、わたしにはどこかジョージ・オーウェルを想起させるのですね。人を人とも思わぬ非人間的なシステムの象徴であるように感じていて、今回の映画に取り入れたんです。

――この作品は、低予算、短期間という、長篇映画としては決してめぐまれているとはいえない製作環境で作られていながら、それを逆手に取るような見事な演出がなされていると感じます。とりわけ、電気の止められた家に帰ってくる終盤のシーンでは、照明をあえて使わないことで、彼らが暗闇のなかで感じているよるべなさを追体験するような印象をもちました。

DT 今回の作品制作が風変わりな経験であったことは間違いありません。こんなふうなやり方で撮ったことは一度もなかったし、自分にとってもとても新しい体験でした。そもそもわたしは、ボスニアの内戦時にカメラマンをやっていました。そのときに磨かれた本能というものが今回大いに役立っています。戦場では写真一枚撮るにしても、身を隠していてはよいものが撮れない。生命を賭け金にしながら撮影しなければならないわけです。自分が撮りたいものは何なのか、そのためにはどうすればよいのか、そういった計算を即座にしなければならない。そうしたことが身についていたことが今回とても役立ったのです。

今回、念のために照明を用意してはいましたが、けっきょく一度も使いませんでした。現場にあるものを使って撮るということも、戦場で身につけたことのひとつです。ナジフさんが車を解体するシーンも、わたしは直前まで知らなかったのですが、とても映画的だからぜひ撮らせてほしいと頼みました。あるいは車で病院に向かうシーンでも、ある朝フロントガラスに氷が張っていた、それをナジフさんに取り除いてもらうことで、彼らが生きている生活の厳しさが表現できた。そして、あなたがおっしゃった暗闇のなかを帰ってくるシーン。あの場面で、暗闇に蝋燭の光をもって入ってゆくそのさまがとてもシンボリックに見えた。そして、暗闇に光をもたらすのはほかでもないナジフさんなのです。

また、義理の母親が登場するシーンがありますが、彼女はカメラを向けると演技をしてしまうようだった。だから彼女のシーンだけは、急に訪ねてワンテイクで撮ったんです。

一般的な劇映画では、衣装から何からとても時間とお金をかけて作るわけですが、そういったことにわたしは少々飽きてしまっていたということに、わたし自身がこの映画を通じて知りました。今回の映画制作は、だからとてもファニーな経験だったんですよ。(了)

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