シンポジウム「映画『鉄くず拾いの物語』を通して考える「人権」とは」レポート
日時:12月1日(日)
会場:シネマート六本木3F
登壇者:ダニス・タノヴィッチ監督
根本かおる氏(国連広報センター所長(東京))
片柳真理氏(元上級代表事務所(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)政治顧問)
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――まずお二人には本作を鑑賞した感想からお願いします。
根本 コソボで出会ったロマの人たちのことを思い出しました。コソボの紛争はセルビア系とアルバニア系の対立で記憶されている方が多いかと思いますが、間に挟まれるかたちでロマの人が傷ついている現実があり、彼らはどちらか強い方につかなくては生きいけない。教育も受けられない。アシスタントとしてロマの職員を雇っていましたが、彼女はアルバニア系の同僚から差別を受けていました。そうしたことを思い出しながら本作を鑑賞しました。
片柳 ボスニアにしばらく住んでいたので、懐かしくなりました。ロマというよりも貧困によって権利が守られない現実を描いていると感じました。セナダは言葉は少なかったですが、それがより一層、医療を受けられずに傷ついている様を表していたと思いました。声をあげずに自分たちで苦しみを乗り越えようとしている人々は、現状まだ多くおり象徴的に描かれていたと感じました。
――12月10日は世界人権デーですが、ロマを含む少数民族の人権について、日本のみなさんにもこの場を借りて知って頂ければと思います。また本日は医療を受ける権利などについても、少しお話頂ければと思っています。まずはロマの人たちはボスニアでどのような存在で、どのような生活をしているのでしょうか。
ダニス・タノヴィッチ(以下DT) ロマには2つのタイプがあります。ヨーロッパ中を移動しているいわゆるノマドと、この映画の主人公たちのように定住しているロマです。ナジフたちは300年も前からあそこの土地で暮らしているロマです。私の中ではロマの人々は自分となにも違わないようにずっと感じています。サラエボ育ちですが、ご存知の通り民族が交り合っているので、同級生でもロマの人はいました。
撮影当初は彼らがロマであることを意識はしていなかったのですが、制作していくうちに、もしセナダが青い瞳で金髪だったら扱われ方が違ったのではないかと考えるようになりました。そして、残念ながら答えはきっと「YES」だったと思いました。我々が考えなければならないのは、我々も違う場所に行けば少数民族になるかもしれないという事です。きっと日本にも少数民族はいると思います。
根本 当時はコソボではロマの人々と接することがとても多かったです。国連の統計によると、現在ロマは1200万人いて、ヨーロッパで最大のマイノリティのグループです。ロマの方は高校を出ている人も少なかったです。教育を受けられない、また無国籍に近い状態の人たちも多いです。行政のサービスも受けられず、その日暮らしの仕事で生活を支えている人が多かったです。通常。国連は大学を出た人が、その後に働いたりしますがロマの職員は例外的に雇いました。
片柳 目の前でロマの方が差別を受けているのは見たことはないですが、厳しい生活をしているという事実は見ました。物乞いも少しビジネス化されていて、小さな女の子が夜に物乞いして、それを大人に渡すそういうビジネスになっていました。そして、ボスニアにおけるはっきりとした差別は、ロマに限らずムスリム、セルビア人、クロアチア人の主要3民族以外は「その他」とされ、選挙に立候補をする場すら与えられず、彼らは決して大統領にはなれないのです。民族と住む場所によって被選挙権が左右されるというほど、選挙制度はとても複雑で紛争後約20年たっても新しい制度がまだできていません。
――主人公のナジフさんが戦争に行ったにも関わらず恩給をもらえていないと話すシーンが劇中にありましたが、それは彼がロマだからですか、それともそれぐらい経済状況が悪いということでしょうか。
DT ナジフの恩給の件は複雑な問題です。高等教育を受けていないので、たとえ権利があっても行政にどのように求めればいいのかご存じでないのかもしれない。そういう方も多いです。個人的には、この件に関しては強い想いを持っています。自分も戦争に行きましたが、私は受給申請していません。なぜなら体も強いし国の為にまだまだ働けると思っているからです。国を作っていくような人々にどんどんと恩給を出してしまい働かなくなったという問題があり、これは復興が遅れてしまった原因の一つだと思っています。ボスニアの経済が遅れてしまった理由です。
5年、10年とただ恩給を出し続けるだけではなく、少額にしてでも彼らが働けるシステムをつくり出すことが大切だと思います。実際に身体に傷ついた方はまた別のカテゴリーだとは思います。このお話を母国で語るとそれぞれがみんなが熱い想いがあり、語るのにはとても微妙な題材です。
――ナジフさんたちのように、ロマの人々は保険証を持ってない方が多いのですか。ボスニアの保険証の現状について教えて下さい。
DT 正確な数字は分かりませんが、90%、もしくは99%のロマの人が失業されているという、恐ろしい状況を耳にしています。雇用がないと保険証が持てず、それによって学校に通えない子供たちも多いのです。そのため、多くのロマの方々は、ナジフのように子供に教育を受けさせるために、医療保障のない日雇いの職につくことを余儀なくされています。ですから、保険証を持たない方が治療を受けられるかどうかは、医者の善意によって左右されるのです。
ボスニアはロマだけに限らず、国自体が経済復興のきっかけをつかめないまま現在まできてしまいました。しかしその中でも、私は少し変化がおとずれていると感じています。もしかしたら、今後EUに入ることが一つのきっかけかもしれません。自国だけでの解決はなかなか難しいので、他の国々が共に助け合っていくという意思が示されれば、今後変わっていけると信じています。
――先進国の日本でも保険証を持っていないなどの問題が表層化されていますが、いかが思われますか。
根本 専門でなはないのですが、アメリカでもリーマンショック後にトレーラーハウスなどで暮し、教育を受けられない子供がいる現実があり、日本以外の国でも深刻になっている問題だと思います。
DT 日本という国は聡明な方々がいるので、社会的なシステムが上手く機能していないと誰かが感じれば、それを変えていける力を持っていると思います。我々は、もっと世界をよく見て考えて行動するという事が重要なのではないのかと思います。人は責任をもっと果たすべきだとも思います。
憲法は変えなければならないと思えば、変えればいいのです。そのような形で、一市民として社会に対して責任を持って行動すべきではないでしょうか。本当に大きな問題が起こる前に自分たちが考え行動に移さなければならないと思います。
――最後に一言いただけますでしょうか。
根本 ぜひこの映画を観た皆さんが、我々の社会の中のマイノリティに気づくきっかけになれればと思います。
片柳 この映画のエピソードを日本の事に置き換えて考えてほしい。ぜひ多くの人に観て頂きたいです。
DT ぜひ日本になぞらえて観客のみなさんが考えるきっかけになれば最高です。今日はありがとうございました。(了)
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|ゲストプロフィール
根本かおる氏
国連広報センター所長(東京)。東京大学法学部卒。テレビ朝日を経て、米国コロンビア大学大学院より国際関係論修士号を取得。1996年から2011年末までUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)にて、アジア、アフリカなどで難民支援活動に従事。ジュネーブ本部では政策立案、民間部門からの活動資金調達のコーディネートを担当。WFP(国連世界食糧計画)広報官、国連UNHCR協会事務局長も歴任。フリー・ジャーナリストを経て今年8月より現職。著書に『日本と出会った難民たち-生き抜くチカラ、支えるチカラ』(英治出版)他。
片柳真理氏
元上級代表事務所(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)政治顧問。国際学修士(東京外国語大学)。国際人権法修士(エセックス大学)。法学博士(ウォーリック大学)。96年8月から97年12月まで国連ボランティアとして国連東スラボニア暫定統治機構(UNTAES)人権担当官、民政担当官を務める。2001年1月から2003年8月、在ボスニア・ヘルツェゴヴィナ日本大使館専門調査員。2004年4月から5年半にわたりボスニア・ヘルツェゴヴィナの和平合意の文民面を監督する上級代表事務所(Office of the High Representative)にて政治顧問(Political Advisor)(2009年1月までは日本大使館からの出向)。2009年11月から2013年6月、JICA研究所研究員。同年7月から10月、同研究所主任研究員。著書にHuman Rights Functions of United Nations Peacekeeping Operations (Kluwer Law International, 2002)。現在埼玉大学非常勤講師。
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『鉄くず拾いの物語』
監督・脚本:ダニス・タノヴィッチ出演:セナダ・アリマノヴィッチ、ナジフ・ムジチ
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ=フランス=スロベニア/2013年/74分/カラー/ビスタサイズ
原題:An Episode in the Life of an Iron Picker /配給:ビターズ・エンド
公式サイト http://www.bitters.co.jp/tetsukuzu/
★新宿武蔵野館にて公開中。他全国順次公開予定!
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|監督プロフィール
ダニス・タノヴィッチ
1969年ボスニア・ヘルツェゴヴィナ生まれ。サラエボのフィルム・アカデミーで習作を数本撮った後、 92年のボスニア紛争勃発と同時にボスニア軍に参加。「ボスニア軍フィルム・アーカイヴ」を立ち上げ、戦地の最前線で300時間以上の映像を撮影。 その映像はルポルタージュやニュース映像として、世界中で放映された。94年にベルギーに移住してINSASで再び映画を学ぶ。2001年にボスニア紛争を描いた『ノー・マンズ・ランド』で監督デビューを果たし、 アカデミー賞(R)外国語映画賞、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞などを数々の賞を受賞する。 05年にはエマニュエル・ベアール、キャロル・ブーケなどフランスを代表する俳優たちを起用し、クシシュトフ・キエスロフスキの 遺稿を映画化した『美しき運命の傷痕』を発表。その後、コリン・ファレル主演の「戦場カメラマン 真実の証明」(2009)、 「Circus Columbia」(2010)で、戦争とその結果について描いた。08年ボスニア・ヘルツェゴヴィナにて「私たちの党」という政党も立ち上げている。