【Review】 <自然>とは何か―露口啓二×倉石信乃「Natural History」 text 吉成秀夫


また、ここでいう<自然>とは、そういった手がかりなしには決して捉えることのできないものであり、人間世界とはつねに並行していて決して交わることのない物質世界の謂いの裏返しでもある。倉石の詩的でありかつ批判的である思考は、世界に不可知の領域があることを教える。対象が<自然>であっても<写真>であっても、倉石の思考はつねに厳密であるがゆえに不可知としかいいようのない世界を感知させる。 露口の写真と倉石の言葉は、どちらかがもう一方の説明や証拠になろうとする役割からは遠く離れて屹立しお互い超然としているように見える。写真と言葉はパラレルであって決して交わらない。倉石の言葉にあるように「険しい山岳でも 深い海底でもない むしろ周囲の」身近にあるような自然であっても「そこにあるだけですでに逃げ去るもの」として自然の写真が映し出されているのだ。
ここにきて、気づくことがある。作品の言葉を見ることでつい<自然>への考察に連れ出されてしまったが、私たちが見ていたのは、自然そのものではなく、自然のような<写真>なのであった。ここで倉石がいう<自然>という言葉は、<写真>と言い換えることができるだろうし、それは同時に写真がもつ機能であるところの<記録>であり、<証言>であり、<観察>のことである。これら対象を補足しようとすることへの不可能な挑戦の姿勢を読みとることができる。つまり、無口な自然の風景さえ満足に正確に捉えることができないのだ。そのときドキュメンタリーは可能なのかという問いも同時に浮かんでこないだろうか。

さて、展示会場であったモエレ沼公園は、もともと大河・石狩川の蛇行の一部だったところが三日月形に取り残され沼になった地形である。しばらく札幌市のゴミの埋め立て地として利用されていた。その場所がイサム・ノグチ設計によって人々の憩う大規模な公園になったのだ。公園内には遊具や建物施設のほか人口的に作られた山、林、泉が配置され、冬になるとそれらすべてを雪が覆って一面真っ白になる。人口の<自然>であってもそこに人は生き、動植物の生命が宿され、大きな地球環境の一部をなしている。
新しい自然、新しい生死、新しい生物・物質による世界。「Natural History」の<自然>は、会場のこの公園を覆う雪の風景と間違いなく一続きに繋がっている。否応なく現在を生きなくてはならない私たちにとって、これも<自然>なのだと希望とともに批判する作品であったように思われる。降り積もる雪に新しい足跡をつけて会場を去った。


【執筆者プロフィール】 吉成秀夫(よしなりひでお) 77年生、編集者・古書店店主。小作品に「予言」(現代詩手帖特集版「ル・クレジオ 地上の夢」)、「密生する横顔」(文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』の栞)など。小冊子「アフンルパル通信」発行人。