【Review】「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」 text 岡本和樹 


東京都写真美術館で「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」が開催され、同名の書籍も発売された。一般的には写真集『カメラ・眼×鉄・構成』(1932年)での機械的な構成美からなるモダニストとしての堀野正雄の姿が有名であるが、本展覧会ではそれだけに留まらない写真家・堀野正雄の豊かな全体像が俯瞰できるようになっている。

《優秀船に関する研究》1930年 『カメラ・眼×鉄・構成』より

 

私が個人的に興味深かったのは、「グラフ・モンタージュ」という写真実験と、植民地支配下の朝鮮や中国大陸での彼の眼差しであった。

まず、「グラフ・モンタージュ」は、都市の姿をあるテーマによってモンタージュすることで表象しようとしたものだ。これは、1931年11月から1932年9月までの間に雑誌「中央公論」「犯罪科学」に掲載された。展覧会と同名の書籍による解説では「「グラフ・モンタージュ」とは、「複数の写真をあるテーマにそって有機的にレイアウトし、それを印刷術と結びつけることによってメディア化して、表現を社会的に展開しようとする試み」とある。そこには、表現を表現内部で完結させず、より広い視野で社会との媒介物として捉えようとした、今日でいう現代アートの様な試みであったと言っても過言ではないだろう。勿論、当時言われていた社会という意識は左翼思想に基づいて考えられていたものであり、そこで主張されているものは左翼思想のプロパガンダでもあった。だが、そもそも当時の前衛芸術は、社会変革と芸術変革とが分かたれずに存在していたのであり、そこにあった表現としての可能性は、一口に左翼プロパガンダと切って捨てられる程単純なものだけではない。そこには表現の大きな可能性も隠された鉱脈の様に内在されているのだ。

そして、この試みが堀野一人によって為された訳ではなく、他の作家との共同制作だという点も興味深い。モンタージュという手法自体がある複数性を有しているが、共同制作によってその主体がさらに分散され、それによって、ある作家の意志による表象というものを超えた都市や時代のうねりの様なものが浮かび上がってくる。これは同時代のシュールレアリスムの問題意識とも重なるものだろう。

 

 

具体的に作品を見ると、共通して、一般的に思われている都市のイメージを、別の視点から捉え直すことで相対化することが意図されている様に思う。そして、そこからは歴史に記述される大きなものではなく、歴史に記述されない小さなものや細部への強い意志も読みとることができる。「首都貫流‐隅田川アルバム」(監督編輯:村山知義)では、川からの眺めという普段はなかなか見ることのない視点から、そこで暮らす人々の姿や都市の姿が映し出され、その視点により、一般的に思い浮かべる華やかな都市のイメージは相対化される。また、「玉川べり」(シナリオ:北川冬彦)では、差別され一般的にメディアに取り上げられることもなかった川べりに住む朝鮮人部落の生活が描かれ、「蔓延する東京 その1」(構成:武田麟太郎)では貧困な労働者の家庭生活が描かれる。この様な表に現れない、正史には記述されない底辺の生活を、メディアを通して流布することで、社会の意識を反転させようとしたのだろう。

更に、表現形式においても極めて面白い試みが為されている。モンタージュによる効果を活かし、躍動する都市の息吹を見事に表現した「大東京の性格」(編輯:板垣鷹穂)。そこではリズミカルに写真がモンタージュされ、都市の喧騒やネオンの煌めき、街外れの静寂など、まるで音を伴った動画を見る様な時間が流れている。また、「ゲット・セット・ドン」(編輯:大宅壮一)では、モンタージュを笑いの起爆剤として使い、「終点」(編輯:「犯罪科学」編集部)では、多重露光によって都市のノイズを表現している。

 

 

この様に、これらの写真実験には今日の視点から見ても、極めて豊かな表現の在り方が提起されていた。

もう一点、私が興味深かったのは、植民地支配下の朝鮮や中国大陸を写した堀野の眼差しだ。上でも述べた様に、堀野は左翼表現にも関わってはいたが、その後の活動は国策に乗ったものとなった。心の内に複雑な思いがあったのかどうかは解らないが、少なくとも写真からはその迷いは一切感じられない。堀野が朝鮮総督府鉄道局の依頼で朝鮮全土の撮影を始めるのは1938年、「グラフ・モンタージュ」をやっていた時から僅か6年後のことだ。そこでの彼の眼差しは以前朝鮮人部落を撮影した際の眼差しと変わることがなく、善意と撮ることの喜びに満ちている。写真を歴史と時代との文脈から切り離し、ただ一枚の写真としてだけ見たら、とても美しいものだと個人的には思ってしまう。しかし、その善意と美しさは、日本が大東亜共栄圏の理念を掲げ、日本の侵略を正当化していった理想の姿と一致していた。つまり、堀野の意志はどうであれ、この表現は侵略と戦争を後押ししたのだ。

写真はどのような文脈に置くかで、その意味は全く異なったものとなる。堀野の写真は一貫して、目の前の被写体に対し純粋に善意を持って撮影したものなのだろう。だが、同じ朝鮮人を写したものでも、それが左翼表現の文脈では、差別や苦労を強いられる中でも懸命に生きる美しい人間の姿となり、国策の文脈では、他民族との美しい共生という絵空事を表象することとなった。

表現は純粋でありさえすれば良いという立場もあるだろう。だが、作品に批評性を込めるかどうかはともかくとして、作家の社会や時代への批評的な意識は極めて重要なのだと思う。それがないと単に状況に流されてしまう。そして、無意識に戦争を後押しする様なことにもなりかねない。だが、もう一方で、社会問題や政治問題を扱いさえすればよいという単純なことでもない。嘗ての社会主義リアリズムの作品がそうであったように、一義的にある思想を流布する為の表現には、国策を流布するのと同様の危うさが存在する。嘗ての左翼表現の中に、大きな可能性が鉱脈の様に残されていると書いたが、そこにある原石が宝石としての輝きを得る為には、無数の研磨を必要とする。

批評性とは状況に流されないことだと思う。一般的に言われているあらゆる言説を疑い、自分の頭で思考し、表現すること、そのことがあらゆる表現者に求められている。2011年3月11日の震災と原発事故によって、表現の在り方も大きく変わった様に言われている。だが、そこにある表現の、批評の、根本的な問題は、震災以前もそれ以後も、実は何も変わっていないのではないか。今、その問題を注視する眼と意志が強く求められているのだと思う。写真家・堀野正雄もそうだが、過去の作家を見つめるということは、その作家を鏡とし、今自分の置かれている状況を見つめ直すことでしかないのだから。そして、そこから自分の振る舞い方を考えることでしかないのだから。

 

  

「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」
東京都写真美術館 2012年3月6日~5月6日[会期終了]

展覧会図録『幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界』 発売中
判型 A5判   ISBN 978-4-336-05476-0
ページ数 354 頁   定価 3,675円 (本体価格3,500円)

 

【執筆者プロフィール】岡本和樹 おかもと・かずき 1980年生まれ。映像作家。天井桟敷の市街劇をテーマにしたドキュメンタリー映画やあがた森魚の日記映像を月刊で映画化する試みなど、表現と現実との関わりをテーマに作品を作っている。最新作はワークショップ形式で川口市民にカメラを渡し街の姿を記録した『隣ざかいの街‐川口と出逢う‐』(2010)。現在は川口市民と共同でフィクション映画を作る企画を進めている。