今年の3月11日、つまり東日本大震災から3年が経過したその前後には、震災を振り返るコメントがSNSでも氾濫を見せていた。内容はさまざまだったが、私が見た中では「まだ何も終わっていない、今後とも継続的な支援が必要だ」といった発言や、「震災は風化しつつある、だからこそこの記憶を繋げよう」といった発言が存在し、その発信者もまた、老若男女さまざまであった。しかし、そのほとんどに共通していたのは、表面をなぞっただけの耳触りのいい言葉や表現に終始しており、その枠から一歩も外を出ていない、ということだった。
SNS(特にfacebook)というサービスの特性上、「原発を推進したやつらを八つ裂きにしてやりたい」といった暴力的、またネガティブな発言が許容されないのだと言われればそれまでだが、震災のような日本にとって未曽有のできごとは、本来もっと幅広い視点から議論される必要がある。それが上記のような、何のひねりもない「画一的なきれいごと」に収斂されているということ。これは結局、それだけ人々の意識が、震災を形骸化させる方向に動いていることを示しているのではないか。私はそういった違和感を払拭することができなかった。
そもそも、故郷を離れて他県での暮らしを余儀なくされている方たちのことや、原発事故を受けての放射線の今後の影響などを考えると、「記憶の風化」などという言葉は、都会人の傲慢な思い上がりでしかない。言ってしまえば当事者意識の欠落が、上記のような「耳触りのいい言葉」を生み出し、そして浸透させていくのではないか。私の心にはそのような疑問が生まれ、そして張り付いて離れなかったのである。
本作『あなたを抱きしめる日まで』を観ながら、私はその思いを強くした。これは恥ずべきことなのだが、私はこの映画を観るまでは、中身についてはほとんど期待していなかった。第一、邦題がよろしくない。言い方に語弊があるかもしれないが、まるで三流メロドラマのようなタイトルである。「母もの」であるという情報も手伝って、名匠フリアーズの作品とはいえ、お涙頂戴のウェルメイドな作品としか思っていなかった。
ところが本作は、むしろ“ウェルメイド”にのっけから反旗を翻した、そしてそれこそが深い感動を呼ぶ作品なのである。この映画ではさまざまなウェルメイド性、言い換えれば「適度な耳触りのよさ/わかりやすさ」を求める感情が表出するが、その最たるものは、ジャーナリストであるマーティンや、また彼の上司が追求するウェルメイド性である。マーティンは鎮痛剤を打たずに出産の施術を行った修道女たちを「邪悪」と形容し、生き別れになった親子=フィロミナとアンソニーを会わせなかったその親玉を、「神に裁かれるべき行為だ」と断罪する。かつてはカトリックであったことから、マーティンが自身との対立概念としてカトリックを捉えていることは想像に難くないとはいえ、修道院の行いは確かに非人道的なものではある。出産の際に十分なケアを行わず、多くの母子を死亡させたことや、出産した少女たちに強制労働を行わせたこと。また養子という名目で親子をバラバラにさせたことなど、その功罪を数え上げればそれこそきりがないだろう。週刊誌で特集を組むとしても、読者の怒りを呼ぶには十分なネタに違いない。
しかし記事、ひいては映画全体の内容として「修道院の非道さに引き裂かれた親子の悲劇」といった語り口になってしまうと、それは結局“ウェルメイド”に終始してしまう。個人が大きな組織、または権力の犠牲になるというのは語り口として一般的であり、そこでは大抵の場合、個人に特有の記憶や経験などは意味をなさなくなってしまうからだ。園子温の『希望の国』(2012)などを例に挙げるまでもなく、映画としてもそうした失敗例は無数に存在する。言ってしまえば、個人の不幸を社会に帰することは決して難しいことではなく、むしろそれこそが社会を描く上でのスタンダードと呼べるのである。
私はこの“ウェルメイド”自体を否定するわけではない。私たちが生きる上での基本的な倫理は、誰かから教えられる「カタ」があってのものである。このカタがなければ、私たちは何かを悪いと思うことも、良いと思うこともできないだろう。しかし、誰かの人生に深く関わるような、真に当事者としての立場に立つようなときには、私たちはカタ=ウェルメイドから一歩抜き出た、独自の倫理を構築しなければならないのではないか。私はマーティンの姿勢から、そうした思いを強く持った。
映画全体の山場となるのは、すべてを知ったヒロインのフィロミナが、修道院の親玉であるヒルデガードに語りかけるシーンである。先述のように、マーティンはヒルデガードに対して強い怒りを向けるが、フィロミナは彼女を許し、運命を受け入れると告げる。なおもヒルデガードに詰め寄るマーティンに、これは私の問題であってあなたの問題ではない、とも。これはフィロミナが、マーティンが追求する“ウェルメイド”にはっきりノーを突きつけた瞬間である。もちろんそれは容易な選択ではなく、大きな苦しみが伴っている。それでも、憎しみを捨てる彼女の高潔な姿勢に、私たちは大きな感動を覚えるのだ。
フィロミナは一見普通のお婆さんだが、映画が進行するにつれ、彼女の持つ魅力が伝わってくる。30年間看護師として働き、クリスチャンとして慎ましやかな生活を送っているフィロミナだが、その反面ロマンス小説の世界にどっぷりと感情移入し、セックスの快楽をあけっぴろげに語るような、愛らしさや豪快さも同時に持ち合わせている。また彼女は、アンソニーがゲイであったという事実もごく自然と受け入れ、そうした息子の本質はなんとなくは分かっていたと語る。他にも数々の印象的なシーンはあるにせよ、彼女の懐の深さや情の篤さが、ここからも十分に伝わってくるだろう。
豊かな個性や情の篤さを持つフィロミナだが、しかし彼女自身が、“ウェルメイド”を求めていたような描写も垣間見られる。例えば、アンソニーはホームレスになっていないか、麻薬中毒になっていないかと心配するシーンや、実はアンソニーとの面識が存在したマーティンに対し、握手は力強かったか、声質はどうだったかと尋ねるシーンだ。一見すると息子の幸福を祈るような、母親としてはごく普通の行為であるように思われるが、実はこうした問いの中には少なからず、「耳触りのよさ」を求める感情が含まれている。言い換えれば、彼女は自分の息子が認められる地位にあるか、他人から称賛されるような存在かといった「世間一般の幸福」を求めているのであり、ここでは固有の人格、また経験を重視するような姿勢はほとんど見られない。これは日本でいう、世間体がどうといった発言とほぼ同義であり、私たちはここから、“ウェルメイド”を求める感情が自身の根本に植え付けられている、そのことを改めて認識する。
それでもフィロミナは、自分の息子がゲイであったという事実を受け入れ、最後には親子を引き裂いた張本人であるヒルデガードをも許す。彼女にはヒルデガードや修道院を、一生涯にわたって憎み続けるという選択肢もあったはずである。それを選んでも世間からは後ろ指をさされず、むしろ当然の感情だと同情をされたことだろう。しかし彼女は苦しみを抱えつつも、「許す」という選択肢を選んだ。これは彼女が完全に“ウェルメイド”から脱却したとともに、マーティンに行くべき道を示した行為であるとも言えるだろう。世知にたけたエリート階層であるマーティンだが、彼は次第にフィロミナの人格に惹かれていき、人間としての本来の生き方を見つめ始める。彼の最後の台詞からも、彼自身が記者としての“ウェルメイド”から脱却したことが私たちには伺える。
俗世的な価値観におもねった結末ではなく、自分たち自身で選択した最高の結末。最後の「100万年に一度の結末」という台詞は、“ウェルメイド”のはるか先に進んだ、この類稀な秀作にこそ相応しい。
【作品情報】
『あなたを抱きしめる日まで』(原題 Philomena)
(2013年/イギリス/98分/カラー)
出演:ジュディ・デンチ、スティーヴ・クーガンほか
原作:マーティン・シックススミス『The Lost Child of Philomena Lee』
監督:スティーヴン・フリアーズ
脚本:スティーヴ・クーガン、ジェフ・ポープ
配給・宣伝:ファントム・フィルム
公式サイト:http://www.mother-son.jp/
3月15日(土)より全国でロードショー公開中!
【執筆者プロフィール】
若林良(わかばやし・りょう) 1990年生まれ。早稲田大学大学院在学中。映画批評誌「MIRAGE」編集&ライター。現在映画サイトを中心にライター活動に注力中。第二次世界大戦を題材にした国内外の作品群に強い関心を持つ。